Eugene+Princess (王宮夜想曲)


 何の前触れもなく、唐突に。本来その場にいるはずのない人間が、当たり前のようにその場にいたならば――。
 人は言葉すら失い、身じろぐことすら忘れ、ただそれを凝視することしかできなくなる。
 王女は今、身をもってそれを実感していた。
 王女の視線の先には一人の男がいた。瀟洒な壁にゆったりともたれかけ、口の端に笑みを浮かべた、黒服の男が。
 王女は悲鳴を上げることすら、瞬きすることすら忘れて、本来この場にいるはずのない人間から目をそらせずにいる。気づけば、その男はそこにいたのだ。
 そんな王女を面白そうに眺めていた闖入者が不意に片手を上げた。

「よう、お姫さん! 体調崩してるんだってな、大丈夫か?」

 かねてからの知己であるかのような気安さで、男が王女に声をかける。
 寝台に横たわったまま止まってしまっていた王女の時間の針は、ここでようやく再び時を刻み始めたようだった。彼女は男から目をそらさないままゆっくりと上半身を起こすと、少し強張った顔で男を正面から見据えた。
 対する男は相変わらずの余裕の笑みで、その視線を真っ直ぐ受け止める。

 王女が体調を崩し、弟であるカインの教育の付き添いを休んでいた、ある午後のことだった。


「あなた……リオウの、」
「そ。リオウのお仲間。でもって、建国祭であんたの大事な弟を殺そうとした張本人」

 笑えないことを笑顔でのほほんと話す男は、近くにあった椅子を寝台の横まで引きずっていき、どっかりと腰を下ろす。
 その様子を黙って見守りながら、王女は夜着の下に冷たい汗が滲み出るのをたしかに感じ取っていた。
 男の正体を、王女は知っていた。知っているといっても男がリオウと一緒にいるところを何度か目にした程度で、多くを知っているわけではなかったが。
 一見陽気に見えるこの男はしかし、リオウと同じ一族の暗殺者だった。建国祭での王子暗殺未遂事件以降いっそう厳重な警備体制が敷かれている王宮内に、しかもまだ陽が明るいうちから易々と忍び込んで来るほどだから、その度胸も技量も相当なものなのだろう。
 そう、一国の王女の寝室に物音一つ立てず、まるで気配を感じさせず、男は突如として現れた。外で騒ぎが起こっている様子もないから、誰一人としてこの不法侵入者には気づいていないに違いない。
 そんな男が何をしにやって来たのか。
 愚問だった。王女の見舞いに来たわけではあるまい。暗殺者が部屋に忍び込んでくる目的など、たった一つだ。

(そう。――そう、なのね)

 当たり前のように、王女の頭に答えが浮かぶ。
 もっと驚愕していいはずだった。もっと恐怖に慄き、もっと取り乱していいはずだった。それなのに王女には肩の力が抜けたようにすら感じられていた。
 怖くないわけではない。しかし強がっているわけでもない。事実、男の登場で強張っていた体は今、完全にとはいかずとも不思議なくらいほぐれてしまっている。
 王女は自分でも意外なほど落ち着いている自身に安堵していた。
 王女には漠然とした予感のようなものがあったのだ。いつか近い未来にこんな日が来るかもしれないと。
 そして密かに決意していたのだ。せめてその時は毅然としていようと。――愛する人を守る代償として逝けるのならば、それこそ本望なのだからと。

(その時が来たのね)

 不意に、この国では珍しい色彩の髪と瞳を持つ青年の姿が脳裏に蘇った。
 誰よりも穏やかな顔を持ち、誰よりも冷酷な顔を持つ青年――王女にとって誰よりも愛しい人であり、同時に王女を誰よりも愛してくれているであろう、その人の姿が。

(私がこんなことを考えていたと知ったら、貴方はきっと悲しむでしょうけど。叶うことならば、私も貴方とともにこれからの人生を歩んでいきたかったけれど……)

 かの人は王女の自己犠牲など決して望んではいない。きっと何があっても、それだけは望みはしないだろう。王女が生き延びて幸せになることこそが彼にとっての幸福に繋がることになるのだと他ならぬ王女自身が一番良く分かっていた。
 自惚れるではなく事実として受け止めていた。王女もまた彼に対して同じ気持ちでいたからだ。だから、王女もそうあろうとした。彼のためにも、彼女自身のためにも。互いが互いの幸せを実現するために、そして二人がともに幸せになるために。
 しかし最悪の場合は、たとえそれが彼の意に反することになろうとも、王女は自分の命より彼の命を惜しみたかった。今まで過酷な人生しか歩めなかった分、彼にはこれからの人生を自由に思うまま生きてほしいと願わずにいられなかったのだ。

(だからリオウ……。ごめんなさい。そしてどうか、なるべく悲しまないで?)

 それまで穏やかな微笑を浮かべていたリオウの表情が、悲しそうに、そして王女を責めるような表情へと移り変わる。
 そんな彼の残像を振り切るようにして、祈るような気持ちで王女は瞳を閉じた。

「お姫さん?」
「何でもないわ。それより、こんな格好でごめんなさい」

 そう言って寝台から降りようとする王女の肩を男が軽く押し止める。

「別にそのままでいいぜ? 具合悪いんだろ?」

 しかし王女はそれを良しとせず一度寝台から降りて、改めてその端に姿勢良く腰を下ろした。男の視線と自分のそれが同じ高さで交わることを望むと言わんばかりに。
 男も今度は王女を止めようとはしなかった。

「そういや、名乗るのは初めてだったな。俺はユージーン。あんたみたいな別嬪さんなら、ジーンって呼んでくれてもかまわないぜ?」
「私は、」
「いい、聞かなくても知ってるからな。つーかさあ、俺はお姫さんの寝室に忍び込んできた曲者だぜ? 普通、もっと違う反応するもんだろ? 『あなたは一体何者なの、どうしてここに!?』って大慌てするとか、大声出して人を呼ぶとかさ」
「でも名前を名乗られたら自分も名乗るのが礼儀でしょう? それに、あなたが何者なのかは最初から知っているもの」
「あー、そう、ね。そりゃ、たしかに」
「『どうしてここに』は……そうね、後で訊くわ。あと、大声で人を呼んだとしても、あなたなら誰かが駆けつける前に私を殺してここから逃げることができるのでしょう? もしくは、駆けつけてきた人の数だけ死体が増えることになる。違う?」

 相手を睨みつけるでもなく、怯えるでもなく。ただありのままを映した、王女の静かな瞳。そして動揺のない、淀みない話し方。
 ユージーンは驚いたように僅かに目を瞠った。

「へーえ……。世間知らずでおっとりしたお姫さんだとばっか思ってたけど、こりゃあ意外と……。ま、あのリオウが骨抜きにされたくらいだから馬鹿なわけねえか。あいつ、馬鹿が何より嫌いだしなぁ」

 ほとんど独り言のように呟かれた声は先程までのおちゃらけた話し方とは違い、どこか酷薄な印象を王女に与えていた。

「――あんた、おもしれえな」

 ユージーンはにやりと口角を上げ、そう付け加えた。
 相手を揶揄しているようにも、反対に心底感心しているようにも見える、その笑みと声音。見る者に本心を悟らせないことに長けた者特有の雰囲気を、たしかに彼は持っていた。
 その得体の知れなさが、怖い。
 王女は本能的な怯えを感じる反面、矛盾していると知りながら、その彼に対してどこか安心感にも似た奇妙な思いを抱いてしまったことも、また事実だった。
 ユージーンはきっと、一見友好的な態度とは裏腹に甘い男ではないだろう。この笑顔のまま、躊躇せず、今すぐにでも自分を殺せるだろうと、そう確信できるほどなのに。

(口調は全然違うし、イメージも正反対なのに、やはりどこか似ているからかしら)

 かけがえのない人に。――リオウに。

 対極にいるといっていいほどタイプの異なる二人なのに、リオウとユージーンは同じ空気を纏っているように思えるのだ。本質的な部分が、そう、魂の色が近いとでも言えばいいのだろうか。
 それは単に彼らが同じ組織に属しているからなのだろうかと王女は考え、それを即座に否定する。
 ――違う、おそらくそうではない。そうではなくて、きっと……。

(だからこそ彼は……いえ、だからこそ彼がここに来た)

 少しの間何かを考え込んでいた王女はやがて何かに納得したような顔をして、改めてユージーンに向き合った。

「ユージーンさん」
「『さん』はいらねえよ。てか、ジーンでいいって言ってんのに」
「では、ユージーン」
「ま、いいけど。んで、何?」
「今から私を殺すのでしょう?」

 会話のテンポを一切乱すことなく、事も無げに。「今から出かけるんでしょう?」という台詞と同レベルの軽さで。
 まるで日常話をするかのような口調での、しかも不意打ちとも言えるその発言に、ユージーンは明らかに虚をつかれたようだった。彼はポカンとして王女を凝視してしまっている。

(なんだ? この女……)

 『貴様、この私を殺そうというのか!』
 『私を殺すの……? お願い、お願いだから殺さないで!』

 ――それらは驚愕、激昂、恐怖、あるいは絶望の台詞。
 その手の台詞なら、ユージーンはこれまで何度となく耳にしてきた。そしてその度に、「『殺すのか』って? ハハッ、んなこと、あったり前じゃん? 暗殺者の用事っつったらそれしかないだろ? 他に何があんだよ」などと皮肉を返してきたものだ。
 しかし王女の台詞は明らかに異質だった。揺らぐ感情などほとんど感じられない、ただの意思確認としか聞こえない台詞。
 このようなことはユージーンにとっても初めての経験だった。

(恐怖で頭のネジが飛んだとか? んなわけねーよなぁ)

 ユージーンはたしかに王女が考えている通りの目的でここに来た。しかし今、彼は狩るべき標的を前に困惑を隠せずにいた。
 そもそも王女はユージーンの突然の出現にこそ目を瞠っていたが、思えば最初から冷静で、彼を恐れている素振りはほとんど見られなかった。
 彼がリオウの知り合いだからといって、王女がリオウの想い人だからといって、ユージーンが自分に危害を加えるはずがないなどと甘い考えを抱くほど王女は愚かではないだろう。
 それなのに、この落ち着きぶりはなんだというのか。凪いだ海を思わせる、王女のあの様子は――。

(なんだ? 俺の目的を分かっていて、なんであんな澄んだ目で俺を見つめることができる?)

 ――死そのものを、元より恐れていないのか。

 否、ありえない。
 今まで数多の命を奪ってきたユージーンとて、自分を殺しに来た暗殺者を前にして、ここまで平常心でいられた者など記憶にない。

 ――では、王族の矜持で、下賎な賊になど泣きは見せないと?

 否、それも違う。
 無論、王族としての矜持、自覚はあるのだろう。しかし彼女はきっと、身分によって他者を蔑むような性分ではない。初めて出逢った時から今この時でさえ、王女の目がユージーンを見下したことはただの一度としてなかった。彼が彼女の命を狙う暗殺者であるにもかかわらず、だ。
 ユージーンを蔑むでもなく、かと言って命乞いをすべくユージーンにおもねるでもなく、むしろ対等な者として腹を割って話したいのだという意志のようなものさえ、彼女からは感じられる。

 ――ならば、死を避けられぬものとして、怯えることすら無意味と諦めたのか。

 それも、否。
 死を避けられるなどとは思っていまいが、王女は投げやりになっているでも自棄になっているでもない。

 他人の心を読むことは得意だと思っていたユージーンは今、目の前の王女の心を量りかねていた。





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