Kaname+Zero (Vampire knight)


 灯りひとつ灯さない部屋の中。
 優姫を自室のベッドに寝かせ、俺自身もまた、ベッドの端に腰を下ろす。

「……ったく。てめぇはジュースと酒の違いも分からないのかよ」

 優姫に対して怒っていたわけではない。不平をもらしたのは、自分をやりこめた二人に対する腹立ちが思っていた以上に大きかったからかもしれない。

「……お気楽な顔して寝てやがる……」

 あの食わせ者たちに育てられたとは到底思えない緊張感ゼロの寝顔に、思わず苦笑がもれる。理事長が天使のようだと称したそれは、俺にはただ呑気なだけにしか見えなかった。

 優姫と知り合ってから三年――。
 ともに成長期を経てきたはずなのに、優姫は外見的にはあの時からほとんど変わらない。来年からは高等部に上がるというのに、見た目はまるで小学生のままだ。

「おまえは本当に変わらないな……」

 何一つ、変わらない。外見だけでなく、その資質も。
 おそらく幼い頃から持ち続けていたであろうその素直さ、優しさは、今でもたしかに優姫の中に息づいている。そしてこれからもきっと、真っ直ぐな心根を失うことなく、優姫は生き続けていくのだろう。

 ――俺と違って。

 変わっていくのは、俺のほう。
 俺だけが、日に日に変化していく。
 大人の体へと変化していくだけでなく、存在そのものが、人間とは別のおぞましい化け物に成り下がっていく。

 俺の正体を知ったとき、こいつは変わってしまうのだろうか。
 「その日」が来たら、俺はきっと、この笑顔を永久に失ってしまうのだろう。そしてそれはそう遠い未来ではなく……。

「……うぅん……」

 優姫が寝返りを打った。細く癖のない髪がサラリと落ち、ほっそりした首筋があらわになる。
処女雪のように白い肌。その皮膚の下を流れる血の流れまでも、透き通って見えそうなほどに透明で。
 それは美しかった。闇に仄白く浮かぶ、一輪の花のように。

 ドクン――と。不快な音がした。
 それは心音。
 それと同時に、優姫の首筋から目が逸らせなくなり、耳の奥では、脈拍の異常な高まりを鮮やかに感じ取っている。

 ドクン、ドクン、ドクン……

 うるさい、黙れ、耳障りだ。
 黙れ、黙れ、黙れ…………黙れ!!

 呪文のように念じ続けても、無駄だった。抗えない何かに導かれるように、吸い寄せられるように……そっと優姫の首筋を指で触れてみる。
 たしかな脈動が伝わり、俺の体はある種の戦慄におののいた。――それは軽い興奮。
 温かで、柔らかい肌だ。きっと、その血潮まで温かいのだろう。
 そしてきっとそれは優姫の存在そのもののように穢れなく、澄み切った味で。きっと、蕩けるように甘くて。
 極上のワインにも似て、俺の喉を潤すのだろう。
 何の香りもしないはずのその部屋で、芳しい香りまで感じるのは何故だ。

 無防備に晒され続ける首筋に、ゴクリと喉が鳴る。
 強烈な欲求、強烈な誘惑に逆らえず、俺は優姫の首筋にその顔を近づけようとしている。音もなく、ゆっくりと、しかし確実に。

 ……何をしている? 俺は何をしようとしている?

 何も考えられない。頭の中に霧がかかったように、まるで思考が働かない。これが自分の体ではないような感覚で、俺自身、どうすることもできない。

『これ以上優姫に近づくな』

 耳の遠くで、たしかにもう一人の俺がそう訴えているのに。

『早ク、優姫ヲ喰ラワセロ』

 今の俺を支配する声が、そう命じる。

 駄目だ、駄目だ、やめろ、やめてくれ……
 頼むから……誰か俺を止めてくれ……
 取り返しがつかなくなる、その前に――……!


「―――何をしているのかな?」


 優姫に覆いかぶさり、その首筋に牙を突きたてようとしたまさにその時。
 腹の底にまで響くような低い声が、俺の鼓膜を震わせた。
 刹那、我に返り、弾かれたように後ろを振り向くと――腕組みをした玖蘭枢が、戸口にもたれかかったまま、静かにこちらを見据えていた。
 声が異様に低かったことを除けば、普段となんら変わらない口調。そして穏やかな表情。だが、ただその目だけは笑ってはいなかった。闇の中、底光る瞳が、明らかに俺を糾弾している。
 全く気配はしなかった。
 いつからそこに立っていたのか。
 どこから見ていたのか。

 嫌な汗が背中を伝った。
 俺が優姫に牙を立てようとしていたことに対する嫌悪と、その現場をより によってこの男に見られたかもしれないという焦りが、同時に俺を苛む。

「君がなかなか戻ってこないから、様子を見に来たんだよ。……まさか君が優姫に悪さをしようとしているなんて思いもしなかったけどね。これなら寝顔を黙って撮影するほうが、まだ可愛げがあるよ」

 面白くなさそうに、しかし「悪さ」という言葉に力を込め、玖蘭枢は額にかかった髪をかきあげた。
 おそらく彼には気づかれていないはずだ。俺の牙を、俺の正体を。……俺が優姫に何をしようとしていたかを。彼の立っている場所からは、俺の背中しか見えていなかったはずだから。

「それとも……優姫の首筋が……どうかした……?」

 ちらり、と意味ありげに一瞥されて、俺の心臓が大きく跳ね上がった。
 焦るな、動揺するな。この男は少しの変化も見逃しはしない。
 俺はだから平静を装い、どうしてもこの場をやり過ごさねばならない。
 自分の行動を正当化するつもりも、なかったことにするつもりもない。
 だが今、この男にだけはどうしても、このことを知られるわけにはいかなかった。知られてしまえば最後。この男は俺を自らの管理下に入れようとするだろう。管理下……、実質はただの飼い殺しだ。
 俺はいつか、今夜の罰を受けて、必ず狂い死ぬ。
 だけど、俺や家族の人生を狂わせたこいつらの手にかかって終わることだけは、あってはならない。それだけは、絶対に許さない。
 そして俺にはまだやらなくてはならないことがある。
 だから俺は――。

「……こいつの首筋に、ゴミがついていたんですよ……」

 そう言って、俺はそれを指で摘みあげた。優姫の体や髪にたまたま貼り付いていた、クラッカーの紙屑を。
 闇の中でもさすがに夜目が利くのだろう、玖蘭枢は戸口から動かないまま、わずかに目を細め、それを確認した。

「……そう。どうやら僕の早とちりだったようだ。……悪かったね……」
「……いえ……」

 玖蘭枢は相変わらず目に冷たい光を宿したまま俺を見据えていた。
 動揺を見せるわけにはいかない。それは分かっていたのに、俺はそれ以上、真正面からその視線を受け止めることが出来ず……目を逸らさずにはいられなかった。
 昔から、この男が嫌いだった。
 吸血鬼だから、さらには純血種だからということもあったが、それ以上に、この男の得体の知れなさが気に入らなかったからだ。
 玖蘭枢が何をどこまで知っているのか、実際のところ分からない。しかし今だって、俺のでまかせを鵜呑みにしたわけではないだろう。
 彼の目には、そしてその言動には、いっそ彼に知らぬことなど何もありはしないのではないかと思わせる何かがある。
 全てを見透かしているかのようなこの男が、本当に嫌いだった。
 理事長がこの男を頼りにしているのは知っている。しかしそれでも俺の秘密まで打ち明けているはずがない。
 それなのに、玖蘭枢はやはり全てを知っているのではないか。しかしもし仮に知っているのなら何故それを明らかにしないのか、という疑問ばかりが生まれてくる。
 ――読めないのだ、結局。

「今夜のことはともかく、いらぬ誤解をされたくなければ、今後は不用意に女の子の部屋に入らないことだね」
「……ええ、肝に銘じておきますよ……」

 あんたに言われるまでもなく。

 今夜のようなことがまた起こったら……俺は自分を押し止める自信はない。だから俺はその言葉には素直に頷いた。
 そしてそのまま優姫の部屋を出ようと戸口に向かい――玖蘭枢とすれ違った瞬間。

「!」

 左腕に鋭い痛みが走った。
 灼けつくような熱さに、一瞬、呻き声がもれそうになる。
 無風のはずの室内で、だが確かに一瞬だけ強い風が吹いて。
 音もなく風の刃が皮膚を切り裂いたのだ。

 実際に傷口を見て確かめてみなくても分かる。上腕部がざっくりと切り裂かれ、今にも血が滲み出ようとしている。それは出血を極力抑えて、しかし傷と痛みが後を引くよう計算し尽くされた切り方だ。

「……優姫の部屋を汚す前に出て行くことだ」

 血が滴り落ちる前に――今すぐに。

「今日が優姫の誕生日だったことに感謝するといいよ。今日の日の思い出を、血で染めさせるわけにはいかないからね……」

 やはり落ち着いたトーンでそう告げて、玖蘭枢は目を伏せた。
 なるほど、これが玖蘭枢の今の心境というわけか。
 だが今、それを恨みに思う気持ちも、ましてや反撃しようなどという気持ちも、俺には全くない。むしろ、今回ばかりは彼に感謝の念すら覚えていた。
 優姫を毒牙にかける前に俺という獣を押しとどめ、罰を与えてくれたのだから。
 この痛みは、当然俺が負うべきものだ。
 いや、どうせなら、一生消えない傷を、一生痛み続ける傷をつけてくれればありがたかったと思うほどだ。今夜の罪を忘れないための戒めの傷を、永遠の烙印としてこの身に刻んでくれたなら――。

 左腕を押さえ、俺が無言で部屋を出るのと同時に、玖蘭枢が一度だけ優姫をじっと見つめる気配がした。彼がどのような想いであいつを見つめているのか、知る術は俺にはない。そして今だけは、それを知りたいとも思わない。
 今の俺にあるのは、一刻も早くこの場を立ち去りたいという気持ちと、吐き気を催すほどの自己嫌悪、そして優姫に対する罪悪感だけだった。

 そして玖蘭枢もすぐに部屋を出て、静かにドアを閉める。



 ――優姫、ごめん。
 俺はおまえを喰おうとする自分を抑えることが出来なかった。もう少しでおまえを餌食にするところだった。
 俺はおまえから離れたほうがいい……そんなこと、分かっているのに。

 あともう少しだけ、夢を見させてほしい。
 おまえのそばで、いつまでもおまえとともにいる夢を――。



 ごめん……優姫………。
 本当に……ごめん………。





宴の後

(2005/09/15)





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