Liou×Princess (王宮夜想曲)


 僕は忠告したはずだ、それも一度や二度ではなく。

 君は一度、思い知ったほうがいいのかもしれない。どれだけ自分が無防備かということを。それがどれだけ危険かということを。
 そして一度、その身に刻みこんだほうがいいのかもしれない。僕がどれほど君を案じているのかということを。
 君を怯えさせるような真似はしたくないけれど、誰が悪いかは君が一番よく分かっているはずだ。

 人間らしい心を持たない僕は、滅多なことでは動揺しない。
 それが僕だと思っていたし、事実、今までの僕はそうだったと思う。
 それなのに。

 君が絡むと、僕の理性の堤防はいとも容易く決壊してしまうんだ。



 ■□■



 静かな夜だった。
 ほんの数ヶ月前に王子暗殺未遂事件が起こったなどとは信じがたいほどに、平和な夜。
 王宮を警備する兵、そして閨で濃密に睦み合う者達以外は、おそらくたいていの者が夢路を彷徨っているであろうその時刻に、窓を小さく三度叩く音が僕を浅い眠りから現実へと引き戻す。
 まどろんでいた意識は条件反射の如く瞬時に覚醒し、それと同時に寝台から身を起こした僕は息を潜め、音がした方向、すなわちバルコニーへと視線を移した。
 ある一定の間隔で三度戸を叩くのは自分たちだけに通じる合図。
 そうでなくても、次期国王の教育担当者に相応しいようにと城内に与えられたこの部屋に辿り着くまでには厳重な警備の目をかいくぐらねばならず、そんな場所に、しかも誰もが寝静まった夜更けに窓から訪問してくる人物など心当たりは一人しかいない。
 しかし。
 緊急の指令が入ったのだろうか。いつもならその人物と落ち合うのは神殿脇の林でと決まっており、彼が直接この部屋を訪れたことなど今までにはなかったことだ。
 それを訝しく思いながらも、周囲に誰の気配もないことを確認してから窓を開ければ、案の定、予想通りの人物の姿をそこに認める。

「よう、リオウ」
「ジーン。……何だ、それは」

 いつもどおり飄々とした男に対し思わずきつく眉を顰め、低く鋭い声を放ってしまったのは、彼の突然の訪問が気に喰わなかったからではない。彼が両手に抱きかかえている荷物が気になったからだ。

「おまえへの贈り物、かな」
「なんだと?」

 漆黒の布でぐるぐるに包みこまれた大きな物体。
 闇に溶け込ませて運ぶために黒い布で中身を包み隠しているのであろうその物体は、明らかに重量感のある、人間ほどの大きさの、何か。
 いや、「何か」ではなく、その輪郭からしても、それは人間なのだろう。瞬時に「死体」という言葉が浮かぶ。
 王宮内に忍び込もうとして、誰かに姿を見られでもしたのだろうか。そして相手を殺して死体の処理に困ったのだろうか。
 否、そんな訳はなかった。彼――ジーンは性格に難があってもその仕事振りは完璧で、仮に死体の処理に困ろうとも他人にその尻拭いをさせるほどプライドのない男ではない。
 そのジーンが危険を冒してまでわざわざ僕の部屋に持ち込もうとしたもの。
 「贈り物」という、いつものにやついた笑みでの意味深発言が引っかかる。

 嫌な予感がした。

 そんな僕を面白そうに眺めながら、ジーンはその布をわざとゆっくり解いていく。
 はらりと布の先端が床に落ち――。
 中から真っ先に姿を現したのは、赤みを帯びた柔らかそうな茶髪。
 明らかに手入れの行き届いたその髪は、疑いようもなく上流階級の女性のものと分かる。
 だがそれは。

 ドクン、と心臓が脈打つ音が耳の最奥で聴こえたような気がした。

 たとえ一房でも僕には分かる。それが誰の髪なのか。
 何度かそれに口づけて、その手触りと香りを楽しんだことのある、その髪の持ち主は。

 刹那、視界から色という色の一切が失われた気がした。同時にドス黒い何かが一瞬のうちに僕の全身を突き抜けて――。

「ジーンッ!!」

 まさかと頭が思うよりも早く、夜着の下に忍ばせておいた短剣に手を伸ばし、弾くように床を蹴っていた。
 躊躇など、なかった。否、一切の思考力が働いていなかったと言った方が正しいのかもしれない。
 ただ体が動いていた。ジーンに向かって衝動に突き動かされるまま――その刃で彼の喉を引き裂くために。
 しかし。その切っ先がジーンの首の薄皮を掠めるか掠めないかギリギリのところで止まったのは、それより一呼吸早くジーンが動きを見せようとする寸前に、その腕の中で息苦しそうに喘ぐ小さな吐息が聴こえたからだ。

「姫……っ!」
「おっかねー」

 切迫した声とのんびりした声が重なる。
 ジーンの腕の中で小さく身じろぎしたことによって、全身をくるむようにして巻かれていた布が完全に床に落ち、それまで隠されていた姿があらわになった。
 赤みを帯びた茶髪に、今は伏せられているが太陽の光を凝縮したかのような色彩の瞳を持つ、華奢で美しい女性。――常春の温もりで僕を包み込んでくれる、僕の愛しい人。
 ジーンに抱きかかえられていたのは、やはり姫だったのだ。
 薄い夜着に外套を纏い今もまだ目覚めない彼女は、静かな、正常な呼吸を繰り返していて、その体が物言わぬ骸ではないという事実を物語っている。

 何故、姫がジーンに。
 何故、ジーンが姫を。
 そして、姫のこの状態は。

 訊きたいことはたくさんあった。混乱もしていた。
 しかしそれを考えるよりも先にジーンの腕から眠り続ける姫の体をもぎ取るようにして奪い、ジーンの前だということも半ば失念して、僕は姫の体に異常がないかを一心に探り続けた。
 息を詰めて僅かな傷も見逃すまいと鋭い視線を走らせ、実際に手で触れて、入念に。
 時間をかけて、繰り返し。
 結果、どこにも異常は見られず、心音も脈拍も全ての身体機能が正常に働いていることを確かめた。
 しかしその後もさらにもう一度姫の体に手を滑らせてしまうのは、何度でも何度でも確かめねば彼女の無事を信じきれない――そんな衝動と疑念に駆られてのことだ。
 けれど何度確かめても姫の体は普段と変わらない温もりが宿っていた。どこに触れても温かさを感じることができるのは、姫の命の灯が彼女の中に確かに灯っているという何よりの証。

 姫は確かに生きている……!

 姫を掻き抱く両手にさらに力が篭る。ジーンがこの場にいなければ、僕はきっと震えるように姫の体に縋りつき、涙すら流していたかもしれない。
 いや。余程注視しないとおそらく見過ごしてしまう程度であろうが、僕の体は今すでに、小刻みに震えてしまっている。
 そしてそれ以上に心が震え続けていた。――姫が無事だったという喜びと安堵と、それとは分類を異にする、全身に冷水を浴びせられたかのような感覚によって。

 ジーンは目聡い男だ。呆れを滲ませたような小さな息をついたのは、おそらくは僕の震えを見逃さなかったからだろう。

「まあ落ち着けよ。お姫さんには薬でちょっとおねんねしてもらっただけだ」
「ジーン、おまえ……!」

 どうしても怒気を収めることのできない僕に、ジーンはやれやれと肩を竦める。

「らしくねぇな。おまえなら女が生きてるか死んでるかぐらい、ちょっと見たら分かったはずだろ?」

 俺、もうちょっとで死んでんじゃんよと、その内容に反してのほほんとしたジーンを睨み続けながらも唇を噛み締めてしまったのは、たしかにジーンの言う通りだったからだ。
 常の僕ならば相手がどのような状況にあるかなど少し観察しただけで容易く見抜けただろう。しかしあの瞬間の僕には、そんな余裕などなかった。
 その反応によって、僕が標的であるはずの姫にどんな感情を抱いているかをジーンにあからさまなまでに曝してしまうことになることも、――何一つ考えられなかった。
 あの時の僕の中に在ったのは純粋な怒りと殺意、そして一瞬で全身が凍りつくような感情――それはきっと恐怖という名をしているはずだ。
 それは姫を愛するようになってから初めて知った感情だった。どれほど自分の身が危うくなった時であろうとも感じたことのない、未知の感情。
 それが、これほどまでのものだったとは。

 そしてそれはまだ治まりを見せてはおらず……けれども全身から今にも噴出してしまいそうな黒い感情を必死に抑え込み、僕はなんとか無理やりに上辺だけでも平静を装った。
 一連の反応でジーンはすでに僕の気持ちを的確に察しているに違いないが、それでも姫への想いをこれ以上強くジーンに印象付けるのは得策ではない。
 どうしても今、ジーンに動かれるのはまずいのだ。
 ジーンならば僕の姫への想いを青天の霹靂と面白がり、無論わずかな間のことだろうがそれを一族には報告せずにこっそりと肴にするくらいの酔狂さを見せるかもしれない。……しかしそれも、あくまでも僕がまだ引き返せるとジーンが考えている限りは、の話ではあるが。
 しかし僕はそれを期待していた。そうなれば多少なりとも一族の動きに備えるための時間を稼ぐことができるからだ。
 そして実際にジーンは今、僕が期待した通りの心境なのだろう。だからこそ姫を殺さずここに連れてきたとしか僕には思えない。

「……ったく。危うく恩を仇で返されるところだったじゃねーか。俺はおまえの獲物を守ってやったんだぜ? 感謝くらいしろっての」
「どういうことだ」
「だから。ちょっと暇しておまえの様子を覗きにきたら、その途中の林でこのお姫さんが一人でうろうろしているのを見かけたわけよ」
「…………」
「で、そこにたまたま、いかにも女に飢えてますって感じの脂ぎった野郎がやって来て」

 ギリ、と音が聞こえそうなほど強く奥歯を噛み締めていた。
 最後まで聞かずとも、それだけで大体の流れは把握できた。……つまりは、そういうことだ。
 だが姫の夜着に乱れはなく体も綺麗なもので、乱暴された形跡など一切なかったから、男の毒牙にかかる前にジーンに救われたということなのだろう。
 彼女はこの通り、無事だ。変わらず綺麗なまま、傷一つない。
 それは分かっている。分かってはいるが、それでも治まらないこの怒りと歯痒さをどうやり過ごせばいいのだろうか。

「このお姫さん、ちょっと鈍すぎんだよなー。舌なめずりしながら近づいてくる男にてんで気づきもしねぇから、見てて苛々しちまってよ」
「それでおまえが気まぐれを起こしたんだな?」
「まーな。べつに放っておいてもよかったんだけど、一応お姫さんはおまえの獲物だろ。男に襲われて舌を噛まれでもしたら、おまえの手柄になんねぇことだし? ……他にもいろいろ、おまえが困るんじゃないかと思ってさぁ」

 いちいち訳知り顔で笑うジーンを忌々しく思う反面、姫が無事に手元に戻ってきたのはそのジーンの気まぐれのおかげなのだ。それには感謝せざるをえなくて、けれど素直に礼を言うこともできず、僕は複雑な気持ちでただ押し黙る。

「刺激的な現場を見せるのもなんだから、まずはお姫さんに眠ってもらったってわけだ」
「相手は同業者じゃないだろうな?」
「それはねえな。ありゃあ、多分この王宮の下級兵士だ。ま、どんな組織にも必ず一人はいるゴロツキって奴だろ。林の中は暗かったし、野郎は完全に酔っ払ってたしで、女がお姫さんだってことにも気づいてなかったみたいだぜ」
「そうか……」

 貸し一つな、と僕の肩を叩くジーンをきれいに無視して、僕はとりあえず姫を寝台へと運ぶ。
 眠ったままの姫を人目につかないように彼女の部屋に運ぶのは容易いことではないが、かと言って今の時間帯を思えばさほど困難なことでもない。
 だが僕はこの時、姫を彼女の部屋に帰すつもりなど毛頭なかった。
 それはジーンにも分かったのだろう。早くもジーンは今入ってきたばかりのバルコニーに向かってくるりと向きを変える。

「戻るのか?」
「ああ。お邪魔虫は馬に蹴られる前に退散するさ」

 と。
 楽しそうな、僕から見れば不愉快な笑いを口の端に乗せたままで。

「そのお姫さんには一度、自分の危うさってやつを自覚させてやったほうがいいかもな」
「……そうだな」
「けどな、リオウ」

 急に硬くなった声音に顔を上げると、一切の笑みを消し去ったジーンが僕を静かな視線で射抜いていた。

「あんまり深入りしすぎんじゃねえぞ」
「…………」
「……んじゃ、戻るわ」

 ジーンはバルコニーから身を翻し、その気配はあっという間に闇の中へ溶け込み消え去っていく。
 だから。
 姫の寝顔を眺めながらの呟きは、もはやジーンの耳に届くことはない。

「深入りするなと言われても………もう、遅い」

 もはや手遅れだ。
 僕はすでに彼女という深みに嵌って抜け出すことなどできはしない。
 もとより、その深みから抜け出すつもりなどさらさらなかったけれど――。




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