Zero+Yu-ki (Vampire knight)


 ひやりとしたものが手に触れた。そしてそのまま私の手を優しく包み込む。
 それが誰かの手であることだけは、なんとなく分かった。だけど頭の中は霧がかかっているようで、それが誰の手であるのかまでは分からない。
 冷たくて、気持ちがいい。もっと触れていてほしい。
 そう言葉にしたかったけれど、喋ることすら億劫だったから……ただ笑った。
 ちゃんと笑えたのか、自信はない。実際には、わずかに口元が動いた程度だったと思う。
 だけど次の瞬間、ふわりと空気が揺れて――その人が微笑み返してくれたことが分かったから――私は安心して目を閉じた。




―ZERO version―




「うわっ!!」

 目が覚めて。
 第一声は、我ながら色気の欠片もない悲鳴だったと思う。――いや、この際、そんなことはどうでもいいんだけど。
 突然目の前に現れたものに驚いて、飛び上がるように背中を起こした時、鈍い音が重々しく部屋に響いた。――ゴツン、と。

 しばしの静寂の後、二つの呻き声が重なった。

「いってぇ……」
「あううぅ……」

 じんじんする額をさすりながら涙目で顔を上げると、相手はまだうずくまったまま、肩をわなわなと震わせている。

「人の顔見るなり……てめえ、何しやがる……!」

 そう言ってゆらりと立ち上がるその体からは、静かな怒りのオーラが漂っている。
 その迫力に一瞬ひるむが、その言い方に、そしてその内容に理不尽さを感じて、精一杯の怖い顔を作ってそいつ――同じ風紀委員である錐生零を睨みつけてやった。

「『何しやがる』はこっちのセリフだよ!」
「ああ?」

 普段から無愛想で人相が悪いと評判のその顔の――中でも、しかめ面の象徴とでも言うべきその眉間に、さらに深い皺が刻まれる。
 そのすごみ方は十代とは思えないほどに年季が入っていて、免疫のない人ならばたいてい恐れ慄いてしまうだろう。だけど私は零と数年間一つ屋根の下で暮らしてきたのだ、それ相応の耐性がある。だからひるまず精一杯怖い顔を作って応戦してやった。

「だってそうじゃない。目が覚めたら至近距離に極悪人みたいな顔があるんだよ!? しかもめちゃくちゃ機嫌悪そうな顔が! 誰だって驚くよ!」
「誰が極悪人だ、この石頭」
「なんですってえっ!?」

 石頭はお互い様だ。
 カッとして、さらにまくしたててやろうと思った途端。

「……あれ?」

 突然ぐらりと視界が反転した。そのまま後ろに倒れそうになった体はしかし、大きな手で易々と受け止められて。

「バカ。まだ熱があるんだぞ、おとなしく寝とけ」

 ぶっきらぼうな言葉とは裏腹な優しい動作で、ゆっくりとベッドに背中を押し戻される。
 後頭部にひやりとしたものを感じ、その心地良さに思わずうっとりと瞼を閉じてしまった。
 冷たくて気持ちがいい。
 やがて気持ちが落ち着いてくるにつれ、それまでどこかしら不鮮明だった頭の中がクリアになっていくのが分かる。
 そこでようやく、自分の頭の下に置かれたものが何であるのか、そしてさっき零が口にした言葉の意味に思い当たった。

「……熱。それにこれ……氷枕」

 さらに視線だけを四方に彷徨わせてみて、ここが寮ではなく、自宅の部屋だということに気づく。

 ――何故?

 たしか今日は朝から頼ちゃんと街に出かけて、お土産に理事長の好きなパンを買って、夕方それをここに持ってきて。
 でも理事長が出張だったってことをうっかり忘れていて。それで、それで……?
 そこからの記憶が…………ない。

 隙間なく閉められたカーテンからは外の様子が分からないし、時間の感覚もない。
 慌てて時計に目を走らせるより先に、私の心を見透かしているかのように、零がもう夜中だと説明してくれた。

「おまえ、リビングで倒れてたんだぜ」
「え?」

 ぽかんとして零を見上げると、零は水差しの水をグラスに注ぎ、手渡してくれた。

「……ありがと」

 一口水を含んだところで喉がカラカラに渇いていたことに気づき、その後は体が欲するまま勢い良く水を流し込む。
 干乾びていた細胞に、じんわりと水分が吸収されていくかのような快感。脳細胞までもが活性化されていくような気がした。
 思っていた以上に水分が不足していたらしく、零がもう一度ついでくれた水を残らず飲み干してようやく、ほっと一息つくことが出来た。
 それを見計らって、零が口を開いた。

「風邪プラス過労だと。俺が見つけた時にはすごい熱で、解熱剤打ってもらったんだ」
「風邪プラス過労……?」
「風紀委員業務をはりきりすぎなんだよ、おまえは。適当に手を抜けっていつも言ってるだろ」

 だったら零も風紀委員業務をはりきってよ。そもそも零が出待ちに遅刻ばかりするから私が――とは言わずにおいた。
 だって私は知らない間にずいぶんと零に迷惑をかけてしまったようだから。
 さっきの「ゴツン」にしても、きっと私を心配して様子を窺ってくれていたんだろうから。
 あの時怒ったりして、悪いことをしてしまったかもしれない。

「えーと。じゃあ零がここまで運んでくれたんだよね? ありがとう」
「おまえ、太ったんじゃねーの? 腕が抜けるかと思ったぜ」
「……前言撤回」
「ああ?」
「いいえ、こっちの話ですからお気になさらず……なんて言うわけないでしょっ!? なによ、もうっ!」
「どうでもいいけど、興奮するとまた熱が上がるぞ。また汗かいたらおまえ、今度は自分で着替えられるのかよ」
「興奮させるようなこと言うそっちが悪いんでしょ! だいたい零ってば、デリカシーってものが……って、ちょっと……待って」

 イヤな予感に動きが止まった。

『また汗かいたらおまえ、今度は自分で着替えられるのかよ』

「また」?
「今度は自分で着替え」?

 ……それはまさか。

 急に黙り込んでしまったことを訝しんで零が私を覗き込んできたが、私は相変わらず固まったままだった。

「どうした。気分が悪くなったのか?」
「……ねえ、零。私、今、パジャマ着てるよね。でも私が倒れていた時は、間違いなく服を着てたはず……だよね……?」

 引きつるような笑顔を向けられて、零は心底嫌そうな顔をして私を睨みつけた。鼻にまで皺がよっているから、これは本気で嫌がっているのだろう。

「まさかおまえ……俺が着替えさせたとでも? ついでに、おまえのその小学生みたいな体を見て、俺が鼻の下を伸ばして喜んでいるとでも?」

 嫌味ったらしさ全開のセリフに一部カチンとくるものがあったけれど、自意識過剰だと思われると恥ずかしいので、あえて反論はしない。
 それにこの様子から察するに、零が私を着替えさせたということはなさそうなので、とりあえず平静を装い、改めて確認をとった。

「てことは、零が着替えさせたわけじゃないんだよ……ね?」
「あたりまえだろ。女医だったからな、診察のついでに着替えも頼んだんだ」
「そっか、女医さんだったんだ。なーんだ」

 心底ほっとして漏らした呟きに、零が盛大なため息をついた。
 そのうんざりしきった顔を見ていると、『誰がおまえの貧相な体なんかを見たがるかよ。そんな奇特な奴がいたらお目にかかりたいぜ。自意識過剰なんじゃねーの?』との毒々しい言葉が今にも聞こえてきそうで、――あえてそれを口にせずに無言で呆れているその態度にカチンときた。

「なによ、自分だけちょっと体が大きくなったからっていばらないでよね」

 一緒に暮らしだした頃には二人とも同じような子どもだったのに。
 身長だってそう変わらなかったし、顔つきだって二人とも幼かったのに。
気づけば零だけ先に大きくなって、もともと一人で何もかも抱え込んでしまいがちな性格に輪をかけて、ますます大人ぶるようになってしまった。
実際はたった1歳しか変わらない私をどこか子ども扱いし、ため息をつくことが増えた。――私たちが風紀業務委員に就くようになってからは、特に。

 私が世話を焼いてあげないと、自分のことにはけっこう無頓着なくせに。
 一人だけ先に大人になったような顔をして――。

 考え出すと、ますます面白くなくなってきた。
 普段なら慣れっこであるはずの零の態度が何故か今は腹立たしくて仕方がなかった。
 これは私の体調が良くないせいなのだろうか。
 ……よく分からない。

「俺は何も言ってない」
「言いたいことくらい分かるよ。ていうより、顔がそう言ってるもん」
「勝手に解釈するな。生まれつき、こういう顔だ」

 刺々しい私とは反対に、零はあくまでも冷静な態度だ。
 それが却って私の気持ちを苛立たせていく。これは私の身勝手さだと分かってはいたけれど、熱のせいなのか、どうしても今夜は感情を抑えにくかった。

「おまえ、何ムキになってんだ?」
「ムキになんかなってないよ!」

 ここでまた零の大きなため息。
 言葉がない分、本当に呆れられたことがよりリアルに伝わってきた気がした。
 いたたまれなくなって、私は体を零とは反対側に向け、きつく目を閉じた。
 訳の分からない苛立たしさをぶつけたのは自分で、零は何も悪くない。
 こんな態度では、零がため息をつきたがるのも当然なのかもしれない。
 謝らなきゃ。
 そう思うのに、謝罪の言葉は出てこなかった。否、謝罪の言葉を紡ぐことが出来なかった。
 きっと普段の私なら、もっと素直にこれを口に出来たと思う。
 だけど。
 「ごめん」と言うのは簡単だけど、自分でもよく分からないこのモヤモヤを、どうやって説明していいか分からないから。
 だから――何も言えない。
 零も何も言わない。

 気まずい沈黙の後、背中越しに、零がドアを開けて部屋を出て行くのが分かった。

「あ……」

 振り返ったときには零の姿はなく、私はただ後味の悪さに唇を噛み締めるしかなかった。



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