Princess+Liou (王宮夜想曲)


 深い深い夜色の瞳。
 それはとても綺麗で、目が離せなかった。
 今思えば、初めて彼の瞳を覗き込んだあの瞬間から、その瞳に囚われてしまっていたのかもしれない。



あの日、僕は君と出会った
 (君と僕、10のお題 / 配布元: MAZE of WIND様



 うららかな日差しが優しく大地を照らし、暖かな風が色とりどりの花々をそよがせては春の香りを運んでくれている。
 草木が萌えいずり、花々が一年の中で最も美しく咲き誇る季節。
 彩りと芳香に満ち溢れた王宮庭園での、いつもと変わらぬ、のどかな午後……のはず、だった。
 頬を撫でていく心地よい春風を感じながら、けれどそれとは裏腹に、私は今、途方にくれていた……それも、この上もなく切実に。

「本当にどうしたらいいのかしら……」

 呟いてみたところで、適切なアドバイスをくれる人間など、ここにはただの一人して存在しない。――当たり前だ、こんな木の上に私以外の誰がいるというのだろう。
 良い考えなど何も思い付かず、出てくるのはため息ばかり。今私にできることと言えば、木から落ちないように、みっともなく幹にしがみついていることだけだった。
 軽い体重が幸いし、この身を支えている枝が今すぐに折れそうな様子はないけれど、だからと言って下手に動けば、とりたてて頑丈そうにも見えないこの枝は折れ、私は大地の味を直接味わう羽目になってしまうだろう……それも、全身を強く打ち付けるという手痛いおまけ付きで。

 ―― 事はいたって単純。いざ木に登ってみたら思っていたよりも高くて、降りるに降りられなくなったという話だ。……当事者が私自身なのだから、単純な話だなどと言っていられないのだけれども。
 下から木を見上げたときよりも木の上から下を見下ろすほうが、その高さをより実感できる。集中し、ただ上を見て木に登っているときには恐怖など感じなかったし、そもそも登れるのなら降りることだってできるはずだと安易に考えてしまっていた……と言うよりも、登りきることしか頭になかったというのが本当のところだ。
 今となっては己の浅はかさと軽率さを嘆くばかりだけれど、そうしたところで状況が打開されるわけでもなく、私はただ泣きたい気持ちで唇を噛み締める。
 改めて足元を見下ろせば、よくもまあこんなところまで登ってこれたものだと自分でも驚くばかりだ。
 少なくとも飛び降りてただで済む高さではないし、それ以前に足が竦んでしまって身動きが取れない。とりたてて高い所が苦手というわけではなかったけれど、足が地につかない木の上にいるなら話は別というものだ。

 王宮庭園を散歩していたときに、ハンカチを風にさらわれてしまったこと――それが事の発端だった。否、それを言うならば、寂しさを持て余していた私の未熟さこそが、そもそもの発端か。

 国王夫妻つまり両親と世継ぎの王子であるカインが同盟国の新国王即位式に参列し、その後しばらく視察のためにその地に滞在することになって、もう半月近くになる。
 国政については国王補佐であるオースティン叔父が問題なく取り仕切っているから、ローデンクランツの日常は何ら変わりないけれど、私の日常だけは、どことなく味気ないものになってしまっていた。
 両親と会えないことも寂しい。それは勿論だけれど、たとえ同じ王宮内にいても両親はいつも多忙で頻繁に会えないのが日常茶飯事であり、それに両親の諸国訪問も初めてのことではないから、まだ我慢ができる。
 けれど今回は、双子の片割れであるカインまでもがいない。それが何よりも身にこたえた。いつも一緒だったカインとこんなに長い間離れ離れになるのは初めてのことで、落ち着かない……要は心細いのだ。
 十七にもなって子どもみたいだと自分に呆れ、恥じ入る気持ちは大いにあったけれど、寂しいものはやはり寂しい。だから少しでも気を紛らわせようとして、一人、今が一番美しい庭園を愛でていた、その時だ――子どもの頃カインが初めて私に贈ってくれた思い出のハンカチが風に飛ばされ、背の高い木の枝にひっかかってしまったのは。
 カインの存在を常に傍に感じたくて、普段は大切に仕舞いこんでいるそれを持ち歩いていたのが悪かった。そして、ハンカチを取り出したときにたまたま突風が吹いたのも、運が悪かったとしか言いようがない。
 近くにいた警備兵に何とかしてハンカチを取ることができないかと相談してみたものの、その木の枝は、せいぜいが身軽な女性か子どもの重さになら耐えられそうな程度にしか見えず、とてもではないが男性が登れるほどの強度はなさそうだった。
 だからといって女性や子どもを登らせるわけにはいかないし、梯子をかけようにも木が高くて素人には不安定な作業になってしまう。
 明日庭師を呼んでなんとかしてもらいましょうと兵に言われ、その場は一旦引き下がったのだけれど……。
 もしも目を離した隙にハンカチが別の場所に飛ばされてしまったら?
 ハンカチが明日まであの枝にひっかかっている保証などない――そう考えると、気が気でない。

 ――男の人には無理。なら、私なら……?

 低い木ではないけれど、そのときの私には、決して登れない高さでもなさそうに思えた。幼い頃にはカインと二人、よく木登りをして、当時はカインよりも高いところまで登れたもので……実はそれが、私のささやかな自慢だったのだ。
 もっともそれはあくまでも子どもの頃の遊びであり、落ちても大事になりそうにない高さの木だったから辛うじて許された話であって、妙齢の、しかも一国の王女ともあろう者が木に登るなど、あってはならないことだということは分かっている。けれど、カインにもらったあのハンカチは絶対に失うわけにはいかないのだ、――どうあっても。

 要は、木に登る姿を人の目に触れさせないようにすればいい。

 そう考えたから、私は適当な理由をつけて警備兵たちをその場から遠ざけ、身軽なドレスに着替え、多少の後ろめたさを感じながらも木に登り、なんとか首尾よくハンカチを取り戻すことができた……のはいいが、そのまま降りられなくなって現在に至る。






「本当に、どうしよう」

 当分、警備兵がここに来ることはない。彼らをわざわざ遠ざけたのは、他でもない、私自身だ。
 それに、結局は大声で助けを呼ぶしか手段がないのは分かっていたけれど、兵士たちにこんな醜態をさらすことも躊躇われてしまい、いまだにどうすることもできずにいる。
 淑女の鑑であるべき王女が木に登った挙句、降りられなくなって、木の上から大声で救助を求める。
 その行状を改めて並べてみると、みっともないことこの上ないとつくづく思う。本当にとんでもない醜態だった。
 たとえ兵士たちに口止めを頼んだところで、私のしでかしたことは然るべき筋には当然伝わってしまうだろう。騎士団というものは、えてして職務に忠実で結束が固い。何かと頭の固い彼らが上司への報告義務を怠るとは思えない。
 自分が恥をかくこと、呆れられること、叱責されることは、この際どうでもいい。むしろ自業自得だし、私だって自ら木に登る行為が最善だと思っていたわけではない。
 けれど、私の恥は往々にして私個人の恥では終わらなくなるから困ってしまうのだ。
 エドガーあたりがこのことを知れば目を剥いて怒るだろう。「おまえは両陛下の顔に、ひいてはこのローデンクランツに泥を塗るつもりか、王女としての資質を疑うぞ」くらいのことは当然言われるはずだ。……まったくもってごもっともであり、私には言い訳のしようもない。勿論、自分でも猛省しているつもりだ。
 両親と弟の留守を預かるときだからこそ、王女として襟を正していなければいけないというのに……そんなことは分かっていたはずなのに、足場にできそうな枝々に惑わされ、「これならば私でも」と、全てを甘く見てしまったのは私のミスだ。

「……もう、飛び降りてしまおうかしら」

 それは、ただのぼやきに過ぎなかった。自己嫌悪と少しばかり投げやりな気持ちが手伝って、何気なく漏らしてしまっただけで、本気で口にしたわけではなかったのだけれど。

「…………」

 お世辞にも強靭とは言えない女の身だ。仮に着地できたとしても、その衝撃で五体満足でいられるとは思わない。骨にひびが入る程度で済めば幸い、一番可能性が高そうなのは骨折、あるいは着地に失敗し、打ち所が悪ければ、もっと酷い事態になるかもしれない。
 けれど……国王の娘が無様に木にしがみついている姿を臣下の目にさらすよりは、庭園で転んでしまったと言い張ればまだ体裁は繕えるかもしれない。そんな見え透いた嘘に騙される者はいないことも分かっていたけれど、私が口を噤んでしまえば真実は藪の中だ。
 よくよく考えてみると、実際にそれが最善策のようにも思えてくる。

 ちらり、と、視線だけを動かして、下を見た。
 ……反射的に顎が引き、体が震える。

「………小さい頃に階段から落ちたときより、痛い、わよね」

 打ち身と捻挫。それが私がこれまでの人生の中で経験した最も酷い怪我だったけれど、今回はその比ではないだろう……間違いなく。
 やはり、怖い。
 自分が地面に叩きつけられる瞬間を想像したら、ますます身も心も竦む。ともすれば、痛いと感じる暇すらないかもしれない………それだけは考えたくないけれど。

 だけど。
 危険なのは分かっているけれど。
 ――両親や弟に恥をかかせるよりは、いい。

 覚悟を決めて、私は両手を胸の前で組んだ。神よりも今遠くの地にいる両親と弟に祈りを捧げ、ドクドクと脈打つ鼓動を振り払うように何度か深呼吸を繰り返す。
 なんとか息だけは整えたものの、最後にごくりと大きく喉が鳴ってしまったのだけは、どうしようもなかった。

「い、行くわよ」

 自分で自分の背中を押すべくそう宣言し、木から飛び降りようと体をずらそうとした、まさにあと一歩というところで――。
 さく、さく、と芝を踏みしめる音が、私の行動を遮った。



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