Eugene+Princess (王宮夜想曲)


「唐突な上に直球だなー」

 ふぅ、と小さくため息をひとつ。ユージーンは足を組み直し、膝の上で頬杖を付く。
 他人の寝室で遠慮の「え」の字もないほどに寛いでいる彼を特に不快に思っている風でもなく、王女はゆったり落ち着いた様子で口を開いた。

「だって、ゆっくりしている時間はないでしょう?」
「時間?」

 訝しそうにユージーンが首を傾げると、王女はまるで表情を崩さないまま、ただ頷いた。

「カインの品位の授業はもうすぐ終わるわ。その後は、体調を崩した私を心配して、リオウはきっとここにやってくる。そうなると、あなたがわざわざリオウの不在を狙って私に会いに来た意味がなくなってしまうもの」
「俺が世間話をしに来たとか、リオウがいない隙にあんたを口説きに来たとか、そうは思わないわけ?」
「それはないわ」
「だから、なんでそう言い切れんのかねぇ」
「あなたは以前、リオウに変な情を持つなと忠告していたでしょう?」
「あん? そうだったっけか? よっく覚えてんなー」

 そのあなた自身が標的である私に情をかけかねないことをするはずがないもの、と続ける王女に対して何でもない風を装いながら、ユージーンはそれをどこか苦々しい気持ちで聞いていた。
 忘れるはずがない、あの夜の忠告を。
 あの時から、いや、それ以前から予感はあった。リオウが王女に惹かれているらしいことは薄々にも察していたから。
 だからこそ忠告したのに。
 ユージーンの忠告は結局無駄になった。リオウは王女に心を奪われ、一族を裏切った。
 もしもあの時、リオウに促されるままに去ることをせず、王女をあの場で始末していたなら――。
 それは一度でなくユージーンが考えたことだった。

(ま、リオウがそうはさせねえだろうけどな)

「そしてリオウが私に情を持ってしまったから、そのリオウの代わりにあなたが手を下しに来たのでしょう? リオウを――かけがえのない友を守るために」

 刹那、ユージーンの刺すような視線が王女を貫き、その鋭さに気圧されて息を呑む。錯覚に過ぎないと分かっているのに、王女の肌がピリッと痛んだ気がしたほどだ。
 それはほんの一瞬のことであったが、おちゃらけた姿の裏に隠されている真実のユージーンを、王女はたしかに見たと思った。
 一方、思いがけず王女の目の前でそれを晒してしまったことを恥じたのか、ユージーンは小さく舌打ちし、しかし次の瞬間にはすっかり普段どおりの軽薄そうな表情を取り戻していた。そして大げさなまでに肩をすくめ、皮肉げに笑う。

「『かけがえのない友』、ねえ。――ハッ、腐れ縁ではあるけどな。もしリオウがここにいたら、氷よりも冷たい視線をお見舞いされちまうところだぜ」
「でもあなたはリオウのことをそう思ってる。だから私とリオウの関係も、リオウの裏切りも、まだ組織に報告していないのでしょう? だからリオウの裏切りが発覚する前に私を殺して、リオウを危険から遠ざけようとしているのでしょう?」
「…………」

 王女の言葉は疑問形のようでありながら、その一つ一つが確信に満ちていた。
 しかも間髪を入れずに畳み掛けてくる王女にユージーンは押し黙る。僅かに眉根を寄せ、もはや硬い表情を隠そうともせずに。

 それを黙って見つめながら、王女は建国祭翌日の夜のことを思い出していた。
 あの夜、王女は神殿脇の林でリオウとユージーンの会話を立ち聞きし、そのやりとりからリオウがその組織内で危うい立場に立たされてしまったことを初めて知ったのだ。
 少し考えれば分かることだった。王子暗殺を止めることによって、リオウがどれほどの代価を支払わねばならなくなるかなど――本来なら容易く分かるはずだった。
 それにもかかわらず、愚かにも王女はそれに気づかなかった。いや、気づこうともしなかった。密かに想い続けていたリオウにあのような取引を持ちかけられた衝撃と悲しみで、ただ我が身に起こった悲劇を嘆くばかりだったから。

 建国祭前夜、リオウが事も無げに持ちかけてきた取引はしかし、王女が拒否しなければの話ではあったが、彼にとっても命懸けの取引だったのだ。
 リオウとユージーンのやりとりからそれを理解したとき、王女は唐突にもう一つの真実をも理解することができたのだ。――リオウは王女を真実想っていてくれたのだと。自分の命を、それまでの生き方を、全てを切り捨てられるほどに、王女のことを想ってくれていたのだと。
 全て、分かった。リオウに抱かれた夜に垣間見た、彼のあの切なく悲しげでそれなのに優しさが入り混じった表情の意味も、全て。――そして彼もまた深く傷ついていたということも。
 あの取引は、リオウが引き金を引くためにはどうしても必要だったもの。だから自分もあの時のことは決して後悔しない。そう王女は誓った。
 そしてもう一つ、誓ったことがある。リオウが王女を命を懸けて守ろうとしているように、自分もまた彼を命を懸けて守ってみせると。
 建国祭翌日のリオウとユージーンの密会から、ユージーンがリオウのことを少なからず案じているということは容易く見て取れた。建国祭でリオウが動かなかったことを上層部に誤魔化したと口にしていたくらいだから、少なくとも彼はリオウを裏切り者にしたくないのだろう、と。
 ――もしかしたら、リオウにジーンと呼ばれていたあの男性がいつか自分を殺しに来るのかもしれない。リオウの友であろう彼ならば、リオウのために動くかもしれない。
 あの時から王女は朧気にも予感していた。
 そしてユージーンは今こうして王女の前に現れた。――リオウを救うために。リオウを惑わせた王女を殺すために。

 ユージーンと王女は視線を交錯させたまま微動だにしなかった。
 そして沈黙。
 張り詰めた空気の中で、ただひたすら沈黙が続く。

 先に視線をそらしたのは、先に沈黙を破ったのは、ユージーンのほうだった。
 彼は再び肩をすくめ、深いため息を吐いた。そして天井を見上げ、あーあ、と呟きながら節張った手で顔を覆う。
 王女にはその表情を確かめることはできなかったが、その姿はほとほと困っているようにも、笑っているようにも見えた。
 やがてユージーンは再び王女のほうを向いて微笑んだ。それは、いつものふざけた態度など欠片も感じられない、何の嘘も含みも感じられない、穏やかな、しかし少しほろ苦さを感じさせる、そんな微笑みだった。

「参った……。お姫さん、あんた本当におもしれえよ、それに賢い。だけど、もうちょっとばかし馬鹿に生まれついたほうが良かったのかもしんねえぜ?」

 ――リオウの奴も一を聞いて十を知るようなタイプなんだよなぁ。で、そういう嫌味な奴に限って、結局損な役回りをする羽目になるんだ。気づかないでいいことまで気づいちまうからなぁ、と。
 王女をかリオウをか、それとも両者ともをか、哀れんでいるような、羨んでいるような。そしてそんな自分自身を自嘲しているかのようにも聞こえる口調だった。

(お姫さんは俺が自分を殺しにくるかもしれないと、とっくに覚悟してたってわけか)

 しかも依頼された暗殺を果たすのが目的ではなく、リオウを救うことこそが目的だということまでお見通しで。
 たとえどれほど二人の絆が深まろうとも、リオウが王女に一族に関することを話すはずがない。だとすればリオウから話を聞くでもなく王女が一人で考え、一人で答えを導き出したことになる。

(そして腹をくくってたってことか。……リオウのために)

 それは王女がリオウを真実愛しているからこそできる覚悟だ。
 ――だが。

「なあ、お姫さん。訊いてもいいか?」
「何かしら」
「今更言われるまでもないだろうが、リオウはあんたにベタ惚れしてる。いや、そんな生易しいもんじゃねぇな。あいつにとって、あんたは自分の命よりも大切な女だ。そんなあんたが自分のために死んだら、あいつは自分を責めて永遠に自分を許さなくなるかもしれない。そうは思わねえか?」
「……ええ。そうかもしれないわ」
「それを知っていながら、それでもあんたはおとなしく死ねるんだ?」

 ――あいつを残して?

 ユージーンの試すような、どこか責めるような口調に、何よりもその内容ゆえに――決意を固めていたはずの王女の心は脆くもかき乱されそうになる。
 それまでずっと真っ直ぐにユージーンと向かい合っていた王女が俯いたのは、彼女がその日見せる初めての動揺だったのかもしれない。
 彼の言うとおりだった。それは王女の決断を最後の最後まで悩ませた、最大の砦だったから。
 最愛の人に酷なことをしようとしているのだ、王女は。
 王女が選択しようとしている道は、リオウを生きながらえさせる目的でありながら、リオウの心に深い傷を残すことが大前提になっている。それを思うと王女の心は激しく痛む。残されたリオウを思うと、その身が引き裂かれそうなほどに、辛い。

(――だけど、それでも私は……)

 王女は拳を強く握り締め、きゅっと唇を引き結び、昂然と顔を上げた。くじけそうになる自らを奮い立たせるかのような仕草だとユージーンには思えた。

「私は、どんな辛い運命であったとしても、逃げを選んで自ら死を選ぶような真似はしたくはないわ。それに、リオウの気持ちを知っているからこそ、なおさら生きていたいと思う。だけど二者択一しか道が残されていないのなら……それ以外に選べないのだとしたら、私は彼に生き残ってほしい。そして、」
「そして?」
「リオウには、新たな幸せを見つけてほしいと願うわ」

 王女が最後の部分だけ少し寂しそうに微笑んだのは、王女の言うリオウの「新たな幸せ」の図にリオウの隣に自分ではない女の姿を思い描いてしまったからかもしれない。
 王女の話に耳を傾けながらユージーンはただぼんやりとそんなことを考えていた。
 王女の寂しそうな笑顔を苦く感じていたユージーンの手に、白く華奢な手がそっと重ねられる。ユージーンは王女の行いに僅かに戸惑ったものの、その手を振り払うことはしなかった。

「あなただって知っているはずだわ。あなたが私を手にかけたら、リオウはあなたを許さないかもしれないことを。それでもあなたも選んだのでしょう? リオウを救うために、あえてリオウに憎まれる道を」
「…………」

 穏やかで、いたわりに満ちた言葉だった。自分を殺しにきた相手のはずなのに、まるで同志に向かって語りかけているかのような王女の態度だった。
 ユージーンは何も答えなかった。王女もまた、それでかまわないと思っていた。
 重ねられた手から、王女の体温だけでなく、その心根の暖かさ、リオウに対する溢れんばかりの想い、そして自分を殺しに来たユージーンに対する慈しみまでも、全てが伝わってくるようだった。

(あったけえな。奪うことしか知らない俺たちの手では生み出すことのできない温かさだ。……おまえはこの温もりを愛したのか? リオウ)

 ユージーンやリオウが決して持ち得なかった温もり。幼い頃からずっと飢え続けてきた、人の温かさ。
 その心地良さに浸りながら、ユージーンは無意識に王女の手を握りしめ、顔を伏せる。そしてそっと瞳を閉じた。
 ユージーンは今自分がしているであろう情けない顔を誰にも見られたくないと思い、王女も黙って彼の手を握り返すことしかしなかった。
 王女の気持ちもユージーンの気持ちも、当事者であるリオウの気持ちを無視したものだ。 残される者の悲しみよりも、自分たちのエゴを優先させるだけのもの。それを分かっていながらも、ユージーンも王女も、たった一人を、同じ相手を守りたかった。
 ユージーンと王女。暗殺者とその標的。殺す者と殺される者。
 相対する二人でありながら、その利害は完全に一致していた。
 王女の命を絶つことによってリオウの裏切りを闇に葬る。そしてリオウを生き永らえさせる。

(だけど皮肉だな。俺とお姫さんはおまえを救いたいと言いながら、揃いも揃っておまえが最も望まない結果を選ぼうとしている)

 ――リオウの裏切りは一時的な気の迷いにすぎない。王女を殺せばリオウの目もいずれは覚める。
 ユージーンは最初、単純にそう考えて、しばらくはリオウの様子をただ窺うことしかしなかった。もしかしたら、リオウの乱心ぶりを面白がってすらいたのかもしれない。
 しかし皮肉にも、そうやってリオウに猶予を与えたことにより、彼が本気だということはすぐに見て取ることができた。笑い事ではなかったのだ。だからこそ一刻も早く王女を始末しなければ取り返しがつかなくなると判断を下さざるを得なくなった。
 王女に指摘されたように、彼女を殺せばユージーンはリオウに憎まれることになるだろうことも予想が付いていたが、それでもユージーンは動かずにはいられなかった。

(それでも俺としては、おまえに生きていてほしかったわけよ。おまえは唯一の腐れ縁ってやつだからな……)

 「かけがえのない友」。
 王女はリオウとユージーンの関係をそう言ったけれど、ユージーン自身は自分たちの関係を表す言葉など実のところよく分からない。
 そもそも「友」という概念が分からない。字面の意味ではなく、その実質がなんたるかが理解できていないのだ。そんなものとは無縁の世界で、それを当然のものとして生きてきたからだ。
 リオウは仲間だ。自分と同じ、一族の手駒の一つ。だけど仲間達の中でも、ユージーンにとってたしかにリオウは特別だった。
 特に突出した技量を持つ彼ら二人は一族においてもある意味異質な存在で、真に「同族」と呼べる者が他にいなかったからかもしれない。
 性格的には水と油の二人なのに、事実それほど密着した関係でもなかったのに、ユージーンにとってはリオウは明らかに他者とは違う次元の存在だった。

 いつまでもリオウの裏切りを一族に隠し通すことはできない。今この時でさえ、長老たちはリオウを疑い始めている。彼らがリオウを黒だと判断する日は近く、そうなればもうユージーンにも彼を庇いきることはできなくなってしまうだろう。
 ユージーンは一族を愛しているわけではない。今まで育ててもらったことを別段感謝しているわけでもないし、あえて言うなら、その恩に報いるだけの仕事はすでに充分すぎるほどにこなしている。
 だがそれでも、ユージーンの帰る場所は、彼が生きていける場所は、一族の中だけだった。だからリオウを殺せと指令が下れば彼はそれを実行することになる。リオウを助けたいと思っていても、一族の一員としてこれからも生きていく以上はそうすると決めている。
 いかに一族屈指の腕利きであるリオウであっても、一族全体を敵に回して生き残れる可能性はきわめて低い。だからこそその前に王女を始末しようとここを訪れたというのに、どうしてもそれが躊躇われてしまう。自分がしようとしていることが間違っているのではないかと今更ながらに迷わずにいられなくなる。

(どんな相手だろうと躊躇したことなんかなかったのに、な)

 いっそのこと、リオウを危険に晒す原因となった王女が馬鹿であればよかった。
 リオウのお荷物にしかならないような女であれば、リオウの命よりも自分の命を惜しむような、そんな、リオウが命を賭けるに足りない女であれば、どんなにかよかっただろう。
 そうであったなら迷うこともなく、今すぐにでも王女を始末できたのに。
 半ば本気でそう思いながらもユージーンはリオウが愛した女が、そしてリオウを愛してくれた女がこの王女であってよかったと心から思うのだ。
 そう、王女を殺したくないと今自分がそう思っていることにユージーンはとっくに気づいていた。
 この優しく強く愛情深い女に生き延びてほしい。――リオウのためにも、彼女のためにも、そしてこの自分自身のためにも。
 人並みの幸福を得ること。そんなささやかな願いはしかし、暗殺者として生きてきたユージーンとリオウにとっては今まで考えることすら許されなかった、いや、それ以前に考えることすら思いつかない願いだった。
 しかしそれが叶うかもしれない。この王女がいれば、リオウは夢見ることすら許されなかった幸せを掴めるのかもしれない。

 ――その奇跡を、夢見たい。

 そう望んでいる自分に、ユージーンは気づいてしまっていた。
 王女を守るためならばリオウは何が何でも生き延びようとするだろう。彼女の障害になるものは容赦せずに排除するだろう。たとえそれが、この自分であろうとも。
 この王女さえいればリオウは今以上に強くなれるのかもしれない。新たな道が拓けるのかもしれない。

「かーっ!!」
「ユ、ユージーン?」

 突然奇声をあげ、椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がったユージーンに王女は驚き、彼女もまた腰掛けていた寝台から身を起こした。おろおろしながらユージーンを見上げている。

「ユージーン? どうしたの? あの、大丈夫?」

 心配そうな王女の言葉も今のユージーンの耳には届いていなかった。

(あれこれ考えるのは俺には向かねえ! リオウは女のために命懸けの大博打に出やがった。だったら俺も……賭けてみるか)

 ――この王女には、それだけの価値がある。

 ユージーンは心の最奥でそう呟き、覚悟を決めた。
 迷うことは、止めた。

「お姫さん」

 それまで王女が呼びかけてもずっと反応を見せなかったユージーンが、王女に声をかけた。その日王女が聞いた中で最も低い、彼の声だった。常の軽々しさは完全になりをひそめている。
 部屋の空気までが変わったように王女には感じられた。


 ――来るべき時が来た。

 王女は揺るがぬ決意を込めてユージーンを見上げた。



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