Liou×Princess (王宮夜想曲)


『君が僕のものになってくれればカイン様の暗殺を止めてもいい』

 建国祭前夜、僕たちは取引を交わした。
 彼女は望みどおり僕のものになり、僕は約束どおり彼女とその弟を守り続けている。

 あれは、選択肢など無いに等しい取引だった。
 彼女には頷く以外許されず、無理やりに身体を開かされたようなものだ。
 それなのに、どうして彼女は僕のそばから離れていかないのだろう。
 たしかに取引は交わした……けれど彼女には、僕たちを繋ぐ「取引」という名の細い糸を断ち切ることは可能なはずだ。
 僕の正体を皆に明かせばいい。
 そうすれば少なくとも僕は捕らえられ、彼女たちは厳戒態勢でその身を守られることになるだろう。僕のような暗殺者を信じるよりも、彼女にはそのほうがよほど安心できるだろうし、己の身を穢した男に対して一矢報いることもできるはずだ。
 そのことに気がついているだろうに、どうして彼女はそれをしないのか。

 ――彼女はどうして僕を……。

 ここで都合よく解釈したがる自分を、僕は一笑に付す。
 彼女は些細な危険をも冒したくないだけ……そう、最愛の弟を守りたい一心なだけだ。
 けれど彼女がその糸を断たないかぎり、どんなに見苦しくても僕はそれに縋り続けるだろう……いつ切れるとも知れない糸が切れないようにと、彼女との繋がりが切れないようにと祈るように願いながら。

 こんな気持ちは初めてだった。
 理性と意志によって制御できない感情があるなんて、思いもしなかった。
 死神が人を愛するなど有り得ないと何度も自分の心を否定し、この手が彼女に届くはずがないのだと彼女のことを何度諦めようとしても、全ては無駄な足掻きだった。
 それどころか、日に日に彼女への愛しさが溢れ出すばかりで。
 だけどどんなに彼女を想おうとも、愛し方を知らない僕には彼女を傷つけることしかできないだろう。
 僕に許されているのは、約束どおり彼女たちを守ることだけだ。
 これ以上求めてはいけない、……これ以上彼女に触れてはいけない。
 だから僕はあの夜以来、彼女を求めて手を伸ばしそうになる自分を必死で押しとどめている――それがどんなにもどかしくても、僕には彼女を求める資格が無いのだから。





act2. LIOU





 あれからどれくらいの時間が経っただろうか。
 いつの間にか雨音も雷の音も勢いを失い、嵐は確実に遠ざかりつつある。
 それまですっかり正体を失くして僕に縋り付くだけだった姫も、さすがに落ち着きを取り戻し始めているようで、身を震わせることも叫び声をあげることもなくなった。
 もう、僕の助けがなくても自分を支えることができるだろう。
 彼女はもう、一人で大丈夫……姫自身も当然、そのことに気づいているはずだ。
 それなのに彼女は僕の胸に身体を委ねたまま、離れようとしない。そして僕もまた、彼女を包み込んだ腕をほどけずにいる。
 あまたの命を奪い、そして姫とカイン王子の命を奪おうとしていたはずの手が、今は彼女を守るように抱きしめている……皮肉なことだ。
 この現実を、彼女は今、どう思っているのだろうか。
 事実、彼女は一度この手によって傷つけられたはずだった。それなのにどうして、これほど無防備に僕に全てを預けることができるのだろう。身体だけではなく、心まで預けられているような錯覚を覚えてしまうほどに――。
 僕に触れられるなど、彼女にとっては苦痛でしかないだろうに。何故――。

 どうやら僕は、どうしても彼女の気持ちを勘違いしたいらしい。自分のおめでたさにつくづく呆れてしまう。
 そんなことはあるはずがない。答えは決まっている、姫はただ雷が怖かっただけだ。あの時は混乱していた上に、縋る相手が僕以外にいなかっただけ……そう、それだけのこと。それなのに、僕は何を期待しているのだろう。
 そしてそんな姫に付け入り、これは彼女が求めたことだと自分に言い聞かせながら彼女を離さない僕は、卑怯だ。
 けれど。
 ――いっそ嵐が去らなければいい。そうすればそれを口実にしてこのまま彼女と寄り添っていられるのに。
 そんな埒もないことを本気で願ってしまうほどに、僕は彼女に囚われている。
 しかし、現実には嵐はすでに収まりつつある。僕の役目は終わりだ。
 心身ともにあれだけの我慢を強いられた彼女だ、いいかげん休まねば明日の視察に障る。それに僕自身、このままここにいれば、ますます彼女から離れがたくなってしまうのは目に見えている。
 だから僕は、彼女を離そうとしない自分自身に引導を渡すことにした。

「もう、収まってきたようですね」
「……そう、ね」
「…………」

 会話が途切れる。

「明日は朝からご視察でしょう」
「……分かって、いるわ」
「…………」

 また途切れる。いや、途切れさせているのは姫だ。
 俯いてしまっている彼女の表情は窺えないけれど、その時、彼女の手が僕の上衣を握り締めた……僕を行かせまいとするかのように。
 しかしそれがあまりにも弱々しい意思表示だったから、却ってその手を振り払うことが躊躇われてしまう。姫の縋るような願いを足蹴にしてしまうような真似は、僕にはできない。
 いっそのこと、我侭すぎるほどに強く引き止められていたならば、「もう眠らなければ明日に障ります」と、こちらも毅然とした態度で彼女を窘めることができただろうに。

 沈黙が落ちる。
 しばらく続いたそれに気まずさを感じ始めた頃、姫がぽつりと呟いた。ごめんなさい、と、一言。
 何に対してだろう、図らずも今夜僕を拘束してしまったことに対してか、それとも尚も僕を引きとめようとしたことに対してか……その両方だろうか。

「今夜は見苦しく取り乱してしまった上に、貴方に随分と迷惑をかけてしまったわ。本当にごめんなさい」
「迷惑などとは思っていませんよ」
「でも……、呆れたでしょう?」
「いいえ」

 きっぱりと言い切った僕に、それまで項垂れているだけだった姫が顔を上げた。

「その恐怖は姫自身にもどうしようもないことだ。それに姫はそれを人前で見せないよう努力し、会議が長引いても王女としての姿勢を崩さず、立派に我慢なさったではありませんか」

 姫が驚いたような顔をしているのは、彼女の予想に反して僕の言葉に社交辞令的な慰めを感じなかったからなのだろう。
 当然だ、これは僕の本心なのだから。

 姫の雷嫌いは幼い頃からだが、あの時以上に酷くなっているように感じたのは僕の気のせいではないだろう。それはきっと彼女の魂に深く刻まれているからだ……攫われ、一族のアジトから逃げ出した夜の出来事が――この僕に手を引かれ、息を潜め、いつかかるとも知れない追っ手に怯えながら逃げた少女の、あの嵐の夜の恐怖が。それに、奇しくも彼女から愛する両親を奪ったのも嵐が原因だった。
 姫にとって、嵐は鬼門なのだ。
 姫の嵐に対する拒絶反応はたしかに度を超えていたが、その根底にある忌まわしいものを知っている僕には、彼女を無様だと責めることはできない。むしろ、本能的な怯えにひたすら耐えた彼女の姿は、僕の目には眩しく映った。
 そこに、攫われても必死に涙をこらえていたあの日の彼女の姿までもが重なって、あの日感じた想いまでもが僕の胸に蘇ってくる。
 だから僕は――。

「よく頑張りましたね」
「リオウ……」
「僕の言葉など信じていただけませんか?」

 苦笑して尋ねれば、姫は無言でかぶりを振った……何度も何度も、ぶんぶんと音がしそうなほどに。
 その子どものような仕草に、またも微苦笑が漏れる。
 そして僕は姫の頬に触れていた……おそらく無意識だったのだと思う。その時の姫がどんな表情をしたかにも気づくことなく、僕はただ、愛しさに駆られるままに、手のひらに彼女のぬくもりを刻みこんでいた。

「芯が強いかと思えば頼りなくて、凛としているかと思えば子どもみたいで……僕はいつだってそんな君から目が離せなくなる……今だって、」

 ――こんなにも僕を惹きつけてやまない。

 姫の琥珀色の瞳の魔力なのだろうか……僕の両腕が姫の両腕を掴み、引き寄せていた。たしか、初めて彼女に出逢ったあの時も、この綺麗な瞳に吸い込まれそうだと思ったのを今でも覚えている。
 突然のことに驚いて姫は小さく息を呑んだけれど、腕を振り払うでもなく、言葉も無く僕を見上げるだけだ。
 互いが互いの瞳に魅入られたように、相手から目を逸らすことができない。
 二人の間に流れる時が止まってしまったかのようだ。
 やがて姫が静かに瞼を閉じかけた時、僕は誘われるように彼女の唇へと引き寄せられていた。
 何も考えられなかった。ただ僕の全てが、当たり前のように彼女を求めていたのだ。

「リ……オウ」
「……っ」

 しかし唇は、触れそうで触れないところで止まる。
 僕の名とともに姫の唇から切なく漏れた吐息が僕の唇を掠めた時、僕は一瞬にして正気に戻ってしまったから。
 弾かれたように彼女から身を退けば、彼女は驚いたように僕を見上げる。
 その戸惑うような、責めるような、寂しそうな、そしてそれ以上に哀しそうに見える瞳が、針で突くような痛みを僕に与えた。

「……申し訳ありませんでした」

 喉の奥から搾り出すようにして……それだけを口にするのが精一杯だった。
 どんな状況に陥っても機転を利かせ、曇りの無い笑顔を浮かべてその場をやり過ごす自信があったし、事実、僕は今までそうしてきたはずだ。それなのに今は、彼女への言い訳など何一つ浮かんでこない。ましてや、穏やかな表情を取り繕うことすら、できそうにない。

「リオウ……」
「今夜はもう遅い。そろそろお休みください」
「リオウ」
「僕はこれで失礼いたします」

 そう言って踵を返そうとした瞬間だった、背後から僕の名を呼ぶ切羽詰ったような叫び声が突き刺さったのは。
 それがあまりにも切実な響きをもって聴こえたから、振り向けば。
 言葉を失った。あまりに力強い眼差しにぶつかったからだ……こんな姫は初めて見る。さっきまで身も世もなく震えていた面影など、どこにも無い。

「だめよ、行かないで」
「姫……。もう夜も遅いと言ったでしょう」
「……だったら、貴方も今夜はここで休んで」

 固い決意のようなものを滲ませた声音に、その内容に、息が止まりそうになって……今何か言えば声まで掠れてしまいそうな気がした。
 だけど僕は、いや、だからこそ僕は、聞き分けのない子どもに言い聞かせるような口調で、ほとほと困った風を装って肩をすくめてみせた……この、どうしようもないほどの動揺など、おくびにも出さないで。

「まだ心細いのですか? 生憎、僕には子守唄は歌えませんが」
「はぐらかさないで!」
「…………」

 姫の眼差しは僕を激しく糾弾していた。
 姫は本気だ。彼女は今、今まで見せたことのない激しさで僕に向かい合っている………それならば、僕のとるべき道は一つだ。
 僕はすうっと目を細め、顔から一切の表情を消した。そして本来あるべき姿で彼女と向き合い、冷ややかに言い放つ。

「自分が何を口走っているか分かっているのですか?」

 ガラリと一変した僕に彼女は一瞬怯んだように顎を引いたけれど、負けじとして真っ向から僕を見つめ返してくる。
 あの夜以来、これが初めてだった、――僕が姫の前で素の自分を曝したのは。意図的に、それを見せることを避けていたから。
 暗殺者としての僕は、彼女にとっては恐怖と嫌悪の対象でしかないだろうに。それでもそんな僕を前に僅かにでも目を逸らさなかったことも、睨みつけるような眼差しを向けてきたことも、流石に気丈なことだと褒めてあげたいほどだったけれど……おそらく無意識にであろうが胸元で祈るように組まれた両手が彼女の精一杯を物語っていて、僕を切なくさせた。

「男相手にそのようなことを口にするということが、どういう意味を持つのか。お分かりですかと訊いているのです」
「分かっているわ。私はもう子どもではないもの」
「……君は、建国祭前夜に僕に何をされたか忘れてしまったのかな?」

 揶揄するように言えば、ビクリと姫の肩が揺れる。
 自分から口にしたことなのに、彼女の正直な反応にいちいち傷ついている自分に苛立ちが募っていく、――そしてまた、何を考えているのか分からない姫に対しても。

「覚えているわ」
「…………」

 苛立ちは徐々に鋭さを増し、すでに底を突きそうだった僕の余裕を、僕の心から完全にこそげ落としていくかのようだった。

「君はどうかしている。覚えていて、どうしてそんなことが言えるのです。さっきだってそうだ……どうして………何故、拒まなかったのです……!」

 僕が何をしようとしていたか、分かっていたはずなのに。
 拒むどころか、姫はあの時、自分を陵辱した男の口づけをたしかに受け入れようとしていた……どうかしているとしか言いようがないではないか。
 だけど、それに対して姫が口にした言葉は……僕に一瞬呼吸の仕方をも忘れさせてしまうほどの威力と衝撃をもって僕を貫いた。

「貴方に口づけしてほしいと思ったからよ」

 真っ直ぐな瞳で姫は言った。静かに、揺るぎなく。

「口づけは、本当に好きな人としかしてはいけないのでしょう? だから私は貴方に口づけされたいと思った。そして貴方に口づけをしたいと思ったのよ」
「何を……言っているのです。今だって……本当は僕が怖いのでしょう?」
「怖くないわ」
「怖く、ない?」

 きゃっ、という悲鳴が上がった時には僕はさっきまで姫を慰めていたソファに彼女を押し倒し、その胸元……心臓の真上に、そっと手を触れさせていた。
 直接伝わってくるその心音に、自然と僕の眉が寄せられる。

「君の胸はこんなにも早鐘を打っているのに? それでも僕を怖くないと?」

 身体は正直だ――そう囁いて彼女から身を退いた僕は、嘲笑とも自嘲ともつかない笑みを浮かべていた。
 彼女が僕を怖がっていることをわざわざこの手で確かめておきながら、その事実がこんなにやるせないなんて。
 とにかくやりきれなくて、でも笑うしかできなくて。

「無理をする必要はない。そんなことをしなくても、君との約束は必ず守ります」
「そんなんじゃないわ!」

 その叫びをどう表現すればいいのだろう。
 怒り、哀しさ、悔しさ、もどかしさ……全てがごちゃまぜになったような、悲痛なほどの叫び声だった。

「そんな理由で貴方のそばにいたいと願ったわけじゃないわ! どうしてそれに気づいてくれないの? いいえ、どうしてそれを認めようとしてくれないの? 貴方に口づけしてほしいと願った私の気持ちまで、嘘にしてしまいたいの!?」
「姫……」
「あの夜のことは怖かったし、それ以上に悲しかったわ。だってそうでしょう? よりによって憎むべき相手が想い人だなんて、そんな皮肉なことってある!? 貴方を憎もうとしたわ、でも駄目だった。貴方への気持ちをなかったことになんかできるはずがないもの、どうしても貴方を目で追ってしまうんだもの、結局貴方のことばかり考えてしまうんだもの。雷を怖がるのは私自身にもどうしようもないことだと貴方は言った。それと同じよ。貴方へのこの想いも理屈ではないのよ!」

 堰を切ってしまった姫の激情は、とどまることが無かった。
 この頼りない身体のどこに、これほどまでの激しさが隠されていたのか。
 穏やかさを絵に描いたような彼女は、普段は声を荒げるようなことはしない。僕自身、ここまで感情を剥き出しにした姫を見るのはこれが初めてなのだから。
 一気にまくし立ててくる彼女に呑まれてしまったのだろうか、僕は瞬きもできず、彼女から目を逸らせない……微動だにできない。

「私はあの取引のことは後悔していないわ。全てを捨ててまで私たちを守ろうとしてくれている貴方の気持ちを、どうして疑うことができるの? それとも、これは私の一方的な思い込みでしかないの?」

 僕を責めているのか、それとも縋っているのか。そのどちらともとれるような声音だった。
 しかし彼女の瞳が不意に潤み、それまで僕を焼き尽くさんばかりだった勢いがみるみる萎れだしたから、僕は息を呑んだ。
 さながら迷い子のような頼りなさが、悲しみを帯びた眼差しが、僕の胸に鋭く突き刺さる。

「貴方が私たちを守ってくれているのは、ただの罪滅ぼしなの? それとも義務感? あの取引を持ちかけたのは、ただ、王女という肩書きを持つ女を弄んでみたかっただけなの? 私がただの女だったなら、用はなかったの? 貴方と私の気持ちは同じはずだと信じているのは、私の自惚れでしかなかったの……?」
「――違う! 僕は……!」

 その続きを口にすることは許されないと分かっていた。
 彼女は陽だまりの中でこそ美しく咲く花だ。闇の中でしか生きていけない僕などが触れていい花ではない。
 たとえ姫の気持ちが僕にあろうとも、奪うことしか知らない僕には、きっと彼女を傷つけることしかできないだろう。
 何よりも守りたいはずの彼女の笑顔を、きっと僕自身が曇らせてしまうだろう。
 それも分かっているのに、もう身体が言うことをきかなかった。
 いけない、と自分の内側から聴こえる制止の声も素通りして、彼女の頬に触れていた。そしてその手はゆっくりと頬をすべり、細い腰を引き寄せ、彼女を胸の中に閉じ込める。
 そして改めて気づかされるのだ、僕はこんなにも彼女を愛しているのだということに。

「僕は……君の全てが好きだった。初めて君と出逢った時から、君だけが特別だった。きっと、あの時からずっと、僕は君のことを愛していた……」
「リオウ……?」

 僕のために泣いてくれた、たった一人の女の子。
 その少女は気高さと優しさを失うことなくさらに美しく成長し、その全てで僕を魅了し続けた。
 今も昔も、彼女は僕にとっては最初で最後の人なのだ。僕が守りたいと思うのも、愛しいと思うのも、この世に彼女一人だけ――。

「君が欲しくてどうしようもなくて、でも叶うことのない想いだと自分に言い聞かせて、何度も諦めようと思った。でも駄目だったんだ。どうしても気持ちを抑えられなくて、歪んだ方法だと分かっていても、君を手に入れたかった。だから取引を持ちかけた。取引を口実にして君を僕に縛り付けたかった……どうしても君のそばにいたかった。他に方法が思いつかなかったんだ……」

 あたたかいものが僕の頬に触れた。
 姫が僕の視線を逸らせまいとしているのか、両手で僕の頬を挟みこんだのだ。

「リオウ、私は貴方が好きよ。いいえ、愛してるわ」

 きっぱりと言い切った彼女の瞳には、迷いも偽りも感じられない。
 思考が止まる。
 愛してる?
 姫が?
 僕を?

 ――『愛してるわ』。

 その言葉だけが、真っ白になった僕の頭の中で幾重にもこだまし続けている。

「……僕は、あんな酷い方法で君を傷つけたのに?」
「それでも愛してるわ」
「僕は人の愛し方を知らない。だからこれからも君を傷つけるかもしれないのに?」
「愛し方なんて、私にだってよく分からないわ。家族や親しい人への愛情と、貴方へのそれは違うもの。貴方への想いは、今まで他の誰にも抱いたことがないわ。だからこれから二人で愛し方を学んでいけばいいだけのことでしょう?」

 だけど僕は暗殺者だ。今までどれだけの命を奪ってきたか、彼女は知らない。

「……僕の手は汚れきってる」
「それでも私たちを守ってくれているその手はあたたかいのよ。そのことに貴方が気づいていないだけ」
「この手で君に触れていいと……言うの?」
「貴方だから、触れてほしいと思うのよ。貴方以外に触れられるなんて、絶対にいやだわ」
「もう一度君に触れたら、もう歯止めが利かなくなるかもしれない。僕自身、それを抑えられる自信なんかない。それでも……いいの?」
「かまわないわ」
「たとえ君がいやだと言い出しても、僕はきっと君を手離すことなどできない。――それでも?」
「ええ。ずっと離さないで」

 最後に綺麗に微笑まれて。
 この時、僕はどんな顔をしていたのだろう。
 ただ、こみ上げてくる気持ちを噛み締めながら、きつく目を閉じて、彼女を深く深く抱きしめ直していた。

「離さない」

 いつの間にか僕の背中にまわされていた華奢な腕に、ぎゅっと力がこもる。

「……本当は、貴方のことが全然怖くないと言えば嘘になる。でも貴方に近づけないことのほうが、その何倍も怖いの。だから、取引なんて関係なく、私を貴方のものにしてほしい……」
「姫……」
「もっと貴方を知りたい。そして、もっと私のことを貴方に知ってもらいたい……」
「これで最後だよ。……本当にいいんだね?」

 姫が頷いたのを見届けてから抱き上げれば、彼女は本能的にかほんの少し身体を震わせたけれど、僕に全てを預けきって、僕の胸に顔を埋めるのだった。

 僕は今まで、本気で姫を求めたら彼女を壊してしまうのではないかと恐れていた。
 だから自分の気持ちに無理やり蓋をし、彼女の気持ちを知ろうともしなかった……否、本当は気づいていながら、見て見ぬ振りをし続けてきたのかもしれない。
 姫を傷つけたくないと言いながら、自分が傷つくのが怖かっただけだ。

 けれど、僕はもう迷わない。
 走り出してしまった想いは、もう止まらない。
 そしてもう、それを止めようとも思わない。



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