僕の寝台の上で眠り姫が目を醒ましたのは、ジーンが去ってから間もなくのことだった。姫の体を気遣ってか、あるいは何も考えていなかっただけかもしれないが、どうやらジーンは本当にごく微量の薬しか使わなかったらしい。
姫はまだぼんやりしながらもここが自分の部屋でないことだけは悟ったようで、半身を起こしたまま、緩慢な動きで周囲を見回している。
しばらくして小さな灯りひとつを灯しただけの薄暗い室内にも目が慣れてきたのか、壁際にもたれかかっている僕の存在にようやく気づいたようで、彼女は不思議そうな面持ちのまま、闇に輝く黄金色の瞳を僕一点に定めるのだった。
「おはよう、お姫様。いい夢は見れたかな?」
「リオウ……。あの、私、どうして」
ここにいるの? と。
そう続けようとしたであろう言葉は出口を失った。この僕の視線に射竦められて。
僕は今、いつになく酷薄な表情で姫を見つめているのだろう。怯えたように息を呑んだ彼女を見れば一目瞭然だった。
「覚えてない? そうだよね、神殿脇の林で一人夜歩きしていたはずの君がどうして僕の部屋にいるのかなんて、覚えてるはずないよね」
当然だ。ジーンはもとより、姫は自分を襲おうとしていた男の存在にさえ気づいていなかったという話だから、彼女の記憶は夜、林にいたところで途絶えてしまっているはずなのだ。
にっこりと微笑みながら寝台へと近づき僕もまたそこに腰を下ろすと、ますます彼女が息を詰めるのが分かった。
微笑んでいながら決して笑っていない目と優しい口調の格差が、そして今夜の彼女の行動を全て僕が掌握していることを示した言葉が、どうやら姫をより効果的に怯えさせたらしい。
「リオウ……、あの、」
「何?」
「私がどうしてここにいるのかはよく分からないけれど、私が夜に一人で外に出てしまったことを怒っている……のよね? あの、軽はずみな真似をして本当にごめんなさい。心から反省しています……」
「へえ、悪いことをした自覚は一応あるんだ。だけど悪いことだと承知の上で、それでも一人で外に出たんだよね?」
姫の顔を覗き込み揶揄するようにそう言えば、彼女は一瞬きゅっと唇を引き結ぶけれど非があるのは自分のほうだと自覚しているらしく、結局何も言い返すこともせぬまま項垂れてしまう。
申し訳なさそうではある。反省しているという姫の言葉も嘘ではないだろう。
こんな神妙な態度を見せられたなら、湯をかけられた氷が瞬時に溶けるが如く僕の怒気も容易に溶かされてしまうのだろう―――それがいつもの僕であったならば。
だけど今夜だけは、僕の中に灯った昏い炎は今もまだ燻り続けたままだ。
姫の夜歩き癖は、王宮で籠の鳥のような生活を余儀なくされている彼女にとっての唯一の息抜きなのだということは知っていたし、彼女の気持ちも分からぬではない。
しかし今は一族が請けた王族暗殺依頼はまだ生きており、せめて全てが片付くまでは夜にふらふら出歩くなと、いや、夜だけでなく無用心に一人で外出するなと繰り返し言い聞かせたのに、どうして彼女はそんな簡単なことを聞き入れてくれないのだろう。
建国祭前夜にしても、一人で外をふらついていたからこそ酷い目に遭ったはずなのに、どうして懲りないのだろう。
聡明で、他者に迷惑をかけることを嫌う素直な彼女なのに、どうして。
いかに外部に目を光らせようとも、肝心要の姫が手の届く範囲にいてくれなければ彼女を守りようがない。歯痒いことだが、所詮僕の体は一つしかないのだ。
今夜だって、彼女の窮地に僕はこの寝台で眠りについていた。
もしもジーンが今夜、気まぐれに王宮にやってこなかったなら。たまたまあの時間に、たまたまあの林を通らなかったなら。
そして、ジーンが気まぐれを起こすことなく、そのまま姫を見捨てていたなら。
今夜もしも、ジーンでなく一族の誰か別の暗殺者が姫に出会っていたならば。
……僕の与り知らぬところで彼女は確実に汚され、あるいは確実に喪われていただろう。
それが何よりも恐ろしい。
姫は僕が愛した最初で最後の人。何物にも替えられない、かけがえのない、たった一人の人だ。
その彼女が失われるなど、想像しただけで僕の全てが凍りつく。彼女とこうやって対峙している今この時でさえ、先程の衝撃の余韻でまだ足元がぐらついているかのような錯覚に囚われているというのに。
だが建国祭以降は僕の言うことを聞いて姫の夜歩きはぱったりと止んでいたはずだった。だから僕も姫の自発的な行動については油断していたのかもしれない。
それが何故、今夜、よりによって林などという特にひとけのない場所に足を踏み入れたのか。建国祭以降大きな動きが見られなかったから気を緩めてしまったのだろうか。
それを問おうとした時だった。僕がそれを尋ねるより早くに、いまだ俯いたままの姫がぽつりと呟いたのだ。
子猫が……、と。
「え?」
「子猫が、気になったの」
「子猫?」
訝しげにそして不機嫌に片眉を吊り上げた僕に若干恐れをなした様子で肩を竦め、上目遣いに僕を見つめたまま姫が小さく頷く。
「昼間カインと林の近くを散歩していた時に子猫が鳴いていたの。すごく痩せていて怪我をしていたから城に連れて帰って世話をしようとしたんだけど、その時は逃げられてしまって」
「それで?」
何となく話は見えてきたが、とりあえず先を促す。間髪を置かないしかも淡々とした促し方にまた彼女の肩が強張ったけれど、僕は態度を改めるつもりはなかった。
「……それで、眠る直前に急にその子猫のことを思い出したら眠れなくなってしまったの。今頃お腹を空かせて鳴いているんじゃないか、怪我が痛むんじゃないかって、どうしても気になって」
「いてもたってもいられず、薬と食べ物を持って一人で林に行ったんだ? お優しいことだね」
そしてきっと、真っ暗な林の中で子猫を探すことに夢中になっていたのだろう。静まりかえったはずの林の中で、背後に近づいてくる男の気配にも気づけぬほどに。
「ごめんなさい。でも、どうしてもあの子猫を放っておけなかったの」
「……もしもその猫が、君を誘い出すための罠だったとしたら?」
「え?」
きょとんとして姫が僕を見上げたのは、むしろ予想通りの反応だった。
そのようなことは彼女たちのような世界の人間には、特に彼女のように人を疑うことを知らない人間には、きっと思いつきもしないことだろう。
だからこそ有効なのだ。
標的が手の届かない場所にいるのならば、相手をそこから引きずり出せばいい。手っ取り早く人であれ物であれ標的の気を引く撒き餌をして、標的のほうから外に出てくるよう仕向けるのだ。
それは僕たちのような人間が使う常套手段の一つ。
そして、姫をおびき寄せる餌がその猫だったとしたら?
「考えすぎだわ」
そう言って、彼女は笑うけれど。
「……だから君は物を知らないって言うんだよ」
そこで呆れたように、責めるようにそう吐き捨てられたのがさすがに気に入らなかったのだろう、途端に表情を険しくしてその柔らかい唇をきつく噛み締める姫を横目に、僕の口からはあからさまなため息が零れる。
たしかにその猫はただの猫なのかもしれないが、身を守るためには疑うべきものは全て疑い、疑いようのない些細なものにまで徹底的に気を回す必要があるのだ。
姫は姫なりに注意しているつもりなのだろう。だがそれでも僕に言わせれば、彼女は自分が狙われているという自覚が足りないと言わざるをえない。
「君は無防備すぎるんだ。君の優しさは美点だと僕も思うけれど、時にそれが原因となって危険を招くこともあるってことにどうして気づけないのかな」
優しすぎて、おおらかすぎて、素直すぎて、簡単に他人を信じすぎて、警戒心がなさすぎて。
僕はいつだってやきもきさせられっぱなしだ。
ただでさえ姫はその容姿も人となりも魅力的であり、仮に王女という肩書きがなかったとしても良くも悪くも人の目を惹きつけてしまうのに、そのことにすら彼女は無自覚なのだ。
「私だって人並みの警戒心は持っているわ。今夜だって、懐剣を忍ばせて一応の備えはしたつもりだもの」
冷たい僕の態度にムキになってしまったのか、多少語気を強めて彼女が言うが――。
「懐剣ってこれのこと?」
姫が大きく目を見開いたのは、彼女の持ち物であるはずのその武器を、今彼女の目の前で僕が手にしているからだ。
暫く呆けたようにそれに見入っていた姫が我に返ったように慌てて懐剣を忍ばせていたはずの場所を探るけれど、当然そこに懐剣を発見できるわけがなく、彼女の視線は再び僕の顔と懐剣へと戻らざるをえなくなる。
姫の夜着の下から、ついさっき抜き取っていた。
それは彼女にそうと悟らせない動作でやってのけたことではあったが、頼るべき武器を奪われたことすら彼女は気づけない。
「いざという時に手にすることができなければ、武器を持つことなど無意味だよ。それ以前に、君が剣で人を傷つけられるはずがない」
何かを言おうとして、でも結局姫が押し黙ったのは図星だからだ。もっとも、彼女はそもそも懐剣を「凶器」ではなく「いざという場合に脅しに使うための道具」程度にしか考えていなかったのかもしれないが。
「人に剣を向けるには、技量だけじゃなくて、人を斬るという意志力がいる。そのどちらも持たない君が向ける剣など、なんの脅しにもならないよ」
「……!」
姫にとっては厳しすぎる言葉だと分かっていた。だが事実だ。
相手を斬る意志を持たなければ剣など玩具と同じ。何の役にも立たない。
僕だって、彼女を傷つけて追い詰めたいわけではない。だけど今夜の僕がどうしても自分の中の黒いものを抑えきれないのは、警戒心の薄い姫と自分を過信していた僕自身に対するもどかしさと怒りのせいであり、――そしてそれ以上に彼女を失うことが怖いせいだ。
ジーンは今夜姫を助けたけれど、それは偶然と気まぐれの産物であって、僕自身の失態をまざまざと目の前に突きつけられる結果となった。ジーンはそうしようと思えば、いつでも姫を殺せたのだ。
そして姫自身の危うさも、同時に浮き彫りになった。
姫に現実を知ってほしい。
たとえ自分の身を守るためだとしても姫の手を血で汚させたくなどないから、僕の目の届く安全なところにいてほしい………自重してほしい。
望んでいるのは、ただそれだけだ。
姫が失われるなんて、そんなこと、僕は絶対に許さない。
ましてや、姫自身の無防備さがその危険を招きいれるなど絶対に許してはならない。
だから。
「君は一度、思い知ったほうがいい」
無機質な色に染めあげた瞳で、感情の篭らぬ口調で、そう宣告すれば。
「リ、リオウ……?」
おそらく無意識に夜着の胸元を握り締め、姫が寝台の上で僅かに後ずさるような仕草で身じろぐのを、僕はどこか嗜虐的な気持ちで見つめていた。
逃げ場を失った獲物を哀れむような、愛しむような、なんとも複雑な感覚で――。