孟徳×花 (三国恋戦記)


 宴の間は水を打ったように静まり返っていた。
 息を呑む音さえ大きく響いてしまいそうで、誰もが息を詰めて事の成り行きを見守っている。
 もしも今、宴に遅れて参上する者がいようものなら「会場を間違えました」と即刻踵を返したことだろう。
 しかしそれはその者が会場を間違えたと本気で思っているからではなく、今この場に足を踏み入れることは危険だと本能で察知しての行動のはずである。
 それほどまでにこの場の空気は重苦しく張り詰めており、誰もが物理的にも心理的にも酷い息苦しさを感じていた。
 花に手酷く拒絶され、表情をいっそう厳しくした孟徳。
 花と文若が手討ちにならないか、固唾を呑んで見守る近衛隊の面々と女官たち。
 さすがに花を手討ちにすることはないと信じつつ、否、願いつつ、肌にぴりぴりと伝わってくる従兄弟の本気の怒りに文若の身の危険を感じ、もし次に孟徳が剣に手をかけようとした場合、自分はどう動くべきなのか苦悶する元譲。
 そして彼ら全員の視線を釘付けにしている、困惑と焦りで普段の落ち着きぶりを少なからず失ってしまっている文若と、夫孟徳の手を振り払って文若に抱きついている花。

「……孟徳、さんは」

 場の静寂を破ったのは、この緊迫した状況を作り出した張本人である花だった。

「孟徳さんは、なんれ私を部屋に帰そうとするんれすか? 私を追い出してから、綺麗な侍女さんたちと、思う存分、羽を伸ばす魂胆れすか?」

 据わった目と危うい呂律で花が発した棘のある言葉に、周囲の者たちは青ざめて息を呑み、孟徳は眉を顰めた。

「花、お前、一体何を」

 すかさず文若が口を挟むが、

「お前は黙っていろ」
「文若さんは口を挟まないでくらさい」

 と、丞相とその奥方から同時に通達されれば押し黙るしかない。
 孟徳は改めて文若と花の正面に片膝を立てて座した。今は花が梃子でも動かないだろうことを見越してのことだ。

「花ちゃん、本当に今夜は一体どうしたっていうの」

 花の手前、孟徳は殺気染みた気配をなんとか押し殺し、深いため息をついた。
 孟徳以外の者は全員、普段は素直な花が今夜に限って孟徳にやたら反抗的な態度を取っているのは酒のせいだと決め付けているようだが、孟徳にはそれだけではないような気がしてならなかった。
 むろん、花が酒に呑まれていることは間違いない。
 花は孟徳の妻となってからは、この世界にやってきてからずっと身に着けていた制服と靴を大事に仕舞い込み、夫に贈られた衣類を身につけるようになっていた。
 それはこの世界で孟徳と共に生き、この世界に骨を埋めると決めた花の覚悟の表れであり、そして、いつまでも故郷を懐かしむことで孟徳を不安にさせないようにするための花なりの思いやりでもあった。
 しかし今夜の花は、自ら封印したはずの制服と靴と軍師用の外套をわざわざ身に着けて宴に参加していたのだ。
 宴の間にやってきて花の姿を一目見た瞬間からおかしいとは思っていたが、孟徳は今、確信をもって言える―――花の今夜の装いは、孟徳に対する何かしらの意思表明と見るのが正しいだろう、と。
 つまり花は酒に酔っ払うより前の段階で、孟徳に対して含むところがあったということだ。
 しかし孟徳には花を怒らせるようなことをした覚えは全くない。
 なにせ花と会うのは実に三週間ぶりで、出掛けには花は孟徳の身を真剣に案じていたし、孟徳は花の願いどおり、こうやって掠り傷一つ負うことなく五体満足で花の元に帰って来た。
 まだ手渡せていないものの、花の喜びそうな土産だってたくさん持ち帰っている。
 予定が押していたために、いの一番に花に顔を見せることはできなかったけれど、そんなことで花が腹を立てるとは思えない。
 それがなぜ、花がこんな態度を取るに至ったのか。
 原因を突き止めなければ事態は膠着するばかりだと判断し、孟徳が花の気持ちを聞き出そうとして再び口を開こうとすると、それよりわずかに早く花が口火を切った。

「私、孟徳さんと離婚して、文若さんと再婚したいれす」
「花ちゃん!?」
「花!?」
「なんだと!?」

 花の爆弾発言を受けて、孟徳と文若と元譲の驚愕の声が重なる。
 実質的にこの国一番の権力者である夫と、その夫にひたすら盲愛されている妻と、夫の腹心の部下である間男と。
 そんな三者が一堂に会した修羅場に図らずも居合わせることになってしまった面々は顔面蒼白、心胆を寒からしめながら自分たちの不運を心底嘆き、絶望の雄叫びをあげたい衝動を必死に押しとどめていた。
 もしも自分たちのあずかり知らぬところで、自分たちとは直接関係のない有名人が起こした醜聞を耳にしたら嬉々として酒の肴にでもしただろうが、今回の当事者は自分たちが命を賭して生涯お仕えするのだと誓いを立てた主君、曹孟徳である。
 巷では血も涙もない殺戮者のように恐れられている曹孟徳が実は無益な殺生を好まない、理性と分別のある人間だということは、孟徳の側で仕える者なら誰もが知っている。もちろん風評の全てが誇張ではなく、徹底した合理主義のもと、戦や政の世界では苛烈になれる孟徳が、そういう一面を持ち合わせているのも事実であるのだが。
 しかし戦と政の関係しないところで孟徳最愛の花が絡んでくると、その理性をどこまで保っていられるのか―――孟徳の側に仕え、丞相夫妻を日々目の当たりにしている彼らだからこそ、不安を隠せずにいられない。
 それほどまでに、孟徳の側近たちから見た孟徳の花に対する愛情と執着は尋常ではなかったのだ。
 可愛さ余って憎さ百倍となるのか、それとも。
 孟徳が最愛の妻の不貞と醜聞をなかったことにするために、妻の秘密を知る者全てを口封じのために闇に葬り去ることだって、有り得ない話だとは言い切れない。
 果たして自分たちは明日の朝日を拝むことができるのだろうかと、戦場でも滅多に味わうことのない恐怖に押し潰されそうになっている彼らの目の前で、彼らの願いを嘲笑うかのように丞相夫妻と間男の修羅場はますます加熱していった。

「文若……、貴様、俺の留守中に花ちゃんに何をした……」
「文若……、まさかお前、本当に」

 地を這うような孟徳の声と驚愕に彩られた元譲の声が重なり、文若は日頃から細い細いと揶揄されている両目を最大限まで開いて叫んだ。

「私が人の妻に、それも長年お仕えしてきた丞相の奥方に何かするはずないでしょう!」
「花ちゃんが以前のようにお前の補佐をすることになったのをいいことに、開いているのかいないのか分からないその目で色目を使ったのか」
「愚かなことをおっしゃらないでいただきたい! そもそも私が花の補佐を願い出たのではなく、丞相が許可なさったことではありませんか! それに、花が仕事に復帰するのはまだ一月近く先の話だとお忘れか!?」

 常になく声を張り上げて反論し続ける文若の後を引き継ぐようにして、花が憮然として男たちの会話に割り込んできた。

「変な誤解、しないでくらさい。文若さんは、女好きの孟徳さんとは違うんれす。誰彼かまわず女の人に色目を使うような、ちゃらちゃらした男の人じゃありません。だからこそ、文若さんみたいな、誠実で浮気をしそうにない男の人の奥さんに、なりたいんれす。私が、文若さんに好きになってもらって、いつか奥さんにしてもらえるように、これから、頑張るんれす」
「お前……っ、何を言い出すのだ、花!!」

 擁護するというよりむしろ火に油を注いだだけの花に文若が目を剥いて取り乱す。
 しかし孟徳は文若以上に深く眉を顰め、花のみに視線を注いだ。

「……花ちゃん、さっきの台詞といい今の台詞といい、もしかして俺の浮気を疑ってるの?」
「馬鹿な! 孟徳がお前以外の女にうつつを抜かすはずがないだろう!」

 花は孟徳に対しては何も答えず、泣きそうな顔で元譲を睨みつけた。

「孟徳さんに逆らえない元譲さんの立場は、分かってる、つもり、れす。だけろ、やっぱり悲しいれす。だから私は、孟徳さんとグルになってる元譲さんの言うことも聞きたくありません。孟徳さんとは離婚して、元譲さんとは絶交するって、決めました」
「ぜ、絶交……!?」

 子どもの喧嘩で用いるような言葉にもかかわらず、元譲が目に見えて動揺する。
 成り行きを見守っている面々だけでなくおそらく本人ですら意外に思っているだろうほどに衝撃を受けて言葉をなくしている元譲など目にも入らない様子で、孟徳が花の両肩を掴み、花が抵抗する間もなく力ずくで文若から花を引き剥がした。
 そして自分の懐の檻に閉じ込めるようにして、花を深く強く抱きしめる。
 ようやく花から解放された文若はこの隙に自ら脇に避け、疲労の色濃く一息ついた。

「や、れす! 離してくらさい!」
「それこそ嫌だよ。離さない」

 花はその後しばらくの間、必死でもがき続けたが、所詮は非力な娘でしかも今は酔っ払った状態だ。歴戦の武将である孟徳の拘束から逃れられるはずもなく、やがて孟徳の腕の中、くったりと力を失った。
 丞相の寵を受けたいと願っている女も、自分の娘や一族の娘を丞相の妻の座に据えたがっている有力者も、掃いて捨てるほどいる。つまり、孟徳の寵愛を独り占めしている花を目障りに思い、花と孟徳の仲を裂きたがっている輩がわんさといるということだ。
 妻は花一人と宣言して以降、孟徳にしつこく迫って逆に不興を買うことを恐れたのだろう、一時に比べれば数は大幅に減ったものの、いまだ孟徳に持ち込まれる縁談が完全になくなったわけではない。

「ねえ花ちゃん、もしかして俺が浮気してるって誰かに吹き込まれた?」

 もしもそういった連中が孟徳の不在を好機と考え、花にあることないことを吹き込んだのだとしたら絶対にただでは済まさない、それ相応の代償は支払わせてやると心に誓いながら、花を怖がらせないよう、孟徳は極力やさしい声音で花に問うた。

「……直接言われたわけらないけど、聞いれしまいました」

 やはりか、どこのどいつだ―――と孟徳が怒りで歯噛みする思いでいると、花がまるで力の入らない手で弱々しく孟徳の胸を押した。
 花には逃げ出そうとする素振りも、もがこうとする素振りも見られない。逃げられる状態ではないと花本人も理解しているのだろう。
 孟徳にはそれが分かったから、そして花とまっすぐに向き合って話をするためにもそのほうがいいと考えたから、花に対する拘束を解いた。
 花の焦点の合わない、それでいて悲しげな双眸が孟徳を射抜く。

「孟徳さん、私に結婚を申し込んだ時に、なんれ言ったか覚えてますか?」
「もちろん、一言一句違えず憶えてるよ」

 異様な緊張感に包まれた側近たちと女官たちが見守る中、孟徳は頷き、躊躇いもせずに花の求める答えを口にした。






もうちょっとだけ続きます(が、現在はここまでです)





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