Kaname+Yu-ki (Vampire knight)


 黒主理事長の私的居住区は、広大な敷地を有する黒主学園の一角にある。
 その建物は、瀟洒な造りの学園とは異なり、およそ名門校の理事長の住まいとは思えないほど簡素な雰囲気を醸し出していた。
 安普請なわけではない。華々しい装飾よりも慎ましやかな外観、そして実用性にこだわった造りは、主の価値観の顕れと言えるのかもしれない。

 その一室――応接室。
 来客用ソファに腰を下ろしているのは、玖蘭枢――黒主学園の生徒でありながら、理事長に一目を置かれている純血種の青年だ。
 枢は一人、血液錠剤を溶かしたグラスに口をつけていた。
 そんな枢の向かいのソファには、この部屋の主の姿はない。

 夜間部全員を月の寮に戻らせた後、かねてからの約束どおり、わざわざ出向いてきた枢との約束を忘れるほど理事長は無責任ではない。彼の不在には理由があった。
 普通科の生徒数人が今夜街でトラブルを起こし、市民に怪我を負わせてしまったのだという。
 生徒を監視する風紀委員とて、二十四時間常に目を光らせ続けているわけではない。彼らも学園の生徒である以上、昼間は他の生徒たちと共に勉学に励まねばならない。
 かの生徒たちは、まさにその隙をついて、学園を抜け出していたらしい。
名門校とはいっても、一校に一人や二人は必ずならず者がいるものだ。嘆かわしいことに、それはこの黒主学園も例外ではなかったらしい。
 つい先ほどその連絡を受け、理事長は場を中座せざるを得なくなったのだ。
 理事長自らの出頭を要請され、今頃は件の警察署に向かっている最中だろう。

 限りなく人間の生き血に似せた、けれどどこか味気ない液体を飲み干し、枢はグラスを置いた。

(――まったく。あの人も忙しいことだ)

 そのおちゃらけた振る舞いのせいで、周囲からは遊びまわっているように見られがちだが、実のところ理事長は常に忙しく立ち回っている。
 吸血鬼と人間の平和的共存、つまり、彼が掲げる「平和主義」を実現するために。それはそれは精力的に。
 彼の情熱には、枢も頭が下がるほどだ。
 しかし吸血鬼の存在が公にされていない以上、世間一般から見れば彼はただの学園経営者にすぎず、崇高な理想の実現を目指す一方で、それとは無関係の雑事に煩わされることも多い。――今夜のように。

(……煩わされているのは僕も同じか)

 普通科の不届き者たちのせいで貴重な時間を無駄にしたのは、なにも理事長だけではない。
 時は有限。長命の吸血鬼とはいえ、不老不死ではない。ましてや枢は、表向きにはただの学生の身分であっても暇をもてあました体ではない。
 今夜こそ十分な時間を確保できたものの、明日からしばらくは理事長の都合と折り合いがつかなくなる。
 理事長はなんとしてでも今夜中に戻ると言い残してはいたが、事は一般市民を巻き込んだ暴力事件だ。約束を違えない彼であっても、さすがに事後処理にはもう少し時間がかかるだろう。

 待たされることには元来慣れていない。
 ひとまず月の寮に戻ることを考えるが、即座に却下する。理事長が戻ってきてから再度こちらに向かうのは時間のロスだ。
 もしもここに優姫がいてくれたら……と思えども、今頃彼女は陽の寮で眠りに就こうとしている頃だろう。
 暇をつぶそうにも、ここの蔵書は全て読破しており、いかんせん手持ち無沙汰だ。

 ――それならば。

 枢はクローゼットからハンガーを取り出し、制服のジャケットとベスト、そしてネクタイをそれにかけ、しまい込む。
 シャツの裾をズボンから出した上で第二ボタンまで外し、身軽な装いを作りあげた。
 そして、ゆったりとしたソファへと場所を移す。

 ここのところ元老院絡みの仕事が続いたせいで、ろくに睡眠をとっていなかったことを思い出したのだ。
 ここは使用人がいるでもないし、学園から少し離れた閑静な場所ゆえに雑音がない。当然のことながら、以前枢が世話になっていた家のように、監視の目もない。
 よくよく考えてみれば、仮眠を取るにはうってつけだ。

 貴族階級以上の生まれである枢は、主不在の住居で気ままに羽を伸ばせるほど礼儀知らずにはなれない。ソファに横になるではなく、ただ背もたれにゆったり背中を預け、足を組む。
 そしてゆっくりと目を伏せた。



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