もう子どもじゃない。昼はもちろん夜だって、一人でいることなんて平気なはずだった。……それなのに、今はひどく心細い。
気弱になるのは病身のせいなのだろうか、それとも。
零が出ていってしまってから、ゆうに三十分は経っただろうか。彼が戻ってくる気配はない。
「自業自得じゃない……」
そう口にしつつも、またしてもドアを振り返り、そこにいつもの仏頂面がないか確かめてしまう。零が出て行ってから、もう何度、そちらに気まずい視線を送ったことだろう。
「もしかして、呆れて寮に帰っちゃったのかな……」
この理事長宅には零が数年間を過ごした部屋があるが、私がいるこの空間で休む気になれないとしたら。
零ならば、夜道などものともせずに寮に戻ってしまうだろう。
だとしても自業自得だ。それは自分でもよく分かっていた。
非があるのは完全に自分のほうで、零は何も悪くない。
零との口喧嘩は日常茶飯事だけれど、さっきのあれはいつもの口喧嘩とは少し違う。
正体の分からないモヤモヤを、ただ一方的に、ただ八つ当たり的にぶつけてしまっただけだ。しかも、自分を案じて看病までしてくれていたであろう相手に。
気心の知れた仲とはいえ、あれには流石の零も呆れ果てたことだろう。あんなふうに訳の分からない態度で親切を無碍にされようものなら、自分だってうんざりするに決まっている。
零が出て行ってから何度目になるか知れないため息が、またも口をついて出てきた。
そう、悪いのは自分。
――それでも、一人はイヤだ。今は何故だか無性に寂しく感じるから。
ここは陽の寮以上に慣れ親しんだ自分の部屋のはずなのに、今はひどく寒々しい場所のように思える。
だから今、誰かに傍にいてほしい。
「誰か」を思うときに真っ先に頭に浮かんだその人に、今、傍にいてほしいのに。
さっきも今も、とにかく今夜の自分はとても身勝手だと自覚しつつ、零にとっては理不尽極まりないことだと自覚しつつ、またしてもふつふつと腹立たしさがこみ上げてくる。
だからつい、ぼやかずにはいられなかった。
「なによ、病人を置いて出て行くことないじゃない。大人ぶりたいんだったら、こういうときこそ最後まで大人ぶりなさいよね」
――せめて一言、謝るチャンスを与えていってくれたっていいじゃない。
……寂しいじゃない。
「零のバカっ!」
唇を尖らせて枕に突っ伏すやいなや、突然背後から愛想の欠片もない声を投げかけられた。
「誰がバカだ、このバカ」
「!」
慌てて上体を起こすと、戸口には零がいた。
「……零」
戻って…きてくれた……?
ほっと安堵の息が漏れるけど、それと同時に零の顔を見るのが怖いような、気恥ずかしいような、そんな感じで、思わずまたすぐに目をそらしてしまう。
とにかくさっきのことを謝らないと。
そう思っていたのに、そして今もそう思っているのに、素直にその言葉が出てこないのが自分でももどかしい。
結局気まずく俯くことしかできないでいる私の目の前に、零がそれを差し出すまでは私は顔を上げられずにいた。
思わず、目を瞠る。
差し出されたのは一人前の小さな土鍋を載せたお盆。
蓋を開けた途端に立ち込める白い湯気が、これが作り立てということを物語っている。
それは、野菜の細切れが入った雑炊だった。
「……これ、もしかして零が作ってきてくれたの?」
「他に誰がいるんだよ」
――じゃあ、部屋を出て行ったのは、このために?
きょとんとして見上げる私に対して、零はいつもの愛想のない口調に無表情のままだ。
だけどこれはごくいつもの彼であって、少なくとも私のことを怒っているような様子は見られない。
「食えるだけでいいから食え。でないと薬も飲めないだろ?」
「料理なんて普段しないじゃない」
「こんなもの、料理ってほどでもないだろ」
「でも私、作れないよ」
「おまえはな」
そう言って、零は小さく笑った。
笑顔と呼ぶには頬の筋肉の動きが乏しすぎるけれど、それは何の含みもない、嘘偽りのない零の笑顔だった。
零と出会ってから数年間を共に生活してきたけれど、彼のこういう笑顔に出逢えることは滅多にない。
それも、あんなふうにイヤな思いをさせた後なのに……。
「ありがとう……。それに、さっきはごめんね……」
気づけば、そう口にしていた。
気まずくてどうしても言えなかった言葉が、知らぬ間に、素直に口をついて出ていた。
おずおずと零を見上げるけれど、零のほうは「何を言ってるんだ?」とでも言いたげな顔で、平然としたものだ。
「……怒ってないの? 私、なんだかイライラして、八つ当たりしちゃったのに」
「おまえのヒステリーはいつものことだろ。今更いちいち怒ってられるか」
「あのねぇ」
ひくひくと口の端がひくついたけれど、内心では今は零のいつもの憎まれ口が有難かった。それが零なりの気遣い、表には見えにくい彼の優しさなのだと痛いほどに分かるから――。
「いいから、とりあえず食え」
「うん」
「熱いから気をつけろよ」
「うん、分かってる」
零は気づいているのだろうか、自分が案外世話焼きだということに。
温かい雑炊を口にする前なのに、早くも温かくなっている私の心に、零は気づいているのだろうか。
促されるままにレンゲで雑炊を掬い、ふうふうと息を吹きかけてから、それを口に含んだ。
「おいしい……。おいしいよ、零」
「大げさだな。そんなもん、誰が作ったって同じだろ」
「大げさじゃないよ。それに本当においしいもん」
嘘ではなかった。
初めて食べる味なのに、懐かしさすら感じられるのは何故だろう。
じわじわと、何かが胸の奥に染み入ってくるようだった。
本当は食欲なんてなかったはずなのに、ゆっくりとではあったけれど、次から次へと雑炊を口に運び、気づけばほとんど残さず全てを平らげてしまっていた。
私が食事をしている間はずっと頬杖をついてそっぽを向いたままだった零も、私の食欲は意外だったのか、最後には呆れたように苦笑する始末だった。
あんなに寒々しく感じられていたこの部屋が暖かく感じられるようになったのは、あんなに重く感じていたこの体が不意に軽くなったように感じられるようになったのは、きっと零のさりげない優しさのおかげなのだろう。
零は、私にそうと悟らせずに、いつだって私を見守っていてくれる。
出逢ったときから変わらずに、今でもずっと……。
――そういえば……。
「ねえ、零」
「なんだ?」
「私が眠っている間、もしかして、ずっと手を握ってくれてたの?」
「………」
零は答えなかった。
だけど、答えがなくても私には分かった。この手がたしかにそれを記憶している。
熱に浮かされていた私には朧気にしか記憶がないけれど。
ひやりとしたものが私の手を包み込んで、それが私に揺ぎない安心感を与えてくれていたのをうっすらと覚えている。
そう、あれはきっと、零だ。
その手の冷たさとは反比例したたしかな温もりをもって、零が私を癒してくれたのだ。
「ねえ、もう一度、手、握って」
おずおずと、差し出す手。
それを見て途端に零が眉を寄せた。
「おまえ……子どもじゃあるまいし」
「お願い、ちょっとだけでいいの。零の手、冷たくて気持ちよかったから、だから、」
――お願い。
「……珍しいな、おまえがそんなこと言うなんて」
そうかもしれない。「黒主優姫」を名乗るようになって以来、理事長にすら、そういう甘え方をした覚えはない。
今夜の私はどうかしていると自分でも思わないでもなくて、思わず苦笑がもれる。
熱のせいなのか。
寂しかったのか。
ただ単に、甘えてみたかったのか。
それすらもよく分からないけれど、私はただ零の体温を感じていたいと思った。
「病人には優しくするものだよ」
もう一度促すと、結局零は深いため息を一つ吐いて、面倒くさそうに、だけど決して乱暴ではない仕草で、差し出された手を緩く握り締めた。
「……ほら」
ぶっきらぼうに繋がれた手。
ひんやりとしていて、でも――。
「……温かいね」
「は? 温かい?」
「そうじゃないよ。冷たくて気持ちいいって言ったの」
「……おまえ、言ってることが支離滅裂だぞ。やっぱり熱が上がってきてるんじゃないのか?」
それには答えず、私はただ微笑んで見せた。
零が肩をすくめてため息を吐く。
「いいからさっさと寝ろよ。おまえが眠るまで、ここにいるから」
「うん……そうする………」
食事をして胃を満たしたせいなのか、それとも食後に服用した薬のせいなのか。
それとも零が傍にいてくれるという安心感からなのか。
徐々に重くなってくる瞼に抵抗せず、私はおとなしく目を閉じた。
「お休みなさい……」
かけがえのないぬくもりに包まれながら――。
(2005/11/16)