Liou+Princess (王宮夜想曲)


 今となってはもう昔の話だ。
 僕がまだ、昏い闇の深淵にいた頃の話。
 その日はひどく気分が苛ついて、気持ちを持て余していたのを今もまだ覚えている。



 ■□■



 その頃の僕は、まだ十にも満たない子どもだった。
 けれど僕が身を置く一族では大人も子どもも関係なく、その者に相応しい役割があれば否応なく実戦の場に駆り出されるのが常のこと。無論子どもにできることは限られているから主に手を下すのは大人であることが多いけれど、中には子どもにしかできない役割というものもたしかに存在するのだ。
 ――たとえば囮。
 子どもは皆純粋無垢な生き物だとでも思い込んでいるのか、世の中には大人顔負けの毒牙を隠し持つ子どもも存在するのだということを知らないおめでたい連中は少なくない。 子ども相手だと途端に警戒心を緩めてしまう迂闊な者たちの、なんと多いことか。
 とある貴族の夫婦が標的だった時は、彼らの馬車の前にわざと飛び出して馬車を止め、後は負傷したように見せかけて倒れているだけでよかった。そうすれば、事前に調べ上げたとおり、大の子ども好きであるという夫婦は馬車の扉の鍵を自ら開けて僕を案じて駆け寄ってくる――哀れなことに、それが罠だとは露知らず。後は、傍に潜んでいた一族の大人が、油断しきっている標的と従者を始末して終わりだ。
 時には、囮だけでなく、僕自身が手を下すこともあった。
 ある歪んだ性癖を持つ男爵が標的だった時は、男爵が狩りの最中に仲間とはぐれるよう仕向け、迷子を装って男爵に近づいた。にやついた笑みで僕の手を引き、森の奥へ連れ込もうとする男爵の背中はあまりに無防備で、その命を奪うのは拍子抜けするほどに容易かったのを覚えている。

 直接的にであれ間接的にであれ、僕の手は、幼い頃から他者の命を絶つという行為に馴染んでいた。けれど、それに対して疑問を抱くことも、心が痛むことも、特になかった。
 世の子どもたちはこんなことをしないということも、自分たちがしていることが犯罪であることも理解していたが、物心つく前からそんな特殊なことが特殊でない環境で育ってきた僕にとっては、最初からこれが当然あるべき世界だったのだから。
 ただ、課せられた任務を遂行するだけ。
 任務遂行中もその後も、何かを感じることも、心が揺らぐこともない。初めてこの手を血に染めた時にたしかに感じたはずの何かも、ほんの数年前の記憶なのに、今ではもうよく思い出せない。
 一族の者は皆そうなのか、それとも僕の心が麻痺しているのか、僕にはそもそも何かが欠落しているのか………だけど、それが僕だ。

 それなのに、その日だけはいつもとは違っていた。いつものように仕事を終えた後の僕を支配していたのは、腹の底に何か重苦しい塊が沈殿しているような感覚――。
 いつものように大人たちに同行し、標的を……悪名で知られているある領主とその妻子を手にかけた。
 善人か悪人か、貴族か平民か、男か女か、大人か子どもか。
 そんな条件は僕たちにとってはどうでもいいことで、標的はただ始末するだけ。標的にどんな事情背景があったとしても何の意味も持たず、そんなことによって僕たちの心が乱されることはない。
 実際にこの任務は滞りなく完了したはずだ、何の問題もなく、迅速に。そう、何もかもが普段通り――そのはずだったのに。
 この時に限って何が僕の心をここまで澱ませているのか分からなかった。
 こんなことは初めてで、自分の心を持て余すことしかできない自分に、僕はますます苛立つことしか出来ずにいたのだ。

 ――その日、アーデンで、その女の子に出逢うまでは。



■□■



 仕事を終えアジトに戻るや否や、何が楽しいのだか、やけに陽気な笑顔を浮かべた少年に出迎えられた、けれど。

「よーう、リオウ。任務完了お疲れさん!」
「…………」

 ――どうしてこいつはこういうタイミングで現れるのだろう。

 自分の間の悪さに半ばため息を吐きたい思いで、だけど僕はそれを顔に出すことはしなかった。今は彼と係わりたくない気分だったから、その存在そのものを無視するが如くその横を素通りすれば、「んだよ、無視すんなよ」とぼやきながら少年が小走りで僕を追いかけてくる。
 振り向かなくても分かる。彼は僕に無視されたことに気分を害している様子はなく、むしろ楽しげだ。僕は足を止めることはしなかったが、内心、少し後悔していた……これは対応を間違えたかもしれない、と。完全無視することによってかえって彼を煽ってしまったようだ。それくらいなら適当に相槌を打ち、適当にあしらっておけばよかったと思っても、もはや後の祭りだったけれど。

「ちょーっと待てって!」

 つかつかと先を進む僕の肩に手をかけて少年が僕の歩を止めるけれど、それでも振り返ろうとしない僕の顔を覗き込んできた彼は、にやり、とどこか人の悪い、そして明らかに好奇心を含んだ笑みを向けた。

「えらくご機嫌斜めじゃねぇか。任務は滞りなく完了したって聞いたけど、何か問題でもあったのか?」
「何もないよ」

 すげなく返してその場を離れようとするけれど、それを阻むかのように僕の肩に置かれた手にますます力が篭められたから、舌打ちしそうになる。
 だけどそれを寸でのところで抑え込んだのは、下手に感情を表に出せば、彼が待ってましたとばかりに追求を深めるであろうことが分かっていたからだ。

「いいから手を離せ。それに僕はいつも通りだ、何も変わりはない」
「どこが? おまえが冷たいのも俺を無視すんのもいつものことだけど、今日はちょっと違わねぇ?」
「ちょっと疲れてるだけだ」
「ふーん。でも疲れてるのは体じゃなくて心のほうってツラしてんのな」
「…………」
「あん? 何も答えねえってことは図星かよ」

 ここでまた何も答えなかった僕に、少年は僅かに首を傾げて、何か思案する仕草を見せる。

「標的はたしか、エシューテの領主一家だったよな……鬼畜だって噂の。そんなに難しい仕事じゃないって話だったし、おまえがヘマしたとも思えねぇし、何があったのか気になるじゃねぇか……って訊いてみたところでおまえが話してくれるとは思わねぇけどさ。おまえにこんな顔をさせる何かがあるんだったら、俺も同行すればよかったぜ」

 僕は相変わらず感情を顔から消したまま、だけどその心中ではますます苛々が募っていくのを感じていた。喰えない奴だと思う。本当にこいつだけは扱いにくい。だからこそ今はジーンの相手をするのは嫌だったのに。

 僕はジーンと呼んでいるが――彼はユージーンという。僕と同じような経緯で一族に身を置くようになった、僕とは物心つく前からの付き合いである仲間だ。仲間といっても、心を許しあえる相手という意味ではない。それは僕に限らずジーンの側からしても同じこと。さらに言えば、一族に身を置く者には誰一人として、そういう意味での仲間などいやしないのだけれど。
 一族に属する者たちはたしかに掟を通してある種の強い絆で結ばれているが、そのほとんどが仲間にすら警戒を怠らない、腹に一物もそれ以上の物もあるような輩ばかりだ。それは子どもであっても例外でなく、僕もジーンも互いに本音を他者に悟らせないようにして生きている。
 しかしそれでも僕とジーンは一族の中で誰よりも近しい存在なのだと思う。それは、僕たち二人が一族の他の子どもたちとはある意味一線を画する存在だったからかもしれない。
 一族の中で育てられた子どもたちは、訓練中任務遂行中を問わずその過酷さから命を落とす者が圧倒的に多く、そのメンバーは常に入れ替わりが激しい。最初に十人の子どもがいたとして、ほんの数年後にその内の一人が生き残っていれば上等というほどに、子どもの生存率は低いのだ。
 だけど僕とジーンだけは、一族に拾われた時から今のこの瞬間までこうして五体満足で生き延びていて、その技術や仕事振りからも、良くも悪くも一族内で目立つ存在となっている。少なくとも、大人たちからは比較的重要な役目を与えられ、同世代の子どもたちからは一目置かれる程度には。
 年齢的にも実力的にも拮抗した僕たちは訓練でも任務でも組んで行動させられることが多く、互いの性格や価値観については否が応でも他の誰よりも互いのことを理解するようになっていた……ジーンはどうだか知らないが、僕にとってはそれは喜ばしいことではなかったのだけれど。
 そんなジーンだからこそ、僕がいつもと変わらぬ無表情を決め込んでいても、いつもと様子が違うと察することができたのだろう。だけど僕自身が気持ちを持て余している時にそれを他人から追求されるのは余計に苛々が増すだけだ。しかもジーンは昔から僕を振り回すことを楽しんでいる節があるから、尚更に。

 もう何を言われても無視を決め込み、ジーンが手を離そうとしないなら力ずくでその手を振り払ってでもこの場を去ろうと決めた――その時だった、それを見計らったかのようなタイミングでジーンが話題を切り替えたのは。

「でも喜べ。そんな不機嫌なおまえに、とっておきの贈り物をくれてやる」
「贈り物?」

 僕は露骨にジーンを睨み付けていた。ジーンがこんな楽しそうな顔をするのはろくでもないことを企んでいる時だと今までの経験上知っているからだ。少なくとも、僕にとっては楽しくない何かがあるに違いない。

「そーんな怖い顔すんなって。今日はおまえの誕生日だろ? どうせ誰からも祝ってもらえないだろうから、このユージーン様が祝ってやろうってのに」
「今日は僕が拾われた日で、僕が生まれた日じゃない。だからおまえからの贈り物とやらもいらない」
「そう言うと思ったけど、そういうわけにはいかねーんだな、これが。なんたって、長老からの命令でもあるからさ」
「命令? どういうことだ」
「地下に行ってみな、おまえへの祝いの品を用意してっから」

 ジーンはいつもこうだ。要点を簡潔明瞭に話せばそれで済むというのに、わざと曖昧に核心をぼかすような言い方をして、相手の反応を楽しもうとする。
 話を聞く側からすれば傍迷惑なことだし、それを肴にするジーンを悪趣味だとも思う。けれど今の言葉の中には内容を推し量るに十分なキーワードが盛り込まれており、彼が言わんとしていることを的確に理解した僕は、軽く脱力してため息をついた。
 アジトの地下には、牢代わりに使っている部屋が一つあるだけだ。その部屋は裏切り者もしくは暗殺者に育てあげるために攫ってきた幼い子どもを一時的に捕らえておくための場所であり、ジーンの言う贈り物とは十中八九後者を指す。
 裏切り者の処理は大人の役目で、僅かな期間のことではあるが、攫ってきた子どもの面倒を見るのが僕たち子どもの役目なのだ。

「なにが贈り物だ。要は面倒な役目を僕に押し付けただけだろう」
「そう言うなよ、俺だってできることならこの役目は他人に譲りたくなかったんだからさ。なにせ、今回のはすっげぇ可愛いからよ。それに泣き喚きもしねぇんだ」
「へえ……」

 僕は軽く目を見開いた。「可愛い」という部分にではなく、「泣き喚きもしない」という部分に素直に驚いたのだ。
 そんな子どもは稀だ。突然親から引き離され、血と死の臭いが染み付いたこんな場所につれてこられた子どもは皆、ほぼ例外なく、最初は感情を剥き出しにして泣き叫ぶ――それこそ文字通り涙が涸れ果てるまで。そんな人間らしい感情も、その後の厳しすぎる現実の前にすぐに消え失せてしまうことになるのだけれど。
 しかし、ジーンの口ぶりからすれば、きっとその子どもは女の子なのだろうが……泣きもしないとは、よほど気丈なようだ。
 ジーンは僕の心を的確に読み取ったのだろう、少し歯切れ悪く、いや、まあ……と言葉を濁す。

「泣きたいのを必死に堪えてるだけなんだろうけどな」

 苦々しくそう呟いたジーンは、探るような僕の視線に気づいたのだろう、次の瞬間にはいつも通りの飄々とした表情を取り戻していた。
 僕は微かな違和感を感じていた。何かが変だ。いつものジーンらしくない。

「とにかく、だ。たいして手間がかかんねぇガキだから言うことなしだぜ? 楽な仕事だ」
「だったらおまえが引き続いて面倒をみればいいじゃないか」
「そうしたいのはやまやまなんだけどさ。これから任務でしばらく帰って来られねぇんだから仕方ねーじゃん」
「だからって僕を指名することはないだろう。どうせおまえから僕を後釜に据えるように長老に言ったんだろ?」
「さっすがリオウ、よく分かってんじゃん。……ま、おまえだったら俺としても安心だから、な」
「……安心?」

 その内容と意外なほど真摯な響きを訝しんだ僕に、ジーンは自嘲するように口元を歪め、曖昧に笑った。さっきといい、今といい……どんな時でも人を喰ったような態度を崩さないくせに、こんなジーンは本当に珍しい。
 なんとなくにも、ジーンがその子どもを好意的な意味で気にかけているのは察しがついた。そしてまた、ジーンの思惑も。
 ここに連れてこられた子どもは、同じような経緯で一族に属することになった子どもたちから同情されることもあれば、気性の荒い子どもたちから虐待されることもあった。そして新入りの子どもが今まで幸福に育ってきた子どもであればあるほど、一族の子どもから手痛い洗礼を受ける確率は増していく。――ひとえに、妬みゆえに。
 そこに日頃の憂さ晴らしの意味合いも加われば、その仕打ちが時に苛烈なものとなることもある。尤も、わざわざ攫ってきた子どもをあっさり失うようなことはさすがに良しとしないから、それが即命に係わるほどの虐待になることは滅多になかったけれど。
 一族の大人たちはその虐待を知っていても、たいていの場合、皆が皆、我関せずだった。所詮世の中は弱肉強食、弱者は当然のように淘汰されるのみ――それが一族の者共通の、絶対の認識だったからだ。なんにしても、攫われてきた子どもにとっては何もかもが理不尽極まりない仕打ちであることには違いない。

 ジーンが僕に世話役を押し付けたその子どもはおそらく一族の子どもに目をつけられそうな存在で、だから僕に自分の代わりに番犬役をさせたいと……そういうことなのだろう。
 それは頼みをきいてもらえる相手として僕を信頼しているというよりも、僕ならばそんなくだらない虐待に興味がなければ加担もしない、そして、他の子どもへの牽制にうってつけだと考えているからに違いない。
 それもある意味、信頼されているということになるのかもしれないが……僕にとってはジーンからの信頼など、少なくとも任務中以外では必要のないものだ。
 それにしても、本当にジーンらしくない。そしてジーンもまた、それを自覚している。だからこそ、こんなふうにバツが悪そうな、複雑そうな顔をしているのだろう。ジーンがそんな自分をどのように考えているのか定かではないが、ジーンがその子どもにほだされているのは確かだ……本当に手間のかからねぇガキだからさ、と今またしつこく念を押してくるほどに。

「そんなにその子が気に入ったのか?」
「気に入ったっていうのかねぇ……。俺にもよく分かんね。ちょっとばかし素直すぎて、ちょっとばかし眩しすぎて、正直居心地が悪くなるんだけどな……。なーんか放っておけねぇお姫さんでさ」
「姫?」
「俺が勝手にそう呼んでるだけ。実際にはどこんちのガキか知んねーけど、かなりいいとこのお嬢ちゃんみたいでさ。いかにもお姫様っつー感じがすっからよ」

 だから「姫」ってあだ名をつけてやったんだよ、ま、本物のお姫さんなら夜中に鄙びた町を一人でうろちょろ歩いてるわけねーけどな、とジーンは苦笑した。
 たしかに、王女というものは、夜一人で出歩くどころか王宮の外に滅多に出してもらえないらしいと以前どこかで聞いたことがある。本物のお姫様がこんなところに攫われてくるはずがない。

「ま、優しくしてやれって頼んでも無駄だろうから、せめてあんまりびびらせないでやってくれよな。おまえのその無愛想で冷たい顔は、俺でもたまに本気でびびっちまうくらいだからよ」
「おまえ、僕をなんだと思ってるんだ……」
「んー? そりゃあ、ガキのくせに冷めてて、実際に冷たくて、無愛想で、毒舌で、皮肉屋で、女みてーなツラなのに腕っぷしは良くて、からかうと面白くて、だけどとにかくおっかなくて、」
「……ジーン。………もういいよ」
「あぁ? これからが本番じゃん」
「いいから黙れ」

 ジーンに厄介ごとを押し付けられたのはうんざりだったが、長老がそれを僕の役目だと決定したのなら、それに従うだけだ。
 それに、全く興味がないわけでもなかった。ジーンの心を動かした、その「姫」とやらに。
 ジーンは一見人懐こいように見えて、その懐には誰も住まわせたりしない。ましてや博愛主義でもなく、いまだ子どもの身でありながら、その迷いのない完璧な仕事振りから将来を期待されている、暗殺者となるべく生まれてきたような暗殺者である。
 そんなジーンに、その身を案じさせる少女とは……。

 やはりこの時の僕は好奇心以上に面倒だと思う気持ちのほうが圧倒的に強かったけれど、これも仕事だと割り切るしかなかった。
 それに、今日だけは……。
 一人でいるよりも、何か他のことで気を紛らわせたほうが余計なことを考えずに済むかもしれない……この訳の分からない苦々しさから解放されるのかもしれない、という気持ちも少なからずあった。
 ジーンのいう少女が今の澱んだ気持ちをさらに澱ませるような子どもでなければいいと切実に願いながら、僕は地下へと向かったのだ。




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