『それでも……。変わらないものも、あるんですよ? 枢さま………』
「変わらないもの、か……」
少女の気配が完全に消え去ってから、枢は誰にともなしに呟いた。
たしかに、変わらないものはある。しかし、変わってしまったものも、確実にある。
たった一つだけ、しかし最も失いたくなかったものを失ってしまったことに一抹の寂しさを覚え、さらには変わってしまった少女を僅かにでも恨めしく思ってしまう自分自身に気づき、枢はその身勝手さに口元を歪めた。
「なにを今更……」
少女を変えるきっかけを作ったのは紛れもなく自分なのに。
そうなることこそを自ら望んだはずなのに。
自分から手放したものを今更惜しむなど、それこそ愚かなことなのに。
無知な少女は知らねばならなかったのだ。
吸血鬼が人間にとってどれほど危険で残酷な存在であるのかを。
少女がどれだけ危うい場所に身を置いているのかを。
隙を見せれば、人間は残酷に屠られかねないのだということを。
いつだって少女自身が獲物になりうるのだということを。
無防備なこと自体、罪なのだということを――。
吸血鬼に襲われ本能にその恐怖を刻まれたはずの少女の警戒心を薄れさせたのは、まぎれもなく自分だ。
思い返せば、少女を気遣いすぎて、少女が慕う玖蘭枢という存在もまた吸血鬼であるのだということを彼女に意識させないように振舞ってきたかもしれない。
結果、それが裏目に出て、少女の感覚を鈍らせてしまった。
そのツケがまわってきたのだと、枢は小さく嘆息した。
危険を察知することのできない生き物は、生存闘争に勝ち残れはしない。
だから少女に恐怖を植え付けた。枢自身の手で、甘い幻想を打ち砕き、現実を突きつけた。
全ては少女を守るため。
後悔などしていないし、これからもするつもりはない。
「――なのに何故、こんなにやるせないんだろうね」
口の端だけで、枢は笑った。まるで自分自身を嘲うかのように――。
支払った代償は決して小さくはない。
だからこそ、それを無駄にしてほしくはない。
だからこそ、あの時の決意を今再び思い起こす。
「だから優姫――」
――吸血鬼に甘い幻想を抱いてはいけない。
そんな無防備な姿を晒してはいけない。吸血鬼の前で、……この僕の前で。
その白く細い首筋を見せるだけでも。
君自身にその気がなくても、それは吸血鬼を煽っているに等しい行為。
だから、取り返しのつかないことになる前に、僕から逃げるといい。
本当は僕と君が完全に離れてしまえばいいのだろうけど。
――それだけは、出来ないから。
僕と君の間に有刺鉄線を引こう。
それを越えるわけにはいかない、君のために。
それを越えさせるわけにはいかない、僕のために。
たとえあの眩しい君の笑顔を間近で見られなくなったとしても。
たとえ君に恐れられようとも。
たとえ君の瞳に僕の姿が映らなくなったとしても。
君を失ってしまうよりは、ずっといい―――。
「だから優姫……。僕から逃げるといいんだよ………」
(2005/12/13)