Kaname+Yu-ki (Vampire knight)


「……枢センパイ?」

 ドアを開けてすぐ、思いがけない人物の姿を認め、優姫は呆けたようにその場に立ち尽くした。
 返事はない。しばらくしてようやく枢が眠っているのだと気づくと今更にもかかわらず慌てて口元を押さえ、彼が目覚めなかったことに安堵しながらそっとドアを閉める。

 目の前のソファには、優雅という言葉を体現したかのような寝姿があった。
 黒いシャツの隙間からこぼれる白い肌が、普段の制服姿とはまた違う妖しい色気を醸しだしている。ボタンを二つ外しただけのシャツは露出が多すぎるというわけでないから、これは着こなしのせいだけではないのだろう。
 瞳を閉じている以外は普段と変わらぬ涼しげな表情。
 腕を組み、足を組み――全く姿勢を崩さない、品ある姿。
 理知的な口元は緩みなく、わずかな寝息すら聞こえてこない。
 一分の隙すら感じさせないその完璧な姿には、優姫も最初、彼が目を閉じて考え事でもしているのかと勘違いさせられたほどだ。

(うたた寝してる枢センパイなんて初めてかも)

 優姫が風紀委員に任命されて以来、枢と顔を合わす機会は、ほぼ、夜間部と普通科の校舎の入れ替え時のみになってしまっている。会話もお定まりの挨拶を交わす程度だ。
 こんなふうに、私的な場所で何の制約もなく枢に出会えたのは本当に久しぶりのことだった。
 おそらく枢は理事長と約束があったのだろうが、どうやら肝心の理事長は留守のようだ。待ちくたびれて眠ってしまったのだろうか。
 優姫が部屋に入ってきても気づかないくらいだから、きっと疲れているのだろう。そういう目で改めて枢を見ると、心なしか疲労の色が見えなくもない。

(枢センパイは昔から忙しい人だから。……そうだ)

 優姫は気配を押し殺しつつ、膝掛けをとろうとクローゼットを開けた。
しかし、伸ばされた手は宙で静止する。

(――あ……)

 枢の香りがした。
 よほど近づかねば気づけないほど微かなものであるそれは、優姫にとっては何より安心できる懐かしい香りだった。
 無意識に、だった。優姫は何かに誘われるかのように、ハンガーにかけてあった枢のジャケットに手を伸ばしていた。
 それを包み込むようにして、そっと抱きしめる。まるで宝物を胸に抱くように、優しく、愛しげに。
 ふわり、と懐かしい香りに包まれると、上着を抱きしめているのは自分のほうなのに、まるで枢自身に抱きしめてもらっているかのような錯覚に陥ってしまう。
 きゅっと胸が締め付けられるような痛みを覚えて、優姫はそっと瞼を伏せた。

「……枢……さま………」

 懐かしい呼び名とともに、優しかった日々の記憶が蘇ってくる。
 優姫がまだ幼くて、そして枢もまた今よりもあどけなさを残していたあの頃。
 日々、枢がやってくる日を指折り数えていた。
 枢が理事長宅を訪れるのは、たまのこと。しかも生活リズムの違いからそれは夕暮れ以降が多く、当時はまだ幼かった優姫が必死の抵抗の末に睡魔に負けてしまうことも幾度かあった。
 その翌日には優姫は決まって理事長を困らせたものだ。「どうして起こしてくれなかったの!?」と、べそをかきながら。

(理事長には悪いことしちゃったよね)

 優姫は当時の自分を省みて、照れくさそうに鼻の頭をかいた。
 今振り返ってみると、子どもの頃から現在に至るまで、義父に駄々をこねたことなど、ほとんどなかったように思う。それに何度体を揺さぶられても目を覚まさなかった自分が悪いのだということも、優姫自身が一番よく分かっていた。
 それでも義父に八つ当たりせずにはいられなかったのは、枢と過ごせる時間が優姫にとって真実かけがえのないものだったからだ。
 しかし、まれにではあったが、望外の喜びが待ち構えている日もあった。 目が覚めると優姫は枢の膝の上にいて、彼の温かさに包み込まれていた。
 そして目が合うと、決まって枢は優姫に優しく微笑みかけてくれたものだ。

(あの頃の私は何も分かってはいなかった。でも、それでも……)

 優しい日々にただ目が眩んで、目の前にある物の真実の姿など何も見えていなかったあの頃。
 正面にあるものだけが全てだと思い込み、側面から物を見ることなど思いつきもしなかったあの頃。
 愚かだったと思う。だけど、本当に幸せだったと思う。

『こっちにおいで、優姫』
『ほらほら優姫、そんなに慌てると転んでしまうよ』
『優姫、優姫……』

 そう優しく名を呼んでくれる時と同じ温かさで、枢の何もかもが温もりに満ちていたことを、今もまだ鮮明に覚えている。
 あの記憶は決して薄れることがなく――今でもかけがえのない宝のままだ。

『君はいつも僕にかしこまっているね。少し寂しいな……』

 それは、いつだったか枢が漏らした言葉。
 何故か今、寂しそうに笑った枢の姿ごと思い出されて、優姫は軽く唇をかんだ。

(だって、違うもの。私と枢センパイは……違うもの……)

 玖蘭枢は吸血鬼。
 そんなことは初めから分かっていたはずだった。そのつもりだった。
 吸血鬼とは、人間の血を欲し、その血を喰らう者。
 実際に吸血鬼に襲われた優姫はそのことを身をもって分かっていたはずだった。そのつもりだった。
 それなのに枢だけは違うだなどと、彼だけはあんな恐ろしい行為をするはずがないなどと、どうして思い込んでいたのだろう。
 しかし今なら分かる。それは優姫の一人よがりの願望に過ぎなかったということを。
 人間が水を欲し、他の生き物の肉を糧とするように、吸血鬼もまた、ただ体が人の生き血を当然のように欲するだけだ。
 人間も吸血鬼も糧にする対象がただ異なるだけで、行っていることの本質は同じだ。生きていくために必要なことで、善も悪もない。

(枢センパイは当たり前のことをしていただけ。枢センパイだけはそんなことしないだなんて、そしてそれを恐ろしいと思うなんて……そんなの傲慢だよね)

 優姫は抱きしめていたジャケットをハンガーに戻し、膝掛けを取り出した。それを持ってソファへと向かう。

(だけど――……)

 もう一度恐さを知ったあの夜の出来事は、抜けない棘となって今もまだこの胸に突き刺さったままだ。
 理屈ではないのだ。本能が、あの情景を忘れられずにいる。

 あの夜以来、枢の吸血行為を目にすることは二度となかった。彼がわざとそれを見せないようにしているのか、それともただ単に二人が共有できる時間が以前にも増して少なくなったせいなのか、それは定かではない。
 しかしその状況に安堵している自分にも、優姫は気づいていた。
 枢は今だって優しく接してくれている。優姫には彼の気持ちを推し量ることはできないが、あの夜の出来事など彼にとっては気に留めるほどのことでもないのかもしれない。
 しかし優姫にとっては――。
 見えなかったものが見えるようになってしまった今、どうしてあの頃と同じように枢と接することが出来るだろう。

 あの夜から、二人の間には見えない有刺鉄線が張り巡らされてしまった。 踏み込もうとすれば、容赦なくその棘に阻まれ、血を流すことになる。だからこれ以上近づくなという警告の証に他ならないものが――。
 もっとも、もともとそれは存在していたのかもしれず、ただ優姫にそれが見えなかっただけのことかもしれないけれど。
 だが今は確かな有刺鉄線に阻まれ、枢の温もりと香りは優姫から遠ざかってしまった。

(こんなに近くにいても、私の手は枢センパイまで届かない)

 それを寂しくないと嘘をつけるほど、優姫は大人ではない。
 寂しくなどないという素振りを見せることができたとしても、自らの心の中まで嘘をつきとおすことなどできはしない。
 彼もまた、それを寂しく思ってくれているといい。せめて、そう願ってしまうことだけは許されたいと、優姫は思う。

 優姫は枢を起こしてしまわぬよう気をつけながらその膝に膝掛けをかけると、一瞬、枢の体にわずかに手が触れた。

(――温かい……)

 昔と変わらず、枢を温かいと思った。
 枢の体に触れたのはほんの一瞬で、触れたと言うよりは掠ったと言ったほうが正しいほどだった。それでも、彼が昔と変わらず温かいと、優姫は確かに感じたのだ。

 自分と枢は違うのだと、唐突に現実を突きつけられた夜。
 あれ以来、優姫の中で変わってしまったものがある。
 けれど――。

「それでも……。変わらないものも、あるんですよ? 枢さま………」

 この温かさのように。そして優姫を安心させてくれる懐かしい香りさえも。
 昔と何一つ変わらない。
 優姫は唇をかみ締めるように微笑んだ。
 それはどこか自嘲的な微笑みだった。
 枢にそれを聞いてほしかったのか、そうでないのか、自分でもよく分からなかったけれど。
 気づけばそう呟いていた。

 部屋を出る前に一度だけ枢を振り返り、切なげに目を細めてから、優姫は扉を閉めた。
 扉が閉ざされた瞬間、枢の瞼がゆっくりと開いたことを知らず。その瞳が、今目覚めたばかりとは思えないほどに覚醒しきっていたことも知らずに――。


 ――この気持ちだけは不変のもの。
 この先何があろうとも、この想いが実を結ぶ日が永久に来なくても。
 この想いだけは、決して変わることはない―――。


 果たしてそれはどちらの想いだったのだろうか。
 それを知る術はない。





有刺鉄線

(2005/12/03)




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