Kaname+Zero (Vampire knight)


「理事長、ご指名がかかってますよ」

 ぶっきらぼうそのものの態度で錐生零が扉を開けたとき、そこには机を挟み対面して腰掛けている二人の姿があった。
 一人は勿論この理事長室の主である黒主理事長、そしてもう一人は――。

「やあ錐生くん」
「……いたんですか、玖蘭先輩」
「ちょっと理事長に話があってね」

 夜間部クラス長、玖蘭枢。
 彼は貴公子のごとき微笑みで零を迎えた。
 対する零は、うんざりした様子で顎をしゃくる。机の上――白と黒の二面の丸い駒が並べられた盤上ゲームを指して。

「とても話をしていたようには見えませんが」
「話はもう済んでしまったんでね。夜間部の授業が始まるまで少しあるから、これで時間潰しをしていたんだ」
「そうなんだよ。ボクが誘ったはいいけど、枢くんはとびきり強くてねー。かれこれ三連敗しちゃってさぁ……って、ご指名って? もしかしてボクにお客さん?」
「……だから最初からそう言ってるじゃないですか。ほら、外壁の塗り直し。外で業者が騒いでるんですよ。暗くなる前に出来を確認してもらえないと、いつまでたっても帰れないって」
「はっ! しまった! すっかり忘れてたよ!!」

 理事長はムンクの叫びのごときポーズをとり、大慌てでコートに袖を通し始める。

「錐生くん、後は任せたよ! ボクのかわりに枢くんをおもてなししておいて!」
「はぁ? なんで俺が」
「そういえば、君もコレ得意だったよね。代わりにボクの雪辱を果たしておいてくれないかい?」
「だからなんで俺が、」
「頼んだからね!」

 零に皆まで言わせず言いたいことだけ言うと、理事長は疾風のように部屋を飛び出し、階段を駆け下りていった。
 まるで台風一過。
 二人の青年が残された理事長室には静寂だけが残される。

「やれやれ。君も大変だね」

 口火を切ったのは、純血種の青年のほうだった。

「まったくですね」
「でもせっかくだから、一戦交えてみる?」
「けっこうです。もう行きますから」
「冷たいんだね、君は。日頃理事長にはあれだけ世話になっているというのに、あんなささやかな頼みも聞いてあげないなんて」
「……安っぽい挑発はよしてくれませんか? もうすぐ夜間部の授業が始まりますよ」
「ああ、それは心配しないでいいよ。どうせ、すぐに終わるから」

 最後の言葉は、ゲーム自体が時間のかかるものではないからという意味なのか、それとも――。
 露骨に眉を寄せる零に対して、枢は小さく笑みをこぼした。

「……ああ、もしかして、自信がないのかな?」

 だとしたら無理を言うわけにはいかないね、と言わんばかりに肩を竦めながら――。

「……やればいいんでしょう?」

 零はただ、げんなりと。
 ため息をつくことしかできなかった。

「なんだか無理やり付き合わせたみたいで悪かったね。僕も暇だったもので、つい、ね」
「…………」

 ――悪いだなんて、露ほどにも思ってないくせに。
 いけしゃあしゃあと、よく言うぜ。

 しれっとした枢を前に、零がそれをあえて口にする必要はなかった。何故なら、あからさま過ぎるほどに零の顔にそれが表れていたからだ。
 しかし枢は別段それを気にするふうでもなく、穏やかな表情を崩すことはない。

「にしても、なんで理事長室にゲームなんか置いてるんだ……」
「ああ、それはね、ある企業から、授業の一環としてこのゲームを使ってほしいというオファーが来てるんだよ。一見単純なように見えても、先を見通して戦略を練るこのゲームは案外奥が深い。頭を鍛えることには充分役立つから、理事長も前向きに検討するみたいでね。次の理事会で議題にあげる、これはいわばサンプルなんだ」

 零のただの呟きに対し、枢は懇切丁寧な解説を施しながら、駒を二等分していく。

「僕もね、優姫が小さい頃によくこれで遊んであげたんだ。だから懐かしくなってね……、つい理事長のお誘いにのってしまったというわけさ」

 刹那、枢の目が懐かしげに細められる。
 それは普段の完璧な微笑みとはまた違う、柔らかな笑み。
 きっと今、その脳裏に、幼かった優姫の姿を思い浮かべているのだろう……零と出逢う前の、零の知らない優姫を。すでにその頃から枢の前で頬を薔薇色に染めて微笑んでいたであろうを優姫を。

 ほんの一滴。
 零の中に、濁った雫が落ちた……ような気がした。
 しかし零はあえてそれに気づかぬ振りをしながら頬杖をつく。

「優姫なんかと対戦しても面白くないでしょうに。頭を使うゲームは、あいつ、からきしだから」
「それ、優姫が聞いたら怒るよ。それに、僕が優姫に負けたことだって何度もあるんだから」
「……あいつは単純だから、自分の力で勝ったと思い込んでるんじゃないですか? そういうの、かえって罪作りだと思いますけどね」
「さあ、なんのことか分からないけど。そうだね、後半部分だけは記憶に留めておくことにするよ。……難易度はÅでいいかな?」
「かまいませんよ」
「ハンデをつけようか?」
「けっこうです」
「じゃあ、制服の色にちなんで君が黒、僕が白でいい?」
「お好きなように」

 盤の中心に白と黒の駒が2つずつ置かれる。それがスタートの合図だ。
 交互に必ず相手の駒を挟むように駒を置き、挟んだ駒を自分の色に変えてその数を競うのが、ゲームの基本である。
 幅広い世代から支持されているこのゲームはしかし、難易度によって、使用する盤のマス目の配置や数、ルールがより複雑さを増していく。最高ランクである難易度Åに至っては、駒を置くという動作一つにも多くの制約が定められており、素人が気軽に遊べるレベルではない。

「じゃあ始めようか」

 向かい合って座る零と枢は、同時に盤上に視線を落とした。



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