枢くんのくれたヒントの意味すら分からないまま、数日が過ぎた。
ボクとあの子の関係は相変わらずで、ボクはやはり「理事長」のままだった。
「あ、優姫ちゃん、おかえりー」
玄関が開く音を聞きつけて、ボクは台所から声をかけた。
いつものように、ただいま、という返事が返ってきたけど、少し元気がないように聞こえたのが気になった。学校で面白くないことでもあったのだろうか。
今ボクは火を使っていて手が離せないから、あの子とのおやつタイムに話を聞いてみようか。もしかしたらそれが「お父さんと呼んでもらおう計画」の円滑油になるかもしれないし。
我ながらグッドアイデアだと思いつつ、ボクはまた嬉々として声を張り上げた。
「今、ボク風ホットケーキを焼いてるところなんだ。紅茶いれて待ってるから、お部屋にカバンを置いたらすぐにリビングにおいで」
「……はい……」
ボク風ホットケーキと紅茶を用意して待つこと五分以上。
待てど暮らせど、あの子はリビングにやって来なかった。
いつもなら帰宅後すぐにリビングにやってくるはずなんだけど……。
不審に思ってあの子を部屋のドアを叩いてみた。
「優姫ちゃん? どうしたの?」
声をかけても返事はない。――やはりおかしい。
「優姫ちゃん、入るよ?」
ドアを開けると、真っ青な顔をしたあの子が絨毯の上でぐったりとうずくまっていた。
「優姫ちゃん!!」
慌てて駆け寄り小さな体を胸に抱くと、全身が燃えるように熱いことに気がついた。ひどい熱だった。
「しっかりしなさい、今すぐ病院につれていってあげるからね!」
「だ、大丈夫……だもん……」
「大丈夫じゃないでしょ!」
「すぐに……治るもん……。だから理事長は……お仕事して……」
そう言って、緩慢な動きながらボクの腕の中でもがき始める。
……苦しくてもがいているわけではない。ボクの腕から逃れようとしてのことだ。
体を動かすどころか、呂律すら怪しくなっているくせに。
まだ六歳のくせに、こんな時までボクに気を使って――。
プツン、と。
糸が切れたような音を、ボクはたしかに聞いたと思った。
「――優姫!!」
その瞬間、ビクリと体を震わせて。
雷に打たれたかのように、あの子の動きが止まった。
「こんな時までボクに遠慮してどうするの! そんな気の使われ方はかえって迷惑なんだということに気がつきなさい!!」
ボクは我を忘れて怒鳴りちらしていた。それも、病気の子ども相手だということなど完全に失念して、容赦なく。
「具合が悪かったのなら、どうしてそう言わなかった! どうして今も、そう言わない!!」
反論の余地を与える暇もなく、ボクはまくしたてていた。
これほどの高熱だ。今突然発熱したわけではないだろう。きっと朝から、もしかしたらその前から具合が悪かったはずだ。
それを言い出さなかったあの子にも、それに気づいてやれなかった自分にも、悔しくて、腹立たしくて、どうしようもなかった。
「そんなにボクは頼りないかい……? ここまで具合が悪くなっても、優姫がそれを言い出せないくらいに……」
こんなに切ない気持ちになったのは初めてかもしれない。
愛したい人に愛されない痛みを、この年齢になってから味わう羽目になるなんて。
胸が締め付けられるように息苦しくて、本当に涙が出そうになった。
やっぱりボクには君にお父さんと呼んでもらう資格なんかなかったんだ、――そう諦めかけた時。
温かいものがボクの頬に触れた。
――小さな手のひらだった。
「……優姫?」
呼びかけると、ボクの腕の中であの子はふわりと微笑んで――。
「初めてだ……」
弱々しく、そう呟いた。
「……優姫……?」
「『優姫ちゃん』じゃなくて……初めて『優姫』って呼んでくれたね……、お父さん……」
苦しくて辛くて仕方ないだろうに、あの子は笑顔を浮かべて、たしかに口にしたのだ。
「お父さん」と。
そしてその直後。
少女はそのまま意識を手放してしまったのだった。
□■□
「――ですから、あなたは自分のことを『お父さん』と呼ばせたがっていたくせに、優姫のことはずっと『ちゃん』付けで呼んでいたでしょう? あの子はそれが気に喰わなかったんですよ」
あの子の病気はほとんどの子どもが一度は経験する小児病で、数日間自宅で安静にしていれば治るものだった。
後日見舞いに訪れた枢くんによると――。
「学校で言われたそうです、本当の親子なら、いつも子どもを『ちゃん』付けするのはおかしいと。どんなにあなたに優しくされても、それは上辺だけのことで、所詮はあなたに娘として認めてもらっていないのだと思ったんでしょうね。……子どもは大人が思っているよりも深く物事を考えているということですよ」
驚いたことに、かしこまった呼び方をされることによって壁を感じていたのはボクだけじゃなかったというわけだ。
ボクが「お父さん」と呼んでもらいたかったように、あの子もまた「優姫」と呼んでもらいたいと願っていたんだ。――互いに、本当の親子になりたかったから。
「なのにあなたは自分の要求ばかり押し付けようとするから、あの子もかえってムキになってしまった。……自分からは『お父さん』と呼んであげないと決めたんでしょうね」
「……ハイ、全てはボクの至らなさゆえです……」
ボクはただ、純血種の少年のお説教にうなだれるばかりだった。
ひたすら反省するボクを可哀想だと思ったのか、枢くんは帰り際、そっとボクに呟いていった。
「血の繋がりなんかなくても、あなたたちは似た者親子だったということですよ」と。
コンコンと愛娘の部屋をノックすると、その直後、中から可愛らしい声が返ってきた。
「……お父さん?」
まだ少し照れくささを残した口調に、よりいっそうの愛しさが溢れてくる。
このドアを開ければ、君はボクをはにかんだような笑顔で迎えてくれるに違いない。
そしてボクもまた、多少の面映さを感じながら、あの子の名を口にした。
「入るよ、優姫」
まだ若葉マークがついたままだけど、キミとボクはれっきとした親子になったんだ。
そしてこれからもっともっと仲良くなってみせる。それこそ枢くんの付け入る隙のないくらいにね。
たとえ血の繋がりがなくても、キミはボクの可愛いムスメ。
キミはボクのかけがえのない宝物―――。
(2005/10/04)