Kaname+Zero (Vampire knight)


 きっかけは、たった一杯のシャンパンだった。
 より正確に言えば、その中の、ほんの一口。
 理事長のグラスと自分のグラスを間違えた優姫が、それに口にしてしまったがために。
 宴もたけなわをそろそろ過ぎようかという頃、それは起こった。



 優姫の誕生日会。
 三年前に俺がここに引き取られて以来の、毎年恒例行事だ。
 参加者は主役を除けば俺を含め三名。誰が定めたのか毎年メンバーは固定で、おまけに強制参加。この日ばかりは、どんな用事があろうともこちらを優先させなければならない。
 もっとも、俺以外の二人にとっては、この日以上に大切なスケジュールなど、はなから存在しないのかもしれないが。そう思わせるほどに、彼らは普段から目に見えて優姫を可愛がっていた。

 テーブルを飾るケーキやご馳走はすでに大半が食べ尽くされ、大量のクラッカーの残骸に埋もれる部屋の片隅で、肝心の主役はというと、ソファの上で猫のように丸くなっていた。
 むにゃむにゃ言いながら、きっと楽しい夢でもみているのだろう、時折口元に小さな微笑みを浮かべて。

「おやおや、本格的に寝入っちゃったみたいだね」
「そのようですね」

 それを見守る男が二人。
 血の繋がりがないはずの少女を映した瞳は、たしかな慈愛に満ちている。
 特に彼女の義父である黒主理事長などは、蕩けそうな眼差しで愛娘を見下ろしていた。見ているこちらが頭を抱えたくなるほどの親馬鹿ぶりだ。

「う〜ん、さすがはボクのゆっきーだ。見てよ、この天使のごとき寝顔を。そうだ、せっかくだから一枚撮っておこうか!」
「お気持ちは解りますけど、理事長、」

 ぽんと手を叩き、いそいそとカメラに向かおうとする親馬鹿……もとい馬鹿親を苦笑まじりにたしなめたのは、優姫を最初に拾った男だった。

「女の子の寝顔を無断で撮影するなんて。後で優姫に叱られてしまいますよ?」
「えー、でもこんなに愛らしいんだよ? それにほら、優姫が初めてお酒に酔った記念でもあるし、」
「理事長」
「……はぁい、わかりましたよ……」

 自ら運営する学園の学生に諭され、理事長はしょんぼりと肩を落とす。
 それでも未練たらしく優姫に視線を送り続けていたが、隣にいる男の言葉を無視して強行することはできないと悟ったのか、しばらくするとようやく諦めたようにため息をついた。

「……はぁ。じゃあ枢くん、一段落したところで少しつきあってくれない?」

 そう言って、どこか恨みがましい視線を向けながら、玖蘭枢に新しいグラスを差し出す。
 ヤケ酒のつもりか。

「僕はこれでも未成年ですよ、『理事長先生』?」
「かたいこと言いっこなしだよ、今夜だけはね。それに、『飲酒は成人になってから』は人間のキャッチコピーでしょ?」
「……仕方ありませんね。じゃあ、少しだけお付き合いさせていただきますよ。錐生くんにまでアルコールを勧めてしまったら、さすがに問題でしょうから」

 ……くだらないやりとりだ。勝手に俺を引き合いに出すな。
 うんざりしてパーティー会場となったリビングを出ようとしたとき――、のほほんとした声に呼び止められてしまった。
 そのまま素知らぬふりで立ち去れない自分に舌打ちしたくなる。

「あ。ちょっと待ってよ、錐生くん。お聞きの通り、ボクたちはこれから休憩するから、君は優姫を部屋まで運んであげてよね」
「――ああ? そんなの自分でやればいいだろ」
「なーに言ってんの。優姫は今日一日お姫様、枢くんはお客様、そしてボクは君のお義父さん兼ご主人様」
「だから、あんたの息子になった覚えはないと何度言ったら分かるんだ。それに誰が誰のご主人様だって……!?」
「……錐生くん、声を張り上げると優姫が起きてしまうよ」

 玖蘭枢が口を挟むと、理事長も我が意を得たりとばかりにうんうん頷く。

「そうそう、錐生くんは本当に怒りっぽいんだから。やだよ、まったく。それに君、優姫へのプレゼントもまだ渡してなかったよねぇ?」
「『ご主人様』はともかく、家主の言うことには従うべきだと僕も思うよ、錐生くん?」
「……こっちだって、好きで居候しているわけじゃねぇよ」
「何か言った?」
「…………」

 言い含められたようで面白くないが、これ以上の会話は不毛だ。口が達者な奴ら相手に、何を言っても無駄だから。
 だけどせめてもの意思表示に小さく舌打ちして――俺は仕方なく、優姫を抱きかかえてリビングを出た。



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