Liou+Princess (王宮夜想曲)


 地下へと続く暗くかび臭い階段を降りていきながら、僕は早くも渋面にならざるを得なくなった……女の子の泣き声が聴こえてきたからだ。しかもそれは啜り泣きなどという可愛らしいものとは程遠い、激しいそれで。
 なにが泣き喚きもしない子どもだと、今頃はすでにアジトを発ってしまったであろうジーンを心の中で罵りながら、しかしすぐに違和感を感じたのは、あの時のジーンの表情が思い出されたからだ。
 あの時のジーンが嘘をついていたとはどうしても思えない。
 ――ということは。

 階段を一気に駆け下りて牢代わりの部屋へ続く扉に手をかければ、そこにはジーンの言う「姫」であろう少女だけではなく、案の定、先客がいた――それも、タチの悪い、招かれざる客が。

「ここで何をしている」
「――っ!?」

 招かれざる客――僕よりもたしか三つほど年上の少年に声をかければ、彼は飛び上がるように驚いて僕を振り返った。
 僕が自分でも驚くほど冷ややかな声を放っていたのは、その日の僕が元々苛ついていたからなのか、それとも目の前の少年に対して心底うんざりさせられたからなのか。
 少なくともこの時の僕には、泣いている少女を哀れむ気持ちがあったわけではなく、今までおとなしくしていたであろう少女をわざわざ泣かせてくれた少年に対して、余計なことをしてくれたな、という腹立たしさがあるだけだった。

「リオウか。チッ、おどかすなよ」

 吐き捨てるような物言いだったのは、この少年が前々から僕を――正しくは僕とジーンを煙たがっている……もっとありていに言えば目障りに思っているからだということを僕は知っている。尤も、僕とジーンにしても、目の前の少年のことは、彼とは少し違う理由で、目障りに思っていたけれど。
 彼は同世代の子どもたちの中でお山の大将を気取っているくせに、実際のところは弱者にのみ強く、強者、つまり大人には卑屈なまでにおもねる下卑た輩だった。

「別におどかしたつもりはない。おまえが僕の気配に気づかずに勝手に驚いただけだ」
「ケッ、言うじゃねぇか。相変わらずクソ生意気なガキだぜ。おまえ、自分が年下だってことが分かってんのか?」
「一族は実力主義で、年齢は関係ないはずだけど?」
「なんだと!?」

 途端に少年の形相が変わったけれど、僕は彼を無視して、部屋の奥で蹲り顔を覆って泣きじゃくっている少女へと歩み寄った。
 彼女は泣くことに夢中で、僕がすぐそばまでやってきても、顔を上げようともしない。

 ――これのせいか……。

 少女の背に触れている古い漆喰の壁に刻まれた、真新しい数箇所の傷跡。
 それを見つけて僕は毒づきたくなった。少女に対してではなく、少年に対してだ。
 少女が泣いている理由を、つまり少年が彼女に何をしたかを察した僕は、今まで快く思っていなかった少年に対してますます嫌悪を募らせることになった。
 僕は少女の前にしゃがみこんで、あやすようにその頭を撫でた。突然他人に触れられたことで一瞬少女の体が強張ったけれど、やはり彼女は両手で顔を覆ったまま。嗚咽が治まることもない。
 僕が少女を慰めるような真似をしたのは、さすがに少し哀れに思ったから……というのもあったけれど、それ以上にいつまでも泣かれるのが煩わしいと思ったからで、少女に何かしらの好意を抱いたからというわけではなかった。
 それなのに、柔らかな髪の感触と仄かに香る甘い匂いが不思議なほど心地良く、いつまでも少女に触れていたいような不思議な気分になって――彼女を撫でることをなかなか止めようとしない自分がそこにいた。

「姫……って呼んでいいんだよね? 怖い思いをさせたみたいでごめんね。でももう大丈夫だから」

 根気よく優しく頭を撫でられているうちに恐怖心が解きほぐれてきたのか、この時初めて、恐る恐るといった様子ではあったけれど、少女が俯いていた顔をようやく上げた。
 涙に濡れた琥珀色の瞳が、静かに僕を射抜く。
 闇を切り裂く一筋の光を思わせる、眩い輝き。

 ――なんて綺麗な瞳だろう。吸い込まれてしまいそうだ……。

 その瞬間、琥珀の瞳に捕らわれてしまったかのように、僕は瞬きすることすら忘れて、少女の瞳に見入ってしまっていた、否、その瞳から目をそらすことができなかったのだ。
 と同時に、ああ、なるほど、と思った。これはたしかに目をつけられやすいだろう、と。
 手入れの行き届いた柔らかい髪に、血色の良い肌、上等すぎるドレス。
 良家の子女だとひとめで分かる。しかもそれだけではない。少女の小さな体から発せられるオーラのようなものが明らかに異質なのだ。気品が感じられるだけでなく、清らかで柔らかい空気が少女の身を包んでいる。
 これまでずっと、溢れんばかりの愛情に包まれて育ってきたのだと、少女の存在そのものがそれを証明していた。いうなれば、神の祝福と世の愛情の全てが凝縮され、人の形をとったもの。この少女は見る者に、そんな印象を抱かせる。
 ジーンが少女のことを「眩しすぎる」と言った理由が分かったような気がした。そして少女を「姫」と呼びたくなった理由も。
 たしかに彼女は眩くて、「姫」と呼ばれるに相応しい少女だと思う。少なくとも、こんな死神たちの巣窟に在るべき者ではない。彼女と僕たちとでは、あまりにもそぐわない。何もかもが、まるで正反対だ。

 そして、意外に思った。ジーンの話を聞いて想像していた少女と実際の少女は、あまりにイメージがかけ離れていたから。
 少女はあどけなく幼く見えるけれど、体の大きさからすれば、おそらく僕と同じくらいの年齢か、それより少し下といったところだろうか。だけど見た目はあまりにも弱々しく、さながら狩場で追いつめられた小動物のような頼りなさで、今泣いているせいなのかもしれないが、その線の細さ、儚さは、気丈というにはあまりにも程遠い印象だ。今まで泣かなかったという話がとても信じられない。

「リオウ、てめえ……!」

 物思いに耽っていた僕に背後から憎々しげな声が届き、我に返った。
 名残惜しさを感じながら少女から手を離し、立ち上がって少年を振り返る。少年の存在を僕が完全に意識の外へ飛ばしていたことで、プライドが傷つけられたとでも思っているのだろう、彼は怒りで頬を紅潮させていた。

「この子の世話は、しばらくは僕がすることになった。だからおまえはその手に持っているものをこの子に返して、さっさと消えるんだな」

 少年の右手に視線を向けてそう言い放つと、彼はギクリと体を強張らせ、今度は顔を青褪めさせて上ずった声をあげた。

「な、何の、ことだ?」

 本気でばれないとでも思っていたのか。だとしたら救いようのない馬鹿だ。こんな調子で今までよく生き残れたものだと、ある意味感心する。
 さっき、すれ違いざまに一瞬、見えたのだ、彼の右手の中で光った分不相応なものが。
 稀少なことで知られている青い貴石がはめ込まれた装飾品……鎖がついていたことから、おそらく首飾りだろう。僕には特別な知識などなかったけれど、それがイミテーションでないことは、何故か直感的に分かった。この少女に贋物は相応しくないと思ったからだろうか。
 実際にどれだけの価値があるかは分からないけれど、あれほどの大きさの石ならば、相当な代物であることくらいは分かる。それを、今この場で、この少女以外の誰の持ち物だとほざくのか。
 僕は深いため息をついた。

「おまえも知っているはずだろう。僕らは依頼により人の命を奪い、仲間にするための子どもを攫いはするけれど、盗みはやらない。たとえそれが攫われてきた子どもの持ち物だろうと、それは御法度だ」

 たとえ裏社会で生き、暗殺という汚い仕事に手を染めていようとも、一族には暗殺のプロとしての矜持があった。一族は自分たちが快楽殺人者であるかのように思われること、また、盗人と同類に扱われることを何より屈辱に思うから、依頼とは無関係のところでお遊び的に殺人を犯したり、物品を強奪した者には、掟により、厳しい制裁が加えられることになる。
 一族の者ならば、そんなことは子どもでも知っている。とは言え、中には皆の目を盗んで、おいたをする輩もいるのだ……例えば、この少年のように。

「おまえが黙ってりゃ問題ないだろ。どうせこんなガキ、半年もたたないうちにくたばるさ。だったらこれを売った金をオレたちで使ってやったほうがよっぽど有意義ってもんだ。――な?」
「『オレたち』? 僕とおまえを一緒にするな。無理やり首飾りを取りあげただけじゃなくて、この子を的にしてナイフ投げをしていたんだろう? しかも、わざとギリギリのところで外して、じわじわ嬲るような真似をして」

 心の底から湧き上がる侮蔑を隠そうともせずに、僕は少年を睨み付けた。
 少年は、さも一部始終を見ていましたと言わんばかりの僕に、何故それを? と問いかけるような顔で驚いている。
 少女の背後の壁にあった傷跡は、間違いなくナイフが突き刺さった跡だ。しかも、それを線でつないでいけば子どもの輪郭ができあがる位置にある……とくれば、彼がナイフを投げつけて少女を嬲っていたことは明白だ。
 少年がしたことは、僕たちにとっては、ただのダーツ遊びのようなものだ。だけど巷のダーツ遊びとはわけが違う。僕たちのダーツ矢は玩具ではなく、本物の、それも人を殺すためだけに実際に用いられているナイフであり、それが刺されば大怪我をするか最悪死ぬかのどちらかしかない。その的にされようものならば、普通に育ってきた子どもなど、ひとたまりもあるまい。今まで涙を見せなかったという話だったが、さすがに少女が泣きじゃくったのは無理もないと思う。
 少年の行いに虫唾が走った。
 人の命を奪い続けている僕がそんなことを思う資格はないのかもしれないし、正義漢ぶるつもりもない。事実、新入りがいじめられている現場を目撃しても、くだらないことをしていると呆れはしても、よほど目に余る場合でなければ助けてやろうと思うこともない。所詮己の身を守るのはその者自身の役割であるのだから。
 だけど、それでも。
 この時の僕は心の底から蔑んだ、明らかに無力な者を、意味もなく、ただいたぶるだけのその行為を。そしてそんな唾棄すべき行為で喜悦に満ちている、この少年の愚かさを。
 少女の首飾りを自分の笛と置き換えて想像してしまったことも、もしかしたらこの時の気持ちに影響していたのかもしれない。
 とにかく、私闘は御法度という掟さえなければ、実力行使に出てでも首飾りを取り戻し、少年をここから叩き出していたであろうほどに、彼を疎ましく思った。
 だからこそ繰り返し告げたのだ、より軽蔑の念を込めて、吐き捨てるように。

「おまえなんかと一括りにされたくないね、反吐が出る。分かったら、首飾りを置いて、さっさと出て行け」
「――てめえっ!」
「だめえっ!!」

 少年が腰のベルトから短剣を抜いて僕に向かってきたのと、少女が警告の悲鳴を上げたのは、ほぼ同時のことだった。
 当の僕はと言えば、その瞬間、この子は瞳だけでなくその声まで綺麗なんだな、と、この状況においてはいささか場違いなことを考えながら、それと同時に少年に対してますます興ざめするような思いが全身を包んでいくのを感じていた――やはりこいつはどうしようもない馬鹿だ。
 少年の視線も、ギラリと鈍く光る銀色の刃も、まっすぐに一点のみに向かっていた――僕の心臓に。一撃必殺で急所を狙うのは暗殺のセオリーだが、これは相手の不意をつく暗殺ではない。ましてや少年の動きは狙い所とその軌道が見え見えで、これでは相手に避けてくれと言っているようなもの。もう少し頭を使えばいいのにと、むしろ少年を窘めてやりたいくらいだった。

 少年の刃が体を掠める直前に身を低くしてそれをかわし、それと同時に少年の足を払ってやれば、僕の心臓を狙うことのみに集中していた少年は呆気なくバランスを崩し、ぐらりとその上体が下がる。それと入れ替わりに僕は素早く上体を起こすと片手で少年の短剣を弾き飛ばし、僕よりも長身の少年の頭部が僕の目線と同じ高さまで下がった瞬間に、もう一方の手で彼の横っ面を薙ぎ払うようにして裏拳を叩き込んだ。
 少年の骨が軋む鈍い音とともに彼の体は横に飛ばされ、今度は派手な音をたてて全身を壁に強く叩き付けられる。

「がはっ!!」

 受身も取れずに強打された少年の体は、そのままずるずると床に崩れ落ちた。
 水を打ったように、その場が静まり返る。だけどそれはほんの一瞬のこと。口の中を深く切ったのだろう――、次の瞬間には、少年が血反吐を吐きながら呻く声が漏れ聴こえてくる。
 その耳障りな音を聴きながら、僕は無感動に少年を見下ろした。

「これが最後だ。首飾りを置いて、さっさと出て行け」
「オ、オレが悪かった……! 首飾りは返す、勿論すぐに出て行く……なあ、だから、ゆ、許してくれよ……!」

 私闘は御法度。だけど先に手を出したのは少年のほうで僕は自己防衛したにすぎない。しかも剣を抜いた彼と違い、僕は武器は使わなかった。さらに言うならば、盗みを犯した彼に僕が然るべき制裁を加えたという言い訳も通る。状況的にも実力的にも、どちらに分があるのかは一目瞭然だ。
 僕の打撃をまともに喰らった顔面だけでなく、強打した全身のあちこちが悲鳴を上げているのだろう。すっかり血の気の消え失せた顔を激痛でさらに醜く歪めながらも、少年はなんとか自力で体を起こし、首飾りを僕に渡してから体を引きずるようにして部屋から出て行った。
 これで彼は当分はこの部屋に近寄るまい。

「さてと」

 振り返れば、少女は部屋の隅で耳を塞ぎ、きつく目を閉じ、唇を噛み締めたまま、がたがたとその身を震わせていた。
 ――少女には刺激が強すぎたか。尤も、今後は今のようなことが彼女にとっても日常茶飯事となるのだけれど。
 ゆっくりと少女に近づいていけば、少女がますます僕に怯え、全身を緊張させるのが伝わってくる。
 僕は、少女の目の前に立って、気づいた。あからさまなまでに怯えているくせに、少女の涙だけはすでに止まっていたことに。単に、目の前の荒事に驚いて涙がひっこんでしまっただけなのかもしれない。だけど、なるほどこれはたしかに気丈なところがあるのかもしれないと僕は内心感心していた。
 ある意味では先ほどのような騒動よりも、目の前でうるさく泣かれることのほうが僕には面倒だったから、少女に対してささやかにでも好感を抱いたのは間違いない。だからなのだろうか……少女の目尻に僅かに光っていた涙の残滓をそっと指で拭い取りながら、僕は自分でも意外なほど優しい口調で少女に話しかけていたのだ――悪かったね、と。
 そんな僕に、少女は驚いたような仕草で顔を上げ、ややあって、耳を塞いでいた手をゆっくりと下ろした。

「怖がらせて本当にごめん。でも君の首飾りは取り返したから、受け取って?」
「…………」
「……姫?」

 まだ警戒しているのか、少女は差し出された首飾りと僕の顔をしばらくチラチラと見比べるだけだったけれど、彼女を「姫」と呼んで優しく促してやれば、しばらく躊躇った後、おずおずと僕の手から首飾りを受け取った。

「ありがとう……。お母様がくださった大事なものなの。だから……」

 まだ硬さは残っていたけれど、僕に害意がないことは悟ったようで、少女はほっと息をつき、口元を綻ばせて、たどたどしい手付きで首飾りを首にかけた。
 小さく微笑んだ顔が可愛らしかった。耳触りの良い声も、少し舌足らずな喋り方も、素直に愛らしいと思った。
 改めて少女を眺めてみれば、おっとりしたイメージではあるけれど、相当な美少女だ。性格のことか容姿のことかは知らないが、ジーンが「可愛い」と言っていたのも、たしかに頷ける。容姿が人の価値を決めるわけではないけれど、こんな綺麗な女の子が一族に身を置くことになるのかと思うと、痛々しいものがあった。

「お礼はいらないよ。もともと君の持ち物を奪ったあいつが悪いんだし、それに君はさっき僕に危険を知らせてくれたからね。僕のほうこそありがとう」

 少女に声をかけられずとも少年の襲撃には気づいていたから、本来なら僕が少女に礼を言う筋合いはないのだけど――。何故かしらこの時の僕は、そんなことを口走っていた。何の含みも思惑もなく誰かに礼を言うことなど滅多にないのに、この時の僕はただ思ったことを素直に口にしていたのだ。
 そんな自分をどこかおかしいと冷静に分析している自分に気づきながらも、そんな自分を不快には思わなかった。

「あ……」
「どうかした?」
「怪我……してる」
「怪我?」

 少女がじっと見つめる先は、僕の右の袖。ぱっと見には分かりにくい、黒い生地の上の、赤黒い染み。

「血が、ついてる」
「……ああ、これは、」

 僕の血じゃないからと言おうとして、皆まで言うことができなかった。それより先に少女が泣きそうな顔をして僕の右腕にそっと触れ、何を思ったのか服の上からそこを優しくさすり始めたから……驚いたのだ。

「ごめんなさい……」
「え?」

 少女が何を謝っているのかは、一瞬考えてすぐに分かった。先ほどの乱闘で、つまり彼女の首飾りを取り戻そうとして僕が怪我をしたと思ったのだろう。
 だけど。
 勘違いを正したほうがいいと分かっているのに、少女の真摯な眼差しを見ていたら何故かそれを言い出しにくくなって……結局僕は彼女のなすがまま、その成り行きをただ見守ることしかできなくなった。
 元来、他人に体に触れられることは大嫌いなのに、僕は少女のすることを拒むことも咎めることもしなかった。いや、そうしようなどと考えもしなかった。少女に触れられることを不快だと思わなかったのだ、それも、少しも。……むしろ、逆に、心地良いような。
 だけどその心地良さが段々と僕をなんとも言えない気持ちにさせていって……僕は自分がどういう行動をとっていいのか、自分がどうしたいのかが分からなくなって、さらに戸惑う。

 ――不快ではない。だけど。

 そんな僕の心中を知らず、少女は飽きることなく僕の腕をさすり続ける。時折心配そうに僕を覗き込んでは、「まだ痛い? 大丈夫?」と声をかけて。
 眉をハの字の形にして、一生懸命に。そしてその手つきはあまりにも優しい。
 この少女は、どこがが痛む時、僕が今されているようなことを家族からされているのかもしれない。痛いところをさすったところで実際に痛みがなくなるとは思えないけれど……少女が触れている部分が仄かに温かく感じられたのは、単なる摩擦熱だとは思えない。
 まるで、少女の触れたところから、彼女が持つオーラを分け与えられているかのような気がしていた。僕の苦痛がなくなるようにと願う気持ちを、直接流し込まれているかのような、そんな気が――。
 だけど僕は、少女にとっては、出逢ったばかりの、名前も知らない赤の他人だ。少女が今自分が置かれている状況をどこまで理解しているのかは定かではなかったが、少なくとも僕が彼女を家族から引き離した者の仲間であることくらいは分かっているだろうに。
 そんな僕を、何故気遣うことができるのだろう。そんな僕の痛みを取り除こうとして、何故こんなに一生懸命になれるのだろう。

 ……それは少女があまりにも無垢だからだ。あまりに純真すぎて、あまりに綺麗すぎて、僕はますますなんとも言えない心地にさせられる。
 ジーンが自嘲気味に言っていた、「居心地が悪くなる」という言葉は、こういうことか。
 この少女に接していると、心の奥の深い深いところに、小さな灯りがともったような錯覚を覚えてしまう。だけど、それと同時に、ひどくいたたまれないような、胸がきゅっと締め付けられて息苦しくなるような……そんなほろ苦さも感じてしまうのだ。
 穢れた僕たちには少女の清浄さが毒になるのかもしれない。

「大丈夫、もう痛くないよ……。ありがとう」

 僕は少女の手をそっとどかし、微笑んで見せた。それが精一杯だった。最初からどこも痛くなどない。最初から、怪我などしていないのだから。
 少女は勘違いしていただけで、袖についているこの血は僕の血ではなく、今夜浴びた返り血だ……それも僕の心に澱みを作る原因となった、あの領主一家の。

 ――この血は僕が殺した人の血なんだよ?

 もし、そう少女に告げていたなら、それでも彼女は僕を案じてこの腕をさすってくれたのだろうか。
 もし少女が、僕のこの手がどれほどの人間を傷つけてきたかを知っていたなら、それでも僕を案じてくれたのだろうか。
 そこまで考えてから、ふと我に返り、僕は口の端を歪めていた。
 埒もない。これではまるで、僕がこの少女に自分のことを案じてほしいと願っているみたいではないか。
 今まで誰からも案じられたことがなく、誰かに案じてほしいと思ったことのない僕が?
 今まで誰からも愛されたことがなく、誰かに愛されたいと思ったことのない僕が?
 親からも見捨てられた、この僕が――……?
 …………。

『頼む、息子だけは見逃してくれ! 私はどうなってもいい、今すぐ死ねと言うなら死ぬ! だから息子の命だけは……どうかこの通りだ!』
『ふん。あんたみたいな大悪党でも我が子は可愛いか』
『当たり前だ……この子は私の宝だ。頼む、息子だけは……この子には何の罪も無いんだ……この子だけは助けてやってくれ!』

 不意に、あの時の言葉が、映像が、脳裏に鮮やかに蘇った。
 それは標的だった領主と僕と同行した暗殺者の、最後のやり取りだ。
 その領主のために、どれだけの人間が首を括ったか、どれだけの家族が一家心中においやられたか分からないという話だった。彼は、どんな汚いことでも平気でする、正真正銘のゲスだという話だった。
 だけどそんな彼も、我が身はどうなってもかまわないからと涙ながらに幼い一人息子の命乞いをし、最後の最後まで息子を胸に庇って暗殺者の手から守ろうとした。そして事実、絶命しても尚、その胸の中から息子を放そうとはしなかった。
 全てが終わった時、同行した暗殺者は茶番劇だと鼻で笑っていたけれど、僕は軽い衝撃のようなものを感じていた。
 ああ……、親とは、こういうものなのか、と。

 その時はただ漠然とした、もやもやした気持ちしか感じなかったけれど、今、分かってしまった――あれ以来決して消えることの無かった澱みの正体が、――僕が何に、これほどまでに苛々させられていたのかを。

「ああ、そうか。………そういうことなのか……」

 今は、目の前にたちこめていた霧が一瞬で霧散してしまったかのような心地だった……尤も、霧が晴れた後には爽快感はなく、むしろ、苦々しさが増しただけだったけれど。

 たとえどんな大悪党でも、親というものは、最期の瞬間まで我が子を案じて死ねるのだ。それほど子を愛する生き物なのだ。
 皆が皆そうでないことは、僕自身が一番それを分かっているつもりだったけれど、そういう親もいる。いや、きっと世の中には、そういう親のほうが多いのだろう。
 たとえどんな事情があるにせよ、僕が捨てられたという事実には変わりはない。我が子のためならば身を投げ出せる、それが親という生き物なのだとしたら、僕を捨てた僕の親は、あんなゲスにも劣るのだろうか。
 ……僕は、そこまで不必要な存在だったのだろうか。

「………そういう、こと、なんだろうな……」

 物憂げに呟いて、思わずきつく眉を寄せた僕に、また少女が心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。

「どうしたの? ……また、痛くなった?」
「……そうだね、ちょっとだけ、痛くなったんだ……」

 腕ではなくて、もっと深いところが。
 少女のこの手でも、僕自身の手でも、決して触れられないところが。

 僕はきっと、最期の瞬間まで命懸けで親に愛されていたあの子どもを羨ましく思ったのだ。そしてそれ以上に、親からも見捨てられ、誰からも案じられることのない自分を虚しく思ったのだ。だけどそれを素直に認めたくなくて、自分の気持ちを深く追求することを無意識に避けていた。

 便宜上のものとはいえ、今日は僕の誕生日とされる日だ。なんと皮肉な贈り物をもらってしまったのだろう。
 今までは、親に捨てられた自分を哀れんだことなどなかったのに。
 本来であれば生まれてきたことを祝ってもらうべき日に、自分が誰にも必要とされない子どもなのだということを、こんな形で突きつけられようとは――。

 思わずもれた乾いた笑いに、少女が困惑したような、それ以上に悲しそうな顔をして僕を見上げてくる。
 これ以上この少女を気遣わせたくなくて、そして今の気持ちのままの情けない顔を他人に見られたくなくて、僕は笑顔を作ってみせたけれど……その笑みはひどくぎこちないものだったに違いない。
 それを見た少女がますます辛そうな顔になったのが、その何よりの証だった。



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