孟徳×花 (三国恋戦記)


『丞相が無事ご帰還なさいました』

 待ちに待った知らせを受け、喜び勇んで孟徳の執務室へと向かった花の足取りは弾むようだった。

(孟徳さん、孟徳さん、孟徳さん)

 久しぶりの再会に気持ちが逸るけれど、格式ばった丞相府で品位に欠ける行為は慎まねばならない。
 妻である自分の行いが早晩孟徳の評価に繋がってしまうことを理解している花は、走り出したい衝動をなんとか抑えつつ、可能な限り早足で長い回廊を突き進んでいく。
 婚儀を挙げてから半年。
 花と、おそらくこの国で現在最も多忙な人物であるはずの孟徳が常に一緒にいられたわけではないけれど、夫婦になってから二人が一週間以上離れ離れになったのは今回が初めての経験だった。
 孟徳軍支配下のとある地に孟徳自らが巡察に出向いたのが三週間前。
 今は諸葛孔明提唱の三国分立に向けて大きな戦も起こらず、国も徐々にではあるが安定の兆しを見せ始めている。
 孟徳の留守を預かるために文若と元譲を残していく代わりに、選り抜きの剣客揃いと世に名高い孟徳直属の近衛隊が孟徳の身辺を固めている。
 戦に出るのではないし比較的安全な場所だから安心して待っていてと孟徳にも言われていたけれど、丞相曹孟徳の命を狙う輩は多い。
 花は心配だった。
 安全だとどんなに太鼓判を押されようとも「絶対」という保証などどこにもない。
 仕事の邪魔にならないようにするから同行したいとの花の訴えが困り顔で却下されたのだって、孟徳が花と同じことを考えているからだろう。
 本当に危険がないなら、結婚前にそうだったように花を従軍させても何ら問題ないはずだ。
 そう言って花が再度孟徳に訴えても、孟徳がそれを許すことはなかった。

『本当に大丈夫だから俺を信じて留守番してて。……ね?』

 花を信じたい、花に信じてもらいたいと切望している孟徳から信じてほしいと言われると、花はそれ以上何も言えなくなってしまう。
 孟徳の仕事のことで自分のわがままをごり押しするわけにもいかないことも分かっていた。
 かくして花はおとなしく夫の帰りを待つ身となった。

 孟徳さんは元気だろうか、怪我はしてないだろうか、頭痛は――。

 花は毎日そればかりを考え、ほんの少しだけ食も細くなり、眠りも浅くなった。
 けれど不安がっているばかりではいけないと気持ちを前向きに切り替え、いつでも孟徳の助けになれるように読み書きの勉強を欠かさず、孟徳の妻として恥ずかしくないように機織や礼儀作法も習った。
 孟徳が帰ってきた時は、とびきりの笑顔で出迎えようと心に決めていた。
 それがもうすぐ叶う。
 実のところ、孟徳の帰還を告げに来た侍女には孟徳に会うのはこの後の宴まで待つようにと言われていた。
 宴は孟徳と孟徳に付き従った近衛たちの慰労目的で計画され、花をはじめ元譲や文若といった孟徳にごく近しい者たちも参加することになっている。
 宴の準備はすでに整っているが、悪天候のせいで孟徳たちの帰還が当初の予定より遅れてしまったため、時間が押していた。
 孟徳は宴の前に元譲から留守中の報告を受けなければならないらしく、花には先に宴に向かってほしいとのことだった。
 けれど花は、その前にどうしても孟徳の顔が見たかった。
 孟徳と元譲の仕事を邪魔するつもりはない。
 道中孟徳たちに何の問題も起こらなかったことも孟徳の健康状態が上々だということもすでに聞き及んでいたけれど、ただ一目でいいから孟徳の安全を自分の目で確認して安心したかったのだ。
 やがて花が孟徳の執務室に到着すると予想通り「ただ今丞相は夏侯将軍とお話し中です」と扉を守る衛兵に止められそうになったが、孟徳に声をかけるつもりはなくこっそり顔を覗くだけだと説明すると衛兵は「少しだけなら」とほほえましそうに笑い、自分は扉から少し離れた場所に移動し、花を通してくれた。
 気を遣ってくれた衛兵にぺこりとお辞儀をしてから花はそっと扉に手を伸ばす。
 中から男たちの会話が漏れ聞こえてきたのは、その時だった。

「それで例の女はどうだったんだ。首尾よく会えたのか?」
「ああ、噂以上にいい女だった。婀娜っぽくて、男を虜にする独特の色気がある」

 花の手がぴたりと止まった。
 質問をぶつけたのは元譲で上機嫌に答えたのが孟徳だ。

(……女?)

 いったい何の話をしているのか。
 花は本能的に息を殺し、体をわずかに緊張させながら中の会話に耳をそばだてた。
 詠うような孟徳の声が聞こえてくる。

「匂い立つような外見に反して華美を好まず、質素倹約を旨としているようだ。やはり見た目に反して身持ちも硬そうだし、男を立てることも知っている」
「ほう」
「家柄や気立ても悪くないし、楽や詩にも通じている。実際に言葉を交わしてみたら理知的で機転が利くことも分かった」
「べた褒めじゃないか」
「そうだな。今のところ文句のつけようがない」
「いかにもお前好みの女だな」
「まあな。国中を探し回っても、あれほどの女には滅多にお目にかかれるものじゃない。ああいうのを傾国の美女と言うんだろうな」

 元譲が言ったように、孟徳は話題に上がっている女性をべた褒め状態だった。
 世間では孟徳が色を好むとよく言われており、それが根も葉もない噂でないことは花も知っていたけれど、孟徳は花の前で他の女性を褒めちぎることはない。一瞬たりとも甘い視線を向けることすらない。
 生来女好きであっても花一人と心に定めた孟徳の態度は徹底しており、花を不安にさせる言動は一切取らなかった。
 ちなみに孟徳は花のことを可愛い可愛いと過剰に褒めちぎってくれるけれど、美しいとは一度も口にしたことがない。
 嘘をつかない人だから、たとえ花を愛していても嘘はつけないということなのだろう。
 花は自分を美人だとは思っていないからそれに関しては気にしていないけれど、孟徳の口から止め処なく発せられる、花には決して与えられることのない類の賛辞の数々に茫然となった。

(孟徳、さん……?)

 どくどくどくどく……と俄かに花の鼓動が早鐘を打ち始める。
 そんな花に追い討ちをかけるかのように、男たちのさらなるやりとりが耳に届いた。

「たしかに高官の妻には申し分なさそうだな」
「ああ、俺自身がわざわざ出向いた甲斐があったよ。実に有意義な巡察だった」

 満足そうな孟徳の言葉に花は愕然とした。
 ふらりと体が揺れる。

(今……、なんて言ったの?)

 今回の巡察は丞相が必要とされる仕事だったはずだ。少なくとも花はそのように捉えていた。
 けれど本当は違っていたのだろうか。
 珍しく孟徳直々に出向いたのは仕事のためではなく、その女性に会うことが真の目的だったのだろうか。
 そして「妻」という言葉の意味するところは?
 がんがんと耳鳴りまでし始めて、花は息を詰めたままその場に立ち竦んだ。

「いいか、この件はしばらく他言無用だからな。誰にも知られるなよ」
「しかしだな、いずれは分かることだ。……あいつが知ったら怒るぞ」

(あいつって……私?)

 断固とした孟徳の口調とは対照的に元譲の答えは歯切れが悪い。
 孟徳は意に返さず言い切った。

「怒るだろうな。なに、かまうものか。いざとなれば先に彼女を邸に入れて周囲に妻だと認知させてしまえばいい」

 その発言に、花は頭部を鈍器で殴られたかのような衝撃を受けた。

「まずは外堀を固めて、有無を言わさずあいつに妻の存在を了承させるということか?」

 しかしなあ……と明らかに乗り気でなさそうな元譲を遮るようにして孟徳が畳み掛けた。

「いざとなったら丞相命令だ。それなら納得せざるをえないだろ?」
「孟徳……、さすがにそれは火に油を注ぐだけじゃないのか?」
「俺だってこういうことに権力を振りかざすのは本意じゃないが、仕方ない。あれだけの女にはこの先もう二度と出会えそうにないからな」
「しかし、あいつの気持ちももう少し考えてやったほうが」
「くどいぞ元譲。もう決めたことだ」

 それ以上何を言っても無駄だと悟ったのか、元譲が大きく嘆息するのが扉を介した花の耳にも伝わってきた。

「悪いが、お前にはくれてやらんぞ?」
「いらん」

 ぴしゃりと言ってから、元譲が再び重い溜息をついた。

「どうなっても俺は知らんからな……」

 この先に起こるだろう嵐を暗示したかのような元譲の発言が、花が孟徳の執務室の前で立ち聞きした最後の台詞となった。

 その後のことは、よく覚えていない。
 目の前が真っ暗になって、立ちくらみがして、気づいた時には花は自室の寝台に倒れこんでいた。
 孟徳の執務室をどうやって離れたのか、どの回廊を通って自室に戻ってきたのかも、記憶にない。
 ひんやりと冷たさを感じて目を向ければ、顔を押し付けた枕が涙で濡れていることに気がついた。

(泣いてたことにすら気がつかなかったなんて……)

 ぼんやりとそんなことを思う。
 清潔な布で包まれた枕の濡れ具合を見るに、相当量涙を流していたのは間違いなさそうだった。
 この国では権力者が多くの妻を持つのは当たり前だ。
 ましてや孟徳は帝の次の地位にいる人物で、本来であれば妻が花一人という状況のほうが異常なのだ。
 花が孟徳に、自分以外の女性がいるなら結婚しませんと迫ったわけではない。
 けれど花の本音を孟徳は見抜き、妻はこの先も花一人と誓ってくれた。
 それによって生じるかもしれない不都合も全て受け入れる覚悟をもって、二人は結ばれたのだ。
 けれど孟徳は花を一人残し、嘘をつかない孟徳が絶賛するほどの女性にわざわざ会いに行き、こっそりと妻に迎える計画を立てていた。

(もう私に飽きちゃったのかな……)

 そう自問しながらも――人からは自惚れていると言われるかもしれないが――花は今この時点で孟徳に嫌われているとまでは思っていない。
 孟徳は巡察に向かう前に花に愛してるよと言い残している。そしてそれ以降、花と孟徳は顔を合わせていないから嫌われようがない。
 花に嘘をつかないと誓いを立てている孟徳の言葉だから、花はどんな形であれ孟徳にまだ愛されていると見ていい。
 考えられるのは、巡察先で出会った美女への熱が、花に対する熱よりも上がってしまったということだろうと花は思う。

(それとも、私が孟徳さんを庇って刺されたことで孟徳さんは自分を責めて激情のままに結婚しちゃったから、ある日突然正気に戻って結婚を後悔しているのかな……)

 そうだとしても孟徳は、帰る場所を失い、自分のために消えない傷を負った花を放り出すほど薄情ではない。

(だから私の面倒を見続ける代わりに他の女の人とも結婚する気になったのかな)

 人の心に鎖はつけられないけれど。
 妻として花に至らない点が多々あったのかもしれないけれど。否、あったのだろうけれど。
 単純に、女好きの血が騒いだだけかもしれないけれど。

(ひどいよ孟徳さん。こんなの……、ひどすぎる)

 たとえどんな理由があるにしても、花は孟徳をなじらずにはいられなかった。
 花にとっては孟徳が遅い初恋の相手であり、自他共に認める初心な花は男女間のことに対する経験も余裕も持ち合わせていないのだから。
 こんな場合の正しい対処方法も、気持ちをぶつける矛先も、何一つとして分からない。
 それに、一生涯浮気なんてしてほしくないけれど、孟徳と花は結婚してまだ半年。充分に新婚と言っていいはずなのに。
 以前親友のかなとその彼氏が『三年目の浮気』という有名な懐メロをカラオケでデュエットして皆の笑いを買ったことがあったけれど、今回の孟徳の所業は三年目どころの話ではない。
 あの時あの歌に笑ったメンバーがここにいたならば、皆笑うに笑えず、気まずい雰囲気に包まれたことだろう。

(孟徳さん……、ひどいよ……)

 悲しみと切なさと苦しさがごちゃまぜになって花を苛む。
 また一筋、花の頬を細い涙が伝った。




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