Eugene+Princess (王宮夜想曲)


「ここは一つ、俺とゲームをしてみねえか?」

 ユージーンが告げたのは、王女を絶句させるには充分な内容だった。今までの流れをまるで無視した、王女にとっては予想だにしなかった言葉。
 ――彼ならば自分の気持ちを理解してくれる。いいえ、彼以外には真に自分の気持ちを理解できる人などいない。そう信じていた王女は、よりによってそのユージーンに自らの決意を踏みにじられたような気がして感情に従うままに露骨に眉をひそめ、彼を睨みつけた。

「こんな時にふざけないで」
「これでもふざけてるつもりはないんだけど? ま、話は最後まで聞けって」

 不愉快さを隠そうともしない、普段の王女からは到底考えられない態度に苦笑しながら、ユージーンは懐から一枚の硬貨を取り出し、それを王女の前にちらつかせた。
 王女はとりあえず押し黙って、それを確認する。
 薄汚れた黄金色の硬貨は、ローデンクランツ先々代国王、つまり王女の今は亡き祖父の在位三十年目に製造された記念硬貨であり、表面には当時の国王の肖像が、裏面にはその王妃、すなわち王女の亡き祖母の肖像が刻まれている。

「これ……?」
「表か裏かを当てるだけのゲーム。単純明快だろ?」
「……このゲームに何の意味があるのか訊いてもいいかしら」
「ああ。お姫さんにとっては都合のいいゲームだと思うぜ?」
「どういうこと?」
「お姫さんが勝ったら俺はこのまま引き揚げて、あんたにも、あんたの弟にも、今後一切手を出さないと誓う」

 瞬間、王女の瞳は驚愕に瞠られた。

「何を」

 言っているのだろうか、ユージーンは。
 言葉の意味は分かるが、その真意を理解できなかった。ユージーンはリオウを救うために王女を殺しに来たはずではなかったか。

「でも……。カインのことはともかく、私だけでも死なないとリオウが……」

 ――裏切り者として一族に処分される。

「ああ。俺もそう思ってここに来た。リオウの足枷であるお姫さんさえ始末すれば、あいつが裏切り者でいる理由がなくなるからな。でも正直言って分からなくなった。だから決断を運任せにしてみるのもおもしれぇんじゃねぇかと思ったってわけだ」
「分からなくなったって、何が?」
「あんたがリオウにとって、本当に足枷なのかどうかってことがな」
「どういうこと?」
「あんたさえいなくなればリオウは目を覚ますかもしれない。だけど覚まさないかもしれない。後者の場合はむしろ、あいつは弱くなるかもしれねえ。俺にはよく分かんねぇが、守るべきものがなくなったら人間何もかもどうでもよくなったりするもんだろ? そうなれば一族に裏切りが発覚しようがしまいが、どの道あいつはこの先、生き残れるはずがない」

 俺たちの稼業は腑抜けじゃ生き残れねえからな、とユージーンは小さく笑う。

「いや、生き残るどころか、お姫さんの後を追ったりして? あんたは知らねえだろうが、リオウは元々生存本能に逆らってないってだけで、自分の命にもたいして執着してないんでね」
「……そんな」
「あんたがこのままあいつの傍にいれば、あいつはあんたを守ろうと今より強くあろうとするだろう。そうすりゃ、もしかしたら二人ともに生き残れるかもしれない」
「……でも」
「結局のところ、お姫さんを始末しようがしまいがリオウの行く末は俺にも分からない。どっちの選択も危険で穴だらけだからな」
「…………」

 唇を噛み締めるように口を噤んでしまった王女を見下ろしながら、ユージーンが畳み掛けた。

「お姫さんが勝ったら、さっき言ったように俺はあんたたち姉弟には手を出さない。もちろん一族とは別に俺個人の話だけどな。だけど一族の中でリオウと互角にやり合えるのは俺ぐらいだから、俺が手を引くだけでリオウの負担は随分軽くなるはずだ」
「だけどその場合、リオウは裏切り者として確実に命を狙われることになる……」
「そうだ。でもリオウはあんたを守ると誓ったんだろ? だったらまず、あんたがそれを信じてやれよ」

 ――信じてやれ、リオウを。

 飄々として何を考えているのか読みにくい男の、しかし確かに真摯な思いの篭った一言に王女ははっと顔を上げた。
 ……もしかしたら今まで自分はリオウを信じると言いながら、心のどこかで信じきっていなかったのだろうか。
 王女の心に常に最悪の時のことが想定されていたのは、王女との約束を守ろうと命を賭して戦おうとしているリオウの心を無碍にする行為でしかなかったのではないか。王女の心に迷いとそれ以上の後悔、そしてリオウに対する申し訳なさがじわりじわりと沸きあがってくる。
 「最悪の時」はこの先やってくるのかもしれない。しかしそれを「今」だと決めるのは、王女でもユージーンでも、きっとないはずなのだ。最後までリオウを信じて、王女自身も足掻いて足掻いてそれでもどうにもならなくなったその時にこそ、最悪の時はおのずと訪れるのだろう。
 今自分がすべきことは自分から全てを諦めて生を手放すことではなく、リオウを信じて自分も生き延びようとすることなのだ。
 王女はそう気づき、強く拳を握り締めた。そして改めて確かな決意を宿した力強い瞳でユージーンと向き合った。

「あなたが勝ったら?」
「そん時は当初の予定通り、この場であんたの命を貰うだけだ。な? わっかりやすいだろ?」

 たしかに分かりやすいゲームだった。ただの二択。しかし究極の二択。――生か、死か。
 本気とも冗談ともとれない薄笑いを浮かべているが、ユージーンの眼だけは笑っていなかった。
 『本気なら、命賭けろよ』
 王女には、その瞳がそう語っているように感じられるのだった。
 先程まで王女は、リオウのために死ぬことを運命として穏やかに受け入れるつもりだった。それが今、二人で生き延びる未来を選択した途端に新たな局面を向かえ、体が素直な反応を見せ始めていることに彼女自身も気づいていた。
 生き延びたいという欲求と眼前に迫る死の影が王女の心でせめぎあい、それまで凪いでいたはずの心を刺激して揺さぶっているようだった。背中にはじっとりと嫌な汗を感じ、喉の奥が乾き始めている。
 王女の中で死を恐怖する心が確かに今蘇ったのだ。しかしそれこそが本来の心のあり方なのかもしれない。

「二分の一の確率でリオウと生き残る未来に賭けるか、即この場で死ぬか。俺はどっちでもいいぜ。無理強いはしない、決めるのはあんただ」

 ユージーンがそう言い放った直後、それまで固く息をつめていた王女が一瞬目を見開くとふと口元を綻ばせる。
 クス……と小さな笑みを零した彼女に、ユージーンは怪訝そうに眉を寄せた。

「ああ? なんだよ、いきなり。俺、おかしなことでも言ったか?」
「いいえ、何でもないの、ごめんなさい。以前、あなたと似たようなことを言った人がいたのを思い出しただけ」
「ふーん?」

 命を賭けた選択を迫られながら微笑を浮かべる女。
 ユージーンの目には、そんな王女がさぞかし奇妙に映ったことだろう。

 『無理強いはしません。君が決めることですから』

 建国祭前夜、とんでもない取引を持ちかけて自分に決断を迫った、残酷で愛しい人。
 王女には彼の声がユージーンの言葉に重なって聴こえたような気がした。彼に背中を押されたような気がした。

(やっぱり良く似ているわ。器用そうに見えて案外不器用なところまで同じような気がする)

「で、どうする?」
「やるわ」

 王女は両手をきちんと組み、迷いなく言い切って、しかしその直後に乞うように言葉を足した。

「一つだけ、お願いしていいかしら」
「あん?」
「もしも私が負けた時は、できれば、目を覆いたくなるような殺し方はしてもらいたくないの」

 一瞬だけきょとんとしてから、ユージーンは何ともいえない微苦笑を浮かべていた。死を前にして言い残すべきところがそこなのかという呆れと、しかしそれは女性ならではの素直で切実な望みなのかもしれないという妙な納得の仕方をしながら。

「美しく死にたいってか? さあっすがお姫さん、死に様にまでこだわりがあるんだ?」

 からかうようなユージーンとは対照的に、王女の表情はいたって真面目そのものだった。

「……愛する人の無残な死に様を見ることほど、辛いものはないから」

 遠くを見つめるような王女の瞳に翳りが走ったのを見て、ユージーンははっと息を呑んだ。そう言えば、王女の両親は事故で死んだのではなかったか。馬車ごと崖から落ちたという両親の遺体を見た時のことを、彼女は今、思い出しているのだろうか。
 だからせめて、王女の骸を見た瞬間のリオウの衝撃が少しでも小さいものであるようにと、王女はそう願っているのだろうか。

 人は皆、同じだ。身分が高かろうと低かろうと、大人だろうと子どもだろうと、男だろうと女だろうと。死んでしまえば、皆、同じ。ただの肉の塊に成り果てる。
 リオウの価値観は誰より長く彼の傍にいたユージーンが一番良く知っている。そしてそれはユージーンにとっても全く同じ価値観だと言えた。
 リオウならば、どのような骸を見ようとも眉一つ動かしはしない。たとえ常人ならとても正視できないような無残なものであろうとも、リオウの心が揺らぐことはない。これまでも、そしてきっと、これからも。
 しかし。

「同じ死が訪れるのだとしても、せめて最期の瞬間は安らかだったのだと、リオウに信じさせてあげたいの」

 リオウの唯一の例外。それがこの王女だ。

「……了解。この世で一番綺麗で安らかな死に顔ってやつを約束してやるよ。ついでに、何が起こったかも分からないうちに……一瞬で終わらせてやるさ」

 ユージーンの言葉に王女はその日一番の穏やかな微笑みでそれに応えた。ありがとう、と。
 その笑顔が直視するには眩しすぎて、ユージーンは僅かに目をそらす。

「んじゃ、いくぜ?」

 王女が重々しく頷くと、ビシッと小気味良い音を立てて硬貨が垂直に飛んだ。
 それはユージーンの左腕めがけて真っ直ぐに落下し、硬貨がまだ回転している段階で、彼の手のひらによって蓋をされる。
 王女はそれを凝視する。
 一瞬の沈黙。
 ユージーンが口火を切った。

「どっちにする?」
「では、表を」
「そんじゃあ俺は裏だ。……恨みっこなしだぜ?」
「ええ、真剣勝負ですものね」
「んじゃ、開けてみますか」

 心もちの緊張感を残しながらも、それでも迷いは吹っ切ったような王女の微笑み。
 こんな時にこんな風に笑えるなんてな――と、見た目の儚さとは違って芯が強い王女を快く思いながら、ユージーンは少しずつ手のひらをずらしていく。
 少しずつ、ゆっくりと。
 現れたのは、厳めしく正面を見据えた先々代国王の肖像。
 ――表。

「あーあ、俺の負けかよ」

 悔しがっている内容でありながらその真意を読み取れない飄々とした口調でぼやくユージーンの横でグラリと王女の体が揺らぎ、ユージーンが咄嗟に王女の腰を支えてやらねば彼女はそのまま床に体を強く打ち付けていただろう。

「おいおい、もしかしてお姫さん………びびってたのか〜?」
「当たり前でしょう? そんな意外そうに、あなた、人を何だと思っているの?」

 いっぱしの口をききながらも王女はまだ体に力が入らないらしく、腰をユージーンに片手で支えられながら、やや非難めいた目つきで彼を見返した。
 彼女の目の淵が赤く染まっているのは、気恥ずかしさからか、からかうようなユージーンが面白くなかったのか、それとも極度の緊張から解放された安堵のためなのか。
 ユージーンは王女を寝台に座らせ、自分は立ったまま腕を組んだ。

「そのわりに落ち着き払ってたじゃん」
「そんなことはないわ。これでも夜着の下は冷たい汗が滲みっぱなしだったのよ?」
「ほんとかよ? 試しに触ってみてもいいか?」
「駄目よ」
「んだよ。その肌に触れていいのはリオウだけってか?」

 たしなみある淑女にとっては露骨な言葉だと言えた。特にこの王女が男慣れしていないことは一目瞭然で、ユージーンも当然、王女からは慌てふためいたり彼を非難したりする反応が返ってくるのだとばかり思っての発言だったのだが。
 意外なことに、王女は頬を赤らめ、俯き加減ながらも「ええ」と呟いたのだった。
 それこそこの手のことで照れを感じることなど微塵もないはずのユージーンも、かえってこの初々しすぎる素直さには一抹の気恥ずかしさを感じてしまい、王女を再度からかうことも出来ずにただポリポリと頬を掻く。
 そんな自分を誤魔化すように、彼はわざと陽気な声を上げた。

「にしても、あの落ち着きぶりはたいしたもんだったぜ? 死を前にして頭のネジがぶっ飛んだんじゃねえかと本気で疑っちまったほどだもんな」
「だって、リオウの友人にみっともないところは見せたくなかったもの」

 リオウの恥になるでしょう? と。
 邪気のない笑顔を向けられて、いや、王女の言葉の内容にか、ユージーンは再び言葉を失った。そしてしばらくして大きく肩を竦める。

「……敵わねえな」

 どう対応していいか分からないといった、困った表情で。しかしはにかむような微笑みを王女に向けて。
 そしてユージーンは王女に背を向け、「んじゃ行くわ」とだけ告げて、窓に向かって歩き出す。

「待って、ユージーン!」

 ユージーンは立ち止まり、顔だけで王女を振り返る。

「私なんかにお礼を言われたくなんかないでしょうけど……それでも言わせてほしいの。本当にありがとう」
「……やっぱ、あんた、どうかしてるぜ。あんたは賭けに勝った、それだけだ。もしも賭けにあんたが負けてたら、俺はあんたを殺してたんだぜ? そんな相手によく礼なんか言う気になれるもんだ」
「でもあなたは私に生き残るチャンスと勇気をくれたわ。あなたがあのゲームを持ち出さなかったら、私は踏ん切りがつかなかったかもしれない。それにあなたがリオウを大切に思ってくれていることが、私、とても嬉しかったの」
「…………」
「私、もしも生き残れたなら、必ずリオウを幸せにするから」

 ――だから安心して?
 そう言われたような気がして、ユージーンは口元を緩めた。

「ああ、是非そうしてやってくれ。あいつが聞いたら泣いて喜びそうだ」

 再びユージーンは今度こそ完全に王女に背を向けてから、でも、と付け加えた。

「……『もしも』じゃなくて絶対に生き残れよ。で、あんたも幸せになれ」

 もう後ろを振り向かなくても、ユージーンには王女がふわりと微笑んだのが気配で分かった。

「ええ、そうね。ありがとう、きっとそうしてみせるわ」

 王女に見守られる中、ヒラヒラと片手を振って、ユージーンはしなやかな身のこなしで窓からその身を滑らせて行った。





 城内の警備を難なくかいくぐり辿り着いた神殿脇の林の中で、ユージーンは懐から三枚の硬貨を取り出し、指で弾いてそれらを全て草むらに捨てた。
 一枚は表には先々代国王が、裏にはその王妃の肖像が描かれた、正真正銘、国王在位三十周年記念の記念硬貨。二枚目は、表と裏の両方に国王の肖像が描かれた硬貨。そして三枚目は、表と裏の両方に王妃の肖像が描かれた硬貨だ。

(お姫さんは先々代国王に目に入れても痛くないってほど溺愛されてたって話だから、そのじいさんが描かれた表を選ぶとは思ってたけど)

 彼の予想通りに表を選んだ王女にユージーンは苦笑する。

(誰かさんと違って素直で可愛いこった。……ま、お姫さんが裏を選んでいたとしても、このユージーン様の腕前で誤魔化してみせたがな)

 いかさまをするまでもなく王女はユージーンに勝った。そしてリオウのために、そして彼女自身のために生きようとする強い意志を取り戻すことができた。
 きっと彼女はもう大丈夫だ。「生き抜くこと」に揺らぐことはないだろう。
 運命なんて目に見えないものは信じていない。しかしそれでもこれは運命だったのかもしれないとユージーンは笑う。
 お空の神様とか呼ばれる奴も、こんなひねくれ者の暗殺者よりも可憐で一途な女の子のほうに肩入れしたくもなるわな、と。

 ユージーンは目を細め、一度だけ、後にしたばかりの王宮を振り返った。

(なあリオウ。最初はおまえが何をとち狂ったんだかと思ったけど)

 今ならば分かる。リオウが王女を愛した理由が。

(あのお姫さんは俺には眩しすぎるけど、な……)

 あの王女ならば大丈夫だ。リオウを任せられる。
 リオウが王女の身を守り、そして王女がリオウの心を守りながら、あの二人は二人で「幸せ」とやらを模索していけばいい。仲睦まじい二人の姿は、自分にはお目にかかることはきっとできないだろうけど、とユージーンは確信しているけれど。

(だからリオウ、俺を殺せ)

 俺を殺せば、一族は少なからず足並みが乱れる。
 その隙を狙え。

 次に会う時は、おそらく自分とリオウの腐れ縁が終わる時だとユージーンには分かっている。だけどその時は手加減をするつもりはなかった。ユージーンを殺せないようであれば、リオウはきっとあの王女を守り抜くことなど無理だから。
 ユージーンは躊躇わず本気でリオウに刃を向けるだろう。

(だから躊躇せず俺を殺せ、他ならぬおまえの手で)

 そして幸せになれ。
 俺が唯一友と呼べるかもしれないおまえには、幸せになってほしいから。

 頭の中に浮かんだその言葉にユージーンは僅かに口の端を歪めた。

「『友』ねえ。やっぱ、らしくねえけど……でも案外悪くない響きかもしんねえな」

 ――あいつはすっげー顔して嫌がるだろうけどな。

 もう一度小さく笑ってからユージーンは今度こそ王宮から背を向け、二度と後ろを振り返ることなく林の中へと歩を進めていった。
 彼の唯一帰るべき場所へ戻るために。
 そして来るべき時を待つために――。





守りたいもの、
守るべきもの


(2006/01/28)





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