孟徳×花 (三国恋戦記)


 丞相帰還の宴はすでに始まっている。
 本来なら主賓である丞相の登場を待つべきところだが、当の孟徳の帰還が予定より遅れてしまったこと、宴に出る前に元譲からの報告を受けねばならないこと、そして参加者が丞相直属の近衛隊を主とする側近ばかりの内輪の宴であることから、かまわず先に始めるようにと孟徳直々のお達しがあってのことだ。
 丞相の奥方である花も先に上座に陣取り、そこで夫を出迎えることになっている。
 今この時も、宴の間へと続く回廊を行く孟徳と元譲の耳に、ざわざわとした喧騒が届いていたのだが。

「……やけに騒がしくないか?」
「お前もそう思うか」

 訝しげに呟いた元譲に、孟徳も同調する。
 宴は丞相公認での無礼講だ。見目の良い女官たちも侍るし、上等な酒も振舞われる。
 この時ばかりは部下たちは多少なりとも羽目を外し、日頃の憂さを忘れておおいに盛り上がるから、騒々しいこと自体は全くおかしくない。
 しかし今夜はどうも様子が違うように感じられる。
 さっきから、賑やかというよりも、妙にざわめいた気配が届いてくるのだ。
 そして宴の間の扉をくぐった瞬間、孟徳と元譲はその理由を己の目で知ることになる。
 二人はそこで信じられないものを見た。
 ―――孟徳の最愛にして唯一の妻が、元譲と並んで孟徳の片腕と呼ばれている堅物男の席に侍り、彼の体にべったりとへばりついている姿を。
 ―――自分にへばりつく上司の妻をなんとか引き剥がそうと、しかし乱暴に振り払うこともできず、「いい加減に離れぬか!」と声を荒げて四苦八苦している堅物男こと文若の姿を。
 ―――そして、やはり文若から主君の妻を引き剥がそうとして、しかし丞相夫人に気安く触れることができず、結局おろおろと状況を見守ることしかできないでいる宴の参加者たちの姿を。
 孟徳の両のまなこは、その光景に釘付けになっていた。表情を変えるでもなく、言葉を発するでもなく、ただ呆然とその場に立ち竦んでいた。
 元譲もその光景にしばし言葉を失っていたが、はっと我に返り、おそろしく俊敏な動きで隣に佇んでいる孟徳の手を強く押さえつけていた。
 元譲の隻眼は見逃さなかったのだ―――おそらく孟徳自身、無意識の行動だったのだろうが―――その瞬間、音もなく、孟徳の手が腰に帯びた剣の柄にかかったことを。
 そして元譲が素早くそれを押しとどめたというわけだ。

「孟徳」

 腹心の部下であり従兄弟でもある元譲の諌めに、孟徳もまた静かに我を取り戻し、しかし眼光鋭く目を細めた。

「―――何をしている」

 いつになく威圧的かつ、おそろしく冷ややかな声に、そこにいた者たち全員がようやく丞相のおでましに気づき振り返る。
 花と文若を除く全員が一瞬「しまった!」と言わんばかりの表情を浮かべ、次の瞬間には皆が皆、一斉に膝を折り、丞相に拱手を捧げた。
 しかし、そんな部下たちの姿など眼中になく、孟徳の視線は、ただ一点を向いている。
 ―――むろん、彼の視線が向かう先は文若と花だ。

「何をしていると聞いているんだ、文若」

 赤壁での大敗でも聞くことがなかった地を這うような声音に、そこにいた者たちは皆、孟徳の怒りの深さを肌で思い知らされ、息を呑んだ。
 それは元譲ですら例外でなく、宴会場が一瞬にして絶対零度に陥り、緊迫した空気に包み込まれる。
 紙一重のところで押しとどめられている孟徳の殺気を直接その身に浴びることになった文若も、普段ならば真っ向から孟徳に対峙しただろうが、今回は常にない孟徳の迫力に呑まれ、一瞬言葉を詰まらせた。
 しかし孟徳には、たった一瞬であっても目の前の状況が続くことが許しがたい。

「申し開きをする前に、まずは俺の妻から離れろ」

 命じることに慣れた男の傲然とした命令が下される。
 文若は即座にその命令に従おうと改めて花を引き離そうとしたが、それを阻んだのは他ならぬ孟徳の愛妻、花だった。
 花は自分を振り払おうとする文若の腕に逆に腕を絡ませ、木にしがみつくコアラのごとき姿で文若により強くしがみついたのだ。

「文若、貴様……」
「待て孟徳! どこからどう見ても文若にしがみついているのは花のほうだ!!」

 今度こそ明確な意志のもとで剣を抜こうとした孟徳の手を、青ざめた元譲が再び押さえつける。
 一見優男に見えて実は武人としても一流の孟徳であるが、体格の差は如何ともしがたく、腕力では元譲には敵わない。
 孟徳は己の行動を二度に渡って阻止した元譲を酷薄な瞳で睨みつけるが、元譲は怯まずに孟徳を正面から見据え、先程と同じ内容の台詞を言い聞かせた。

「落ち着け、孟徳。文若が花に無体を働いているわけじゃない。花が――お前の妻が、文若から離れないんだ」

 たとえ目に見えて花に溺れていても孟徳が政や戦で道を誤ることは皆無だし、異国出身の妻に刺激されてより斬新な改革を行い、孟徳の評価は以前よりもさらに高まっている。
 夫の権力を笠に着ることなく、軍師として華々しい戦歴を持ちながらも「気立てが良くて慎ましい、ごく普通の娘さん」のままの花もまた、軍内で安定した評価を得るようになっている。
 それなのに―――孟徳は天才と称されるほど明晰な頭脳と人の心の中を盗み見できるかのごとき観察眼を備えているくせに、色恋沙汰で花が絡んでくると途端に盲目になるからおそろしい。
 元譲は内心でおおいに呻き、頭を抱えていた。

「…………」

 孟徳は無言のまま、忌々しそうに元譲の手を振り払った。
 それでも元譲の言葉に一応は納得したのか、孟徳がそれ以上、激情のままに行動する素振りは見られない。
 孟徳の苛立ちはまだまだ収まりを見せてはいないが、ほんの少しだけ殺気が薄れたのは間違いなく、孟徳の激昂ぶりに固唾を呑んでいた孟徳の親衛隊と女官たちも、ほうっと安堵の息を漏らした。

「花ちゃん、文若から離れて」

 孟徳は表情を少しだけ和らげ、先程文若に向けた言葉より数段柔らかい声音で花に告げた。
 花は文若の腕にしがみついたまま、ぶんぶんと大きくかぶりを振る。
 その花の回答に焦れたように、孟徳は少しだけ語気を強め、もう一度促す。

「花ちゃん、今すぐこっちにおいで」

 しかし花は返事をせずに、先程よりさらに激しく首を横に振り続けるのみだ。
 再び場が緊迫した空気に包まれた。
 孟徳が最愛の妻にとんでもなく甘いことは、孟徳の側近だけに、この場にいる誰もがよく知っている。
 しかし、基本的に誰に対しても素直で聞き分けのいい花が、ここまであからさまに反抗的とも言える態度を示すことは滅多にない。
 それに今は、本来なら貴人の妻は夫以外の男性と口を聞くことすらみだりに行うべきではないとされている時代なのだ。
 夫の目の前で、目に入れても痛くないほど溺愛している妻が他の男に抱きついて離れないなど、いかに花に対して寛容な孟徳といえど―――否、花に関することでは誰よりも狭量な孟徳だからこそ、許しがたいはずだ。
 夫としての面子を潰されたからだとしても、激しい嫉妬からだとしても、もしこの場で孟徳が逆上して花に斬りかかろうとしたら、さすがの元譲でも止められないのではないか。
 誰もが皆、それを恐れ、孟徳と花のやりとりから目を離せずに凍りついていた。
 花と文若から目をそらさぬまま、孟徳がゆったりとした動作で一歩前に進もうとした、その時だ。
 それを阻もうとするかのようなタイミングで孟徳の近衛隊の隊長である男が孟徳の御前まで走り出て、その場で片膝をついた。

「丞相、どうかお待ちを!」

 感情の読めない表情ながらも孟徳がひとまず足を止めたことに心の中でほっとしながら、近衛隊長は硬い表情を崩さぬまま再び礼を捧げ、そして孟徳に奏上した。

「奥方様は酔っ払っていらっしゃるのです。そしてそれは我らが咎。責めを負う覚悟はできておりますゆえ、どうぞ奥方様をお叱りになりませぬようお頼み申し上げまする!」
「なに?」

 素っ頓狂な声をあげたのは孟徳ではなく元譲だった。
 元譲が改めて花の様子を窺うと、なるほど花の両目はとろんと潤み、焦点が合っていない。
 体もゆらゆらと小さく揺れているところを見ると、花が文若にしがみついているのは不貞などではなく、ふらつく体を支えるためではないかと思えてくる。
 近衛隊長がその場しのぎの虚言で場を収めようとしたわけではなく、花は明らかに酔い潰れる一歩手前といった風情だ。
 しかも文若の席の近くには、そこかしこに酒壺と杯が転がっているではないか。
 あまりに衝撃的な光景を目の当たりにして全神経が麻痺していたのか、こんな簡単な事実に気づけなかったとは元譲にとっても不徳の致すところだ。
 なんだ、そうだったのか……と元譲が脱力したように肩の力を抜いたその隣で、しかし孟徳は腕を組んだまま、剣呑な表情を崩さずにいた。

「お前たちが無理やり彼女に酒を飲ませたのか」

 温度を感じさせない孟徳の声音に、すっかり安堵していた元譲の体が再び強張る。
 元譲は、はたと思い出した。花の生まれ育った国では二十歳になるまでは酒を飲んではいけないという風変わりな法律があるらしく、生真面目な花はこれまで周囲がどれだけ酒を勧めても頑なに断り続けてきたという実績があるのだ。
 夫である孟徳が猫なで声で勧めても、結果は同じだった。
 そんな花が今日に限って自ら進んで大量に酒を呷ったとは考えにくいし、近衛隊長も花が酔っ払ったことを自分たちの咎だと言っていた。
 つまりは孟徳が確認を求めたように、近衛隊の連中が丞相夫人に無理に酒を勧めた可能性が高くなる。
 しかしそうすると、またここで別の修羅場が起こりうることに思い至り、元譲はまた頭を抱えたくなった。
 孟徳の愛しい愛しい花に触れた文若が無罪放免になったとしても―――実際には「孟徳の愛しい愛しい花に触れられた文若」というのが正しく、また本来はとばっちりを受けた立場に当たる文若が無罪放免になるとも限らないのだが―――花を酔い潰してこんな状況を作るきっかけとなった近衛隊に孟徳の怒りが向けられる恐れがある、ということだ。
 表面上は冷静でも腹の内が怒りで滾っているに違いない孟徳だ。
 さすがにこれしきのことで厳罰を与えるほど理性を失っていないと思いたいが、なにせ花絡みの件では元譲にも先が読めない。
 元譲がいかつい顔の裏で、仲間たちの安全をどのように確保すべきかぐるぐる思い悩んでいると―――。

「彼らが夫人に無理やり酒を飲ませたのではありません」

 近衛隊長が孟徳の問いに答えるより早く、溜息交じりの、しかし断固とした文若の声がその場に割って入った。
 皆の視線が一斉に、花にしがみつかれたままの文若に集中する。

「文若。全てお前の口から説明しろ」
「了解いたしました」

 孟徳の命を受けて、文若がいつも皺が寄っている眉間にさらに深い皺を刻み、不承不承といった顔で事のあらましを語りだした。
 話は至って単純だった。
 宴会には酒がつきもので、今夜の主だった参加者である孟徳直属の近衛隊の面々は見事なまでの酒豪揃いだった。
 酒を飲まない者が酒宴で浮いてしまうのは、どの時代、どの世界でも変わらない。
 その理屈に則り、この夜、浮いた姿をさらしていたのは普段から酒を嗜まない花と限りなく下戸に近い文若の二人だけだった。
 しかし上座におわす主君の奥方に無理に酒を勧めることは許されない。
 となると標的になるのはいわずもがな、文若一人になる。
 かくして、普段はお堅く付き合いの悪い尚書令殿に飲めや飲めやの酒攻めが始まった。
 強引ではあるが、もちろん付き合いの長い者同士、そこには親しみの情があるし、文若自身、宴で一滴も酒に付き合わないのは無粋だと分かっているため、強く断りきれないものがある。
 しかし杯一杯程度でも酔い潰れ、皆の前で醜態をさらすことも分かっているため、文若はやはり同僚たちの誘いを断らざるを得なくなる。
 そんな時だった。宴が始まってからずっと上座で静かに茶を啜るだけだった丞相夫人がいきなり文若の席までやって来て、文若に押し付けられていた杯を奪い取ったのは。
 そして、「お酒を飲めない人に無理やり飲ませたら駄目です! 急性アルコール中毒になっても、ここでは119番できないんですよ!?」とこの国の人間には一部分よく分からない発言をしてから、杯になみなみと注がれていた酒を一気に飲み干してしまったのだ。

「つまり花ちゃんは自らお前の身代わりになったというんだな?」
「はい。私には花が……いえ、夫人が酒に強いようには到底見えませんでしたので、それ以上はやめるよう申したのですが……」

 歯切れの悪い文若の後を引き継いで、近衛隊長が口を挟んだ。

「奥方様はその後も据わった目で、『今夜は飲みたい気分なんです。じゃんじゃんお酒を持ってきてください』とおっしゃったので、我々も従うしかなく……」
「馬鹿が! たった一杯で目が据わっているなら、それ以上は飲ませるな!」

 元譲のもっともな言い分に、隊長を始め、身に憶えのある面々が孟徳に平伏した。
 孟徳も呆れたように溜息をつく。

「しかし、花が『飲みたい気分』とは珍しいな」
「丞相との三週間ぶりのご対面ですから、浮かれていらっしゃったのではないかと思いまして。だったらなおさら祝い酒を、と思った次第で……」

 元譲と近衛隊長とのやりとりを皆まで聞かず、孟徳は花と文若のところまでゆっくりと歩を進め、花の前で片膝をついた。
 酒が回って陶然とした目を向けてくる愛妻に向かって両手を差し出す。

「花ちゃん、もう部屋で休んだほうがいい。いい子だから、こっちにおいで」

 小さい子どもを宥めるようなやさしい夫の声音にも、花は強情に首を振った。
 やれやれと肩をすくめながらも、孟徳の眼光が微かに鋭く光る。

「花ちゃんはお酒を飲むと、わがままになっちゃうのかな? ……だったら無理やり連れて行くよ?」

 そう言って孟徳の手が花の体に触れた瞬間、ぱしん! という乾いた音が小気味よく鳴った。
 孟徳だけでなく、文若、元譲、近衛隊の面々、女官たち―――つまりは花以外の全員の目が驚きに瞠られる。
 花が孟徳の手を叩くようにして振り払ったのだ。

「私に……触らないで、くらさい」

 酔っ払い特有の、ややゆったりとした、舌足らずな喋り方でありながら、花は断固として夫の手を拒絶した。

「……花ちゃん?」

 呆然と呟いた孟徳の瞳に映る花は、どこか泣きそうで、何かを責めるような顔をしていた。




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