Kaname+Zero (Vampire knight)


 パチン。

 黒い駒を持つ者が親だ。まず零が駒を置き、間に挟んだ白い駒を裏返す。次は枢が白い駒を置き、黒い駒を白に変える。

 パチン。
 パチン。

 パチン。
 パチン。

 ゆっくりと、ゆっくりと、盤の上のキャンパスに二色の花が描かれ、一手ごとにその花は色を変え、形を変え、面積を増していく。
 愛想の欠片のない零と、穏やかな微笑みをたたえた枢と。
 二人は表情を変えることなく、無言で駒を置き続けていく。
 序盤は互角。
 互いに手の内を探っている段階なのか、両者が大きな動きを見せることはない。黒が白を闇で覆い隠せば、今度は白がその闇を払拭していく。その繰り返し。

 パチン。
 パチン。

 パチン。
 パチン。

 淀みなく一定のリズムで駒が置かれる音だけが室内を満たしていたが、中盤に差し掛かる頃には局面はある方向に定まりつつあった。
 黒優勢。
 つまり、今現在に至るまで、零が枢の知略を見事に封じているということになる。

 しかし零にそれを誇る様子は見られない。
 そして枢にもそれを焦る様子は見られない。
 二人は相変わらず、淡々と、無言での攻防を繰り返す。
 そんな中、目は盤上から離さないまま、枢が口を開いた。のんびりと、世間話をするような口調で。

「そういえば錐生くん。この間、月の寮に来た翌日、学校を休んでいたよね。体はもういいの?」

 パチン。

「……おかげさまで」

 パチン。

 零も盤上から目を離さずにそれに答える。

「それは良かった。うちの寮に呼んだせいで君の具合を悪くしてしまったのかなんて、一条も気にしていてね」

 パチン。

「少なくとも、気分の良くなる場所ではありませんでしたよ」

 パチン。

「そうだろうね、月の寮は、吸血鬼ハンターの一族出身の君にとっては天敵の巣窟のようなところだから。でも、くつろいでもらえなかったのは僕としても残念だよ」

 パチン。

「余計な気遣いです。くつろぎに行ったわけじゃないですから」

 パチン。

「相変わらず素っ気無い物言いだね、……とても君らしいけれど。それにしても、ここのところ顔色が随分良くなったものだね。なによりだよ。これでも心配していたんだ」

 パチン。

「……それはどうも」

 パチン。

「でも、世の中いいことばかりは続かないものだよね。せっかく君の具合が良くなったと思ったら、今度は――」

 パチン。

「優姫がね、」

 それまでリズム良く響いていた音が止まる。零が一瞬、手を止めたのだ。
 それでも枢は盤上から視線を動かさないまま、かまわず言葉を継ぐ。

「君と入れ替わりのタイミングで顔色が優れなくなってしまったんだ。――錐生くんは気がついていたかい?」

 ……パチン。

 零はそれには答えを返さず、黒で白を挟む。

 パチン。

「あの子は強情なところがあるからね。周囲を心配させまいとして、辛い時でも無理して明るく振舞うから、」

 パチン。

「……そうですね」

 パチン。

「とても心配なんだ」

 パチン。

「…………」

 パチン。

「僕には、今もまた優姫が隠れて無理をしているように思えてならないんだ。……君は、そう思わない?」

 パチン。

「だからね、優姫が無茶をしないよう、君も気をつけてあげてほしいんだ」

 パチン。

「…………」

 パチン。

「僕はね、優姫が辛い思いをするのは見たくない。いや……、そんなこと、絶対に許せない」

 一瞬、枢の目に宿った昏い炎に零が気づいたかどうかは分からない。二人とも、いまだに視線は盤上に向けられたままだから。
 しかし、枢の声がわずかに低くなったことだけは、零とて気づかないわけがなかっただろう。

 ――パチン。

 その時放った枢の一手。
 その直後、零の動きは完全に動きを止めることになった。
 どの位置に駒を置くべきか悩んでいるわけではない。――置くべき場所がないのだ、枢の放った駒に行き場を封じられて。
 しかし、それすなわち即ゲームオーバーではない。このゲームは全てのマス目を埋めるまでは続行される。打つ手がない場合は、相手が続けて駒を置く権利を得るのだ。

 パチン。

 枢はルールに則り、続けて持ち駒を置く。それによって、明らかに黒が白を凌駕していたキャンパスが、大きくその色彩を変えていく。

「次も僕のようだね」
「そのようですね」

 パチン。

 枢の連投により、あっという間にキャンパスの大半が白く染め上げられ、残された黒は、もはや申し訳程度の数でしかなくなった。
 零が弱すぎるわけではない。少なくとも、難易度Åでゲームするのに困らない程度の実力は備えている。実際、今零が攻められたポイントに気づける人物は、そう多くはないだろう。
 しかし枢は僅かな穴を見逃さなかった。それは、このゲームに関しては、零以上の力量の持ち主であったから。
 それは零自身、ゲーム開始直後から感じ取っていたことでもある。
 だからこそなのか、零の表情には別段悔しさも焦りの色も見当たらない。ゲーム開始以降、零の様子には何の変化もなかったと言えるかもしれない――ただ一つ、優姫の名前が出て以来、その瞳に微かな翳りが見られるようになったことを除けば。
 そしてそれは枢にも同じことが言えた。黒優勢だった時の零と同じく、圧倒的白優勢になった今になっても、枢は眉一つ動かすことはない。

「ねぇ、錐生くん」

 完全に動きの止まってしまった零を前にして、ゲーム開始以来初めて枢が顔を上げた。
 零もまた、つられるように顔を上げる。
 枢の顔からはそれまでの笑みが消え……ただ無表情に零を見据えている。
 真正面から二人の視線が交錯する。

「――もう、諦めてしまえば?」

 枢は言った、今までの穏やかさが嘘に思えるほど凍てついた眼差しで、剣呑な声音で。

 何を、とは枢は言わない。
 何を、とは零も尋ねない。

「僕は少なからず君に敬意を覚えている。たいしたものだと思うよ。だけど君自身が一番よく解っているはずだ……君が、もう、手詰まりだってことが」

 すでに勝敗が明らかなゲームの敗北を認めろ、と。
  この状況であれば、そう解釈するのが自然だろう。それ以外の解釈など、できようはずがない。
 もしもこれに違う解釈をできうる人物がいるとすれば――この学園内ではこの場にいる彼ら以外には、あと二人だけ。
 今この場にその二人がいたとすれば、彼らは枢の言葉をどのように解釈しただろうか。

『――どんなにあがいても、君はもう終わりだ』

 言葉にしないでも伝わってくる思いがある。
 それが空気にまで伝染しているのか、肌を突き刺すように、室内の空気が張り詰めているのがわかる。
 しかし、零が正面から枢の視線を受け止めたまま。
 理事長室には、ただ深い沈黙が広がっていく。

 重苦しい静寂を破るように、予鈴が鳴り響いた。
 あと数分で夜間部の授業が始まる合図である。

「……時間切れか。残念だけど、どうやらこれでゲームオーバーのようだ」

 ふぅ、と息をつき、枢が立ち上がった。
 その麗しいかんばせは、まるで仮面を付け替えたかのように、すでにいつもの穏やかな表情を取り戻している。

 その時。

「玖蘭先輩、」

  枢が振り返ると、まだ椅子に腰掛けたままの零が黒い持ち駒を一つ、その手に取った。それを、盤上の、ある位置に置く。
 枢の目が、わずかに瞠られた。

「……へえ、そのポイントに来るとはね」

 枢が序盤に打ち捨てていたポイントへの配置。
 それは意外な一手だった。仮にそこを黒一色に染めあげたとしても直接勝敗を左右することはない、小さすぎるポイントだったから。
 決定打にはなり得ない小さな一打でしかないということは、零自身よく理解しているはずだった。実際今ここに黒を置かれても、枢にとっては痛くも痒くもない。
 しかし同時に、枢が瞬時にその黒い駒を殺すポイントはなく、零はさらに次の手で、白い駒を三つ、確実に闇色に染め替えることができるのも事実だった。

「残りわずかだとしても、黒はまだ生きている」

 立ち上がり、零はそう答えた。

「たしかにこの勝負はあんたの勝ちだ。でも俺のゲームは……」

 決然たる語調で零は宣言した。

「ゲームオーバーにはまだ早い。――ゲームオーバーには、まださせない」

 つい数日前の零からは感じられなかった意志が、今たしかに生まれていた。
 何が作用して彼がこうなったのか。
 考えるまでもなかった。
 ジリ……と、深いところで何かが焦げ付くような音が聞こえたような気が、枢には、した。

「……へえ。悪あがきするタイプには見えなかったのに、意外だね」
「たしかに……そうかもしれませんね」
「巻き返せるとでも思っているの?」
「さあ」

 零はこの日初めて笑みをこぼした。それは自嘲気味で、僅かに口元を歪めただけの苦い笑みではあったけれど。
 しかしすぐに口元を引き締めた零は、改めて真正面から枢に向き合う。

「だけど俺は……約束したんだ、あいつと。――最期の時まで絶対に諦めないって」
「……そう」

 もしかしたらそれは枢に対してではなく、自分自身に言い聞かせたとも取れたが、その真意は零にしかわからないことだ。
 枢はゆっくりと目を伏せた。

「錐生くん、ここは僕が片付けておくから君はもう行くといい。これから風紀委員の見回りがあるだろう?」
「玖蘭先輩こそ授業が始まるでしょう」
「気にしなくてもいいよ、僕もすぐに教室に行くから。それとも君は、こんな薄暗い中、優姫一人で見回りをさせる気かい?」

 それ以上の会話はなかった。零は挨拶を交わすでもなく、枢を振り返るでもなく、枢に促されるまま、理事長室を去っていった。




 ひとり残された部屋で、枢は改めて盤上を眺める。
 大半は白。でも黒が全て消えたわけではない。
 枢は最終的には時間内に黒を全て消し去るつもりだった。しかし、錐生零は予想していた以上には手強く、結果、黒はこの通り、しぶとく生き残ったままだ。
 中でも、零の最後の一太刀によって生まれた黒い駒が特に癇に障る。落とそうとしても決して落ちないシミのように、しつこく存在を主張し続けるその黒が。

「忌々しい……」

 誰とはなしに呟き――枢は盤上の駒を薙ぎ払った。
 ザアアアアアッと派手な音を立てて駒が勢いよく床に散らばっていく。

「君の選択はわかったよ……。それもいい。だけど覚えておくといい、君のゲームには巻き返しなんて有りえないということを」

 枢は理事長室の窓際にもたれかかるとカーテンをわずかにずらし、窓の外――階下を覗いた。
 次の瞬間。
 故意か偶然か、すでに校舎外に出てやはり理事長室の窓を見上げていた零と視線がぶつかった。
 それはほんの一瞬だけで、零はすぐに枢に背を向け、普通科校舎周辺の見回りに向かう。
 その零の背中を見守りながら、枢はこの後すぐに零と合流するであろう優姫を思った。
 零に自らの血を提供し続けている優姫。
 血液は無尽蔵ではない。ましてや零が血に魅入られて暴走してしまったら……。
 たとえ枢が優姫を咎め、諭したとしても、彼女は絶対にそうすることを止めないだろう……零を守り抜くために。
 だから枢は、せめて優姫を困らせないように、あえてそれを黙認することしかできない。
 枢が零を葬ることは簡単だ。しかしそれは枢が払わねばならない代償が大きすぎる……かけがえのない彼女の心を失うことになってしまうから。
 それでもすぐに物騒なことを考えてしまう自分を枢は苦く笑い、静かにかぶりを振った。――その邪念を振り払うかのように。

「……どうせ、すぐに終わるから……」

 枢はカーテンを閉め、この日二度目になるセリフを口にした。





白と黒

(2005/09/08)





inserted by FC2 system