突然聴こえてきた足音に顔を上げれば、黒髪の男性が落ち着いた足取りでこちらに向かってやってくるのが見えた。
逆光のせいで顔はよく見えないけれど、体つきや歩き方から彼がまだ若者であるらしいこと、そして服装から彼が王宮仕えの楽士であることだけは分かった。
散歩だろうか。彼は私に気づいているわけではなさそうで、真っ直ぐ前を見て歩いている。私の体は完全に木の枝葉に覆い隠されていたわけではなかったけれど、こんな高い木を見上げながら歩くような人はいないし、木の上に人がいるなどと思いもしないだろう、ましてやここは王族が住まう王宮内なのだから。
彼は、私が降りられなくなっている木までやってきて、そこに腰を下ろした。幹にゆったりともたれかかったところを見ると、どうやら木陰を探していたらしい。
声をかけるべきなのだろう。
融通を利かせてくれそうにない兵士とは違い、楽士であればこちらが頼めばこのことを黙っていてくれるかもしれないし、兵士ではなくエミリオかジークを呼んで来てもらうことができれば、秘密裏に助けてもらうことも可能かもしれない。
これは最初で最後のチャンスかもしれない。
そう思った私が彼に声をかけようとして、でもあっさりとそのタイミングを失ってしまったのは、声をかけるにしても実際にはどう話しかければいいのだろう、いきなり「助けてください」と言うのも驚かれそうだし、ならまずは「ごきげんよう」だろうか、いや頭上からそんなのは失礼だし、初対面なのだから「こんにちは、はじめまして」のほうがいいだろうか、などと、くだらなくも重要なことで頭を悩ませているうちに、美しい旋律が聴こえてきたからだ。
耳慣れない笛の音色。
清々しく透き通った音だった。
春の風に溶け込んでしまいそうに繊細なのに、凛として。
穏やかで、決して出すぎず、慎ましやかで。
けれど己を卑下するのではなく、その音からは揺るぎない芯の強さ、潔さのようなものが感じられて。
そして、優しい。
――なんて綺麗な音色なのだろう……。
私は今自分が置かれている状況をすっかり忘れ去り……それどころか、恐怖や自己嫌悪といった負の感情が洗い流されてしまったかのように、安らかな心地に浸っていた。
うっとりと目を閉じていた。その笛の音に心を奪われてしまっていた、と言っていい。
初めて耳にするその曲は、もしかしたら異国の曲なのかもしれなかったけれど、どこか懐かしい気持ちにさせてくれる。
私には専門的なことは分からない。だけど彼が今奏でている曲はとても素朴で、特別に難易度の高い曲ではないはずだ。それなのに、今まで聴いたどんな名曲よりも心に残る。
王宮が抱えている楽士は皆一流であるけれど、ここまで心に沁みる音色を奏でる奏者がいただろうか。
もっと、ずっと、このまま聴き入っていたい……心からそう思わせる演奏はやがて名残惜しくも終わりを迎える。
彼は二曲目を奏でるつもりはないのか、この場に再び静寂が訪れた。
彼が今、どんな顔をしているか、私からは見えない。
一方の私は、呆然と、暖かな余韻に浸ること、しばし。
そして、いまだ覚めやらぬ胸の熱さを持て余しながらも、我に返ったときには心からの惜しみない拍手を送っていた。
どんなふうに声をかければいいのかと悩んでいたことなど、もうどうでもよかった。私はただ、今感じたこの感動をどうしても今、彼に伝えたかったのだ。
刹那、彼が弾かれるようにして頭上を見上げたのは当然のことだと言える。
驚きと困惑の色がありありと浮かぶ彼の表情。
自分以外は誰もいないと思って笛を吹いていたのだろうに、思いがけない場所に思いがけない観客が……自分の真上に一国の王女がいたのだから、驚くなというほうが無理な話だ。
木の上から見下ろす私と、木の下から見上げる彼と。
これが、私と彼が初めて顔を合わせた瞬間だった。
そして私は再び息を呑む。優しげで整った彼の顔立ちも目を引いたけれど、それ以上に私を捕らえて離さなかったもの――彼の瞳がそうさせたのだ。
わずかに青みを帯びて見える、黒い瞳。
まるで、光の加減で色彩が変わって見える輝石のようだと思った。
静寂に包まれた夜空のような、深い深いその色から目が離せない。
――綺麗……。
その瞳に引きこまれそうだと思ったのは気のせいではなかった。
その瞬間、「危ない!」という彼の鋭い制止がかからなかったら私はそのまま木から落ち、今頃は彼の足元に体を叩きつけられていただろう……私は無意識に、木の上から身を乗り出すようにして彼を覗き込もうとしていたらしい。はっと気がついたときには危うく足を滑らせる寸前だった。
今更ながらに血の気が引いて、今更ながらに悲鳴を上げて木にしがみつけば、木の下で彼が小さく笑ったような気がした。私が振り返ったときには彼は真剣そのものの、はらはらした様子で私を見上げていたから、それは私の勘違いだったということがすぐに分かったのだけれど。
「あ、あの。こんなところからでごめんなさい。貴方のお邪魔をするつもりも、演奏を盗み聞きするつもりでもなかったのだけれど、その……」
おかしな勘違いをしてしまったこと、図らずも彼の憩いを邪魔して驚かせてしまったこと、みっともない姿をさらしてしまったことに、とにかく私は申し訳ないやら恥ずかしいやら。
だけど、しどろもどろになってしまった私とは対照的に彼はとても落ち着いた様子で、恭しく腰を折り、私に一礼をしてみせた。
「初めてお目にかかります、宮廷楽士のリオウと申します。こちらこそ姫がいらっしゃるとは知らず、姫を驚かせてしまい、申し訳ございませんでした。お怪我はございませんでしょうか」
「そんな! 貴方に謝ってもらうことではないわ、こんなところにいる私が悪いのですもの。それに怪我もしてないわ、心配してくれてありがとう」
笑顔を取り繕って返すと、彼――リオウと名乗った青年も柔和な笑顔で応えてくれたから、緊張感が一気に薄れていくような気がした。
今初めて会ったばかりの人なのに、彼が信頼に足る人物のように思え、気安い気持ちで接したくなってくるから不思議だ。外見的なことを言えば、細身で決して男らしいというイメージではなく、むしろ物静かで中性的な印象を与えているくらいなのに、つい頼ってしまいたくなるような。
「……どうして私がこんなところにいるのか、訊かないの?」
「今日はとても気持ちの良い気候ですし、高い場所から風を感じながら、この美しい庭園を見渡したくなるのも分かります」
親しみを感じさせる口調でそう言って、リオウは微笑んだ。そんな理由でわざわざこんな高い木に登らないだろうことは分かっているはずなのに、それ以上深く私を追求してくることもなければ、その口調に悪意的な含みなども一切感じられない。
完璧な口上といい、私に恥をかかせないようにとの配慮といい、彼は相当利発なようで、そんな彼に私は感心し、素直に好感を覚えた。
私とそれほど年齢が変わらないだろうに、彼は私なんかよりはるかに大人びて見える。
「ですが、姫。まだ春先です、いつまでもそんなところにいらっしゃいますとお体を冷やしてしまいますよ。そろそろ降りられたほうがよろしいかと」
幸い僕たち以外には誰もいないようですので今のうちに、と付け加え、リオウはくすりと笑った。それは、子どもの他愛無いいたずらを発見してしまった時に浮かべるような、微苦笑に似ている。
今の自分を誰にも見られたくないと思っている私の気持ちなど、彼にはお見通しのようだった……もしかしたら、私が兵士を遠ざけておいたのだということまでも。
「それが……。降りたいのはやまやまなのだけれど……降りられなくて。申し訳ないのだけれど、私の侍従か典医を呼んできてもらえないかしら」
「残念ながらその時間はないと思いますよ」
「え?」
言い方は柔らかくても断定的な言葉に、私は首を傾げた。
「顔見知りの兵士に聞いたことがあるのですが、夕方には巡回兵の勤務交替が行われるそうです。もうそろそろその刻限ですから、今から人を呼んでいては間にあわないでしょう」
「そんな……」
城の警備体制を人から教えられるなんて、王女としても長年そこに住まう者としても恥ずかしいことだけれど、今はそれどころではない。ということは、私が追い払ったのとは別の兵士たちが、もうすぐここにやってきてしまうということだ。
リオウがここに来る前にさっさと飛び降りておけばよかったと思っても後の祭りだし、もしも彼が来る前に飛び降りてしまっていたらあの素晴らしい音色を聴くことは叶わなかったのだから、やっぱり飛び降りなくてよかったのかもしれないとも思ってしまう……気持ちは複雑だ。
結局は、兵士の到着を待って救助してもらうしか道はないのか。
そう諦めかけたとき、木の下でリオウが私に向かって両手を広げたのだ。
「……リオウ?」
「僕が受け止めます。飛び降りてください」
「……えっ……?」
「大丈夫です。こう見えて腕力には自信があるのです。絶対に姫を落としたりはしませんから」
リオウは事も無げにそう言った、それも涼やかな微笑みまで浮かべて。冗談かと思ったがそういう雰囲気ではなさそうで、私は目をしばたかせるだけだ。
落下してくる人間を受け止めることは容易いことではない。きちんと受け止めることも難しければ、受け止めることができたとしても受け止める側の彼は私の体重以上の衝撃を受けることになり、もしかしたら私以上に大きなダメージを負ってしまうかもしれない。
そんなことは、あってはならない。
だから私は申し出を何度も固辞した。けれど彼から返って来るのは、変わらぬ笑顔と「心配しなくても大丈夫ですよ」という言葉だけだ。
もしかしたら私を不安がらせないように平気そうに振舞っているだけ、ということも考えられるけれど、私には彼が無理をしているようにも見えない。
彼は男性にしては細身なほうで、どう見ても屈強なタイプではないけれど、不思議と軟弱そうには見えないことも、また事実だ。彼の表情や声音にも乱れはないし、強がっているわけではなく本当に腕力や運動神経に自信があるのかもしれないとおぼろげに思った。
なによりも、彼のあの揺るがない微笑を見ていると、本当に彼に任せておけば大丈夫のように思えてくる。
だけどそれでもまだ躊躇してしまうのには理由があった。
「困りましたね、もうすぐ兵が来てしまいますよ。姫が決断してくださらないのは、僕が頼りなく見えるせいでしょうか」
なかなか煮え切らない私を前に、それまで微笑みを絶やさなかったリオウの笑顔が不意に曇る。まるで、自分が至らないせいでこのような事態を招いてしまったのだと彼が自分を責めるような顔をしたから、私は自分がとても彼に申し訳ないことをしてしまったような気になって、慌ててそれを否定した。
「違うの! そうではなくて!」
「では、飛び降りるのが怖ろしい?」
「それも、たしかにあるけど」
「それだけではない、と。では、どうしてです?」
「それは……、貴方が、楽士、だから」
言ってしまってから、ああ、こんな言い方では誤解されてしまうかしらと思ったら、案の定リオウはそのように受け取ったらしく、ますます表情を曇らせる。
違う、そういうことではないのだ。
「だから、そうではなくて。……貴方の手が」
「手……ですか?」
「もしも私を受け止めた衝撃で腕や手を痛めてしまったら困るでしょう? あんな繊細な音色を奏でる指に、万が一のことがあったら……」
そう言ったとき、リオウが軽く目を見張り……艶のある瞳が、ほんの少し揺れたような気がした。
「だって、その若さで宮廷楽士になるって大変なことなのでしょう? 才能は勿論のことだけど、貴方はきっとすごく努力してきたのだと思うの。その努力の結果を、私のせいで台無しにするわけにはいかないわ」
「……そのようなことを心配してくださっていたのですか?」
「『そのようなこと』なんかじゃないわ。楽士が演奏できなくなれば、即御役目御免で暇を出されることになるのでしょう? ……いいえ、暇を出される云々の問題ではなくて、あれだけの音を生み出す手なのだから、大事にしなくては」
リオウはそれに対しては何も言わず、俯いた。その後彼はすぐに顔を上げたけれど、その形の良い口元に浮かんでいるのは今までの爽やかな笑みではなく、どこか曖昧な笑みだった。苦笑に近いそれは、見ようによっては、どこか自嘲しているようにも見える。
……私は何かおかしなことを言ってしまったのだろうか。
気になって、私がそれを問おうとしたら、それより一瞬早く彼が口を開いた。
「姫はお優しいのですね。でもその心配は無用です。僕は姫を必ず受け止めてみせますし、この手を駄目にして王宮を去るつもりもありません。……僕にはまだ、ここでやらなければならないことがあるのですから」
そう言い切ったリオウの言葉には、とても穏やかな話し方をしているのに、迷いを一切感じさせなければ反論を許さない強さのようなものまで感じられ、私はそれ以上何も言えなくなる。
「……じゃあ、お願いしても……いいかしら……」
おずおずと、ようやく私が素直に彼の申し出を受け入れると、彼は、それでいいのですよと言わんばかりににっこりと微笑んだ。
「では姫。お気持ちの準備が整いましたら、いつでもどうぞ」
再び広げられる、彼の腕。
下を見れば全く恐怖がないわけではないけれど……それでも今は、先ほどまでのような差し迫った緊張感はなく、むしろ奇妙な安心感に包まれているのを感じる。
彼ならば、必ず私を受け止めてくれる。
彼ならば、きっとうまくやってくれる。
根拠などないはずなのにそう確信してしまえるのは、出逢ったばかりのはずなのに私がこのリオウという青年を心から信頼しているからだ。
お人よしだとか世間知らずの箱入りだとかよく言われる私で、実際に私も自分のことをそうなのだと思っているけれど、だからと言って、昨日今日知り合ったばかりの人にここまで気を許すかと言うと、そうでもないと思う。
だから、なぜ目の前の彼をここまで信じきれるのか、自分でも正直不思議に思っていた。
そして、不意に気づいた。
それはきっと、彼の瞳のせいなのだと。
あの瞳を見ていると、なぜか心が落ち着くのだ。
あの瞳を見ていると、なぜか懐かしさを覚えてしまう……あんな色彩の瞳を持つ人には、初めて出逢うはずなのに。
そう、なぜか、とても懐かしい――。
「姫、そろそろよろしいですか?」
覚悟はできましたか?
そんな悪戯っぽい含みを滲ませて、リオウが私の思考を中断させた。
それは、私の緊張をほぐそうという彼なりの気遣いなのだろう。だけどそれはもう必要がない……私はもう緊張などしていないのだから。
それらは全て、他でもない彼が消し去ってくれたのだから。
だから私は彼に心からの笑顔で頷いた。
――貴方を信じています、だから大丈夫。
言葉ではなく態度で私の心からの気持ちをリオウに伝えたかったのだ。
そしてそれはしっかりと伝わったのだろう、彼がとても綺麗に微笑み返してくれたことで、私は彼の気持ちを確信することができた。
もう、耳障りだった胸の早鐘も聴こえてこない。
今、心の中はとても静かで心地よい。
きっと大丈夫、必ずうまくいく。
私を抱きとめてくれるであろう彼の胸に、私はただ安心して飛び込んでいけばいい。
「じゃあリオウ、よろしくお願いします」
「お任せください」
最後に二人、顔を見合わせて微笑みあう。
そして私の足は、その枝から離れた――。
――これが、私たちの始まりの瞬間。
これから数年の後に、私とリオウの間に起こることも。
恋しさも、悲しさも、苦しみも、そして喜びも。
何もかもが、ここから始まる――。
〜Princess〜
(2006/10/14)