「じゃあ、お休みなさい、理事長」
「……お休み、優姫ちゃん」
眠そうに眼をひとこすりして、幼いその子は自室へと戻っていく。
それを見届けてから、ボクは大きく肩を落とした。
また今日も、不発に終わってしまった。
嗚呼、ボクの想い人は本当に手強い――。
ボクがあの子を引き取ってから、一年と少し。
たった五歳で記憶と家族を失ってしまった少女は最初、命を救ってくれた王子様以外にはなかなか懐かなかったけれど、最近ようやくボクにも打ち解けてくれるようになっていた。
ぎこちなさもずいぶん薄れて、会話もそれなりに弾むようになった。
家族歴約一年の初心者親子にしては上々の関係を築いていると言えるはず……なんだけど。
目下、一つだけ、大きな問題が残されていた。
問題というよりもボクの悩みと言ったほうが正しいであろうそれは、あの子がいつまでたってもボクのことを「お父さん」と呼んでくれないということ。
いつでもどこでも誰の前でも、あの子はボクを「理事長」呼ばわりするんだ。
そりゃ、たしかにボクはあの子の通う学校の理事長には違いないけどさ。プライベートまでそれじゃあ、あまりに味気ないというか……。
「自宅にいるときくらいは『お父さん』と呼んでいいんだよ」と何度言い聞かせても、返ってくるのは決まってブリザードのような視線だけ。
それがまた堪えるんだよね……。いや、あの子の冷めた視線のことじゃなくて(本音を言えばそれも含めてなんだけど)、それ以上に、頑なにそれを拒むあの子の態度が「最後の一線だけは決して越えさせないぞ」という意志表示のように思えて。
どれだけ仲良くなっても所詮は血の繋がらない親子でしかないのだということを思い知らされる。
ボクはこんなにあの子のことを大切に思っているのに、あの子のほうはボクをそれほどには思ってくれていないんだろうな……。
ボクはそれが寂しくてたまらない。どうしようなくやるせないんだ……。
「どうしてなんだろうねぇ。優姫ちゃんとボクはずいぶんと仲良くなったんだけどなぁ。所詮ママチチはどんなに頑張っても父親だとは認めてもらえないんだろうか……」
「そんなことはありませんよ」
「でもさぁ〜……」
うなだれるボクをやんわりと励ましてくれたのは、全身から理知的なオーラを漂わせた少年だった。よよよ、と泣き崩れるポーズをとるボクに、労わるような眼差しを向けてくれている。
いい大人が少年に慰められている光景は、傍目には奇妙に、そしてこの上もなく情けなく映ることだろう。しかも一見恋愛相談を持ちかけているかのような構図とくればなおさら。
実際、恋愛相談と似たようなものではあった。ボクはあの小さな女の子に恋をしているようなものだったから。しかも切ない片想い。
さらに情けないことに、ボクの相談相手はボクのお姫様の心を独り占めしている、いわば恋敵ときたもんだ。
でもボクは自分を情けなく思いはしても、彼を恨みに思ったりはしないよ。だって、ボクとあの子の運命の出逢いをもたらしてくれたのが他でもないこの少年なのだから。何度感謝しても感謝しきれないくらいだと思っている。
そして彼もまたあの子のことを大切に思ってくれている、ボクにとっては同志でもある。
その彼以外に、あの子のことを相談できる人物などいやしない。
それまで一人で煩悶とし続けるボクを言葉少なめに眺めていた少年――枢くんが、クスリと笑いをもらした。
「それにしても、あなたがここまで優姫に入れ込むなんて、正直言って意外でしたよ」
「何言ってんの、あの子をボクに預けたのは君じゃないか。それってボクを信頼してくれているからこそでしょ? その含みのある言い方だと、なんだかボクが冷たい人間みたいにも聞こえるんだけど」
「そういうわけではないですけどね。優姫をあなたに預けたのは、もちろんあなたを信頼してこそです。だけど、信頼に足る人物だということと、その人物が優姫を心から気に入ってくれるかどうかは別問題でしょう?」
きっとあなたならあの子を気に入って慈しんでくれると信じていましたけど、と付け加えることを忘れないあたり、この少年は油断がならない。
ここまで言われたら、あの子を大事にしないわけにはいかないもんね。もっとも、枢くんに釘を刺されるまでもなく、ボクはもうあの子に首ったけなわけだけど。
「――まぁ、その通りだけどね」
ボクはあっさり枢くんの言葉を認めた。
そもそもあの子を引き取ることを承諾したのは、それを頼んだのが枢くんだったからだ。
彼は僕の恩人の子息であると同時にボクの理想を叶えるために不可欠な人材であり、彼に恩を売っておいて損はないという打算が働いたことは否めない。
そうでなければ、ボクはあの子を気の毒に思いはしても、養女にしたりはしなかったはずだ。警察に届けて、せいぜい里親を探してやるのが関の山だろう。
ボクは健全な青少年育成をモットーとした学園の経営者だから篤志家のように思われがちだが、……実際はそうじゃない。
古い知り合いからは以前よりも丸くなったとか隠居して平和ボケに成り下がったとか色々言われるけど、ボクだって感情をもった生き物だ。誰でも無条件に愛せるわけじゃない。
あの子を義娘にした直後は、もちろんあの子を大事に育ててあげようという決意はあったけど……ここまでのめり込むことになるなんて、正直、予想だにしていなかった。
誰かと一緒に暮らすということが、誰かに気遣われるということが、たわいもない会話を交わすということが、こんなに心温まることだとは知らなかったから。
ボクが疲れたときは、心配して顔を覗き込んでくる。ぱっと見では気づかない程度の疲労であっても、あの子は必ず気づいてくれた。
ボクが夜遅くまで起きていると、眠気覚ましのコーヒーを差し入れてくれる。しかも自分のほうが眠ってしまいそうになるのを必死にこらえてだ。
世話になっているのが心苦しいのか、ボクに迷惑をかけないように気を使い、絶対にわがままを言わず、自分でできることはもちろん、できそうにないことまで、全て自分一人でなんとかしようとした。
寂しいだろうに寂しいとも言わず、たった五歳の少女はいつでも笑顔を見せるようになった。
いつからだっただろう、あの子に何の打算もない、純粋な好意を感じるようになったのは。
あの子の態度をいじらしく、もどかしく思う心は、いつしか愛情へと姿を変えていた。
ボクがそれを自覚するより早く、ボクの中にたしかな父性が宿ってしまっていたのだ。
こうなってしまうと、時々見せるブリザードの如き視線もご愛嬌だ。
もっとあの子を愛したいと思った。そしてもっとあの子に愛されたいと思った。血の繋がりなど全く無意味なことなのだと、ボクは唐突に気づいてしまったんだ。
だけどそれも、ボクの独りよがりならば虚しいだけ……。
「あーあ、枢くんが羨ましいよ。ボクがどんなに頑張ったとしても、優姫ちゃんの頭の中は君のことでいっぱいで、ボクの入り込む余地なんかこれっぽっちもないんだ。ボクに対しては義理でいい顔を見せてくれてるだけで、あの子にとってのボクは、あくまでも間借りしてる先の家主程度の存在でしかないんだ。結局ボクは愛されてないんだよ……!」
半ばやけくそのようにまくしたてると、枢くんが一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。
彼がこんな顔を見せるのは珍しい――と思う間もなく、彼はいつもの顔を取り戻し、そして微苦笑した。
「……ボク、何かおかしなことを言ったかな?」
「いえ、失礼。知らぬは自身ばかりなり、だと思いましてね。心配しなくても優姫はあなたに愛情を抱いていますよ。間違いなくね」
「いいよいいよ、下手な慰めは余計に落ち込んじゃうだけだから」
「僕はそんなに信用がありませんか? ……そうですね、じゃあ、あの子がいつも僕に真っ先に話すことは何だと思います?」
「そりゃあ学校のことじゃないの? 友達とどんなことを話したとか、何をして遊んだとか、今日はこんな授業だったとか」
ボクが即答すると、枢くんは静かに頭を振った。そしてボクなんかよりよほど大人びた口調で告げる。
「『お父さん』のことですよ、理事長」
「……え?」
今度はボクがきょとんとする番だった。
「お父さんが晩御飯に何を作ってくれて、何を焦がしたとか。お父さんが本を読んでくれたけど、一人で何役も演じながら大盛り上がりするのが変だとか、お父さんは何かにつけていちいち反応がオーバーで疲れないのかなとか、それは嬉しそうに『お父さん』のことを語ってくれるんですよ」
……あの子がボクのことを「お父さん」と呼んでる?
本当ならば、頭の中にお花畑が出現しそうなほど嬉しい話ではあったけど。
「……それは嘘だよ。君に気を使わせておいて申し訳ないけど」
「何故嘘だと思うんです」
「だってありえないよ。優姫ちゃんはね、ボクがお父さんと呼ぶように言うと、責めるような、非難するような眼で見るんだ。それにその後は決まって、あの子には珍しく拗ねたような態度になるし。お父さんと呼ぶことを恥ずかしがっているとか、そういう感じでもないからね」
すると枢くんが困ったように微笑み――何か言おうと口を開きかけて、でもすぐに口をつぐんでしまった。フォローしようとしたものの、今のボクには何を言っても無駄かもしれない、そう思って諦めてしまったという感じだった。
はぁ。
ボクの願いはささやかだと思うんだけどな。
「ホント、優姫ちゃんはどうしてボクをお父さんと呼んでくれないんだろう」
「分かりませんか?」
ぼやくと、生真面目な顔で、即、反応されてしまった。
「分かりませんかって。……もしかして、君には分かるの?」
「まあ、だいたいは。自分のことというのは、えてして自分では見えないものですから。それはあなたのような切れ者でも例外ではなかったということでしょう」
「ボクが、何を見えてないと?」
「僕が答えを教えてしまったら理事長のためにならないでしょう。自分でよく考えてみてください。優姫と本当の親子関係を築くための試練とでも思えばいかがですか?」
「そんなぁー!」
半泣きになったボクに、枢くんが悪戯っぽい視線を向けてよこした。
「一つ、ヒントをさしあげますよ。自分ばかりが相手に何かを求めるのはずるい。そういうことだと、僕は思います」
「…………何それ?」
結局枢くんはそれ以上は何も答えてはくれなかった。ただ意味ありげに微笑んでいるだけだ。
自分ばかりが相手に何かを求めるのはずるい?
ボクばっかりがあの子に何かを求めているのはずるい。そういうことだよね?
てことは、あの子が何かを欲しがっているってこと?
……………何も思い当たらない。
あの子は欲しい物があっても遠慮して何も言わないから。
人形とか洋服とかお菓子とか?
そんなの、言ってくれないことには分からないよ。
枢くん……。
君が「それ」を知っているのなら、出し惜しみせずに教えてはくれまいか。
それともボクを恋敵認定して、わざと意地悪をしているの?
そのヒントだけじゃ、ボクには何のことだかさっぱり分からないよ――!