ひやりとしたものが額に触れた。
それが誰かの手であることだけは、なんとなく分かった。だけど頭の中は 霧がかかっているようで、それが誰の手であるのかまでは分からない。
冷たくて、気持ちがいい。もっと触れていてほしい。
そう言葉にしたかったけれど、喋ることすら億劫だったから……ただ笑った。
ちゃんと笑えたのか、自信はない。実際には、わずかに口元が動いた程度だったと思う。
だけど次の瞬間、ふわりと空気が揺れて――その人が微笑み返してくれたことが分かったから――私は安心して目を閉じた。
―KANAME version―
目が覚めたとき。
心配そうにこちらを見つめているその人と目が合った。
「……枢……センパイ……?」
「気分はどう? ……ちょっとごめんね」
どうしてこんなに喉が渇いているのか、どうしてこんなに体が熱いのか、どうしてこんなに頭の芯がぼんやりするのか。――いや、そんなことよりも。
幼い頃から憧れて止まないあの人が今、どうして私の額に額をくっつけているのか。
さっぱり分からなかった。
「まだ少し熱があるようだね」
至近距離から私を見下ろしたまま、その人はかすかに眉宇をひそめる。
私は、その様子をどこか他人事のように眺めている自分に違和感を感じていた。
だって、おかしい。こんなこと、絶対にありえない。
何故か頭がうまく働かないけど、それくらいはちゃんと分かってる。
この人は玖蘭枢センパイ。
命の恩人であり、超エリートな夜間部のクラス長であり……私にとって高嶺の花的な存在。まさに憧れの君だ。それはもう、目があっただけでも息が止まりそうになるくらいに。
それが今、その彼と額をくっつけあったばかりか、こんな間近で見つめあっているなんて。
そんな超上級コースを、お子様な私にできるはずがない。やっぱりそんなこと、ありえない。
とすると、これは夢なのだ。それしか考えられない。
そう結論付けてしまえば、一気に肩の力が抜けてしまった。
大きく深呼吸を一つ吐く。
だけど初めて知った。夢の住人の手がこんなに優しいなんて。
夢の中でも枢センパイが優しく素敵なことが、こんなにも嬉しい。
どんな美人も三日で飽きるという俗言をどこかで聞いたことがあるけど、あれはやっぱり嘘だ。
嘘でないとしても、それはきっと彼のような「本物」ではなかったのだろう。だって現に、三日どころか十年間彼を見続けてきた私なのに、いまだに、彼に会うたびごとに、こんなふうに胸ときめいているのだから。
「枢センパイの夢なら、このままずーっと目が覚めなくてもいいよ……」
半ば本気で、うっとり呟いたそばから、耳元で忍び笑いがもれた。
「それは困るな」
……え?
「優姫がずっと眠り続けたままなんて、そんなこと、僕は絶対に許すつもりはないよ」
ゾクリとした。
耳の中に直接息を吹き込まれるかのように囁かれて、温かい吐息が私の耳たぶにかかったから。
「もしもそんなことになってしまったら、僕はどんな手を使ってでも君を目覚めさせるから。覚えておいて?」
語尾が少し掠れて聞こえるのが特徴の、耳に心地良く響く声。
どんな時でも私を安心させてくれる温かさを持つそれは、昔から耳に馴染んだ声だというのに、今初めてそれを聴いたかのような錯覚を覚えた。
もともと艶やかな声が、いつも以上に艶っぽく聴こえたからだ。しかも生々しい吐息を伴って。
……もしかして。
夢だとばかり思っていたコレは、まさか……?
私が考えをまとめる前に彼は一度体を起こし、何か考え込むように小首を傾げてみせた。
「……そうだ。たしか、眠り姫を目覚めさせるには、彼女を愛する男の口付けが必要だったんだよね」
いつもの彼らしくない、どこか人の悪い笑いを浮かべて。彼は私の顔を拘束するかのように両腕をベッドについた。
ギシリ、とベッドがわずかに軋む。
それに驚く暇もなく、秀麗すぎる顔が再び近づいてくる。スローモーションのように、ゆっくりと、でも確実に二人の間の距離をつめて。
ちょっと……待って。
そう言いたいのに、喉の奥が凍りついてしまったが如く、声が出ない。
吸血鬼はその美しい容姿で人間を魅了し、相手が恍惚としている間に血を吸うのだという。
唐突に、広く伝えられている伝説が頭をよぎった。
それはまさにこういう状況を言うのではないだろうか。
少なくとも今の自分は、金縛りにあったように、ただの一度も瞬くこともなく、彼を見上げていることしかできない。
あの妖しく濡れる瞳から目が離せない。
彼の唇が互いの呼吸が混ざり合うほどの位置までやってきてようやく、私は今の状況を理解した。あまりに唐突に、天啓を受けたかのように、瞬時に悟ってしまった。――やはりこれは夢なんかではなかったということを。
ベッドに横たわっている自分、熱を持った肌、だるい体。
全ての点が繋がって一本の線になる。
そうだ、私は今朝から頭も体も重くて、体調が良くないことを自覚していた。今日一日ベッドの上で過ごしたかったくらいには。
だけど今日は彼がここ理事長宅を訪れ、私からとある書類を受け取ることになっていて。
本当はおとなしく彼を待っていればよかったんだろうけれど、私はだるい体に鞭打って月の寮に出向こうとしたのだ。多忙な彼を煩わせるようなことはしたくなかったから。
それなのに、たぶん倒れてしまったのだろう。外に出ようとしたあたりのところで記憶が途切れてしまっている。
そしてきっとそこを、訪ねてきた彼に発見されて――。
でも。
それを理解できたところで、今の状況がどうなるわけでもない。
彼は私にとって絶対的な存在だ。
雛鳥は最初に見たものを親だと認識するのだという。いわゆる「刷り込み」と言われるもの。
私と彼の関係がそれだと指摘されれば、それを否定することはできない。
玖蘭枢という人物は、それ以前の記憶を失くしてしまった私にとっては、一番最初に出逢った人物であり、命の恩人であり、兄のような存在であり、父親のような存在であり、憧れの対象であり、おそらくは誰よりも私を慈しんでくれている人だろう。
そして当然のように、私の中では全てにおいてまず枢センパイありきだ。
恋だとか愛だとか、そういう細かい分類ができるほど人生経験が豊富ではないから、私の中に確かに在るこの気持ちの種類までは分からないけれど。
目があっただけで生じる胸の高鳴りや緊張感が俗に言う恋の初期症状というものであるならば、……私は彼に淡い恋心とでも言える想いを抱いているのだろう。
だけど、そうだとしても。
彼の呪縛は依然として続いている。
思考力を奪われ、呼吸すらままならなくて。
だけど違う。こんなのは違う。
こんなふうに訳も分からないまま彼と触れ合うのは、やっぱり間違っている。
「――か……かな、め……セン…パイ……!」
喉の奥から搾り出すようなか細い悲鳴が空気を震わせて――。
唇と唇が触れ合う寸前に、それはようやく止まった。
自分でも、どうやって声を出せたのか分からない。
だけど、それはたしかに言葉という形をとって、たしかに彼の動きを止めた。
彼は私を見下ろしたまま。
私は相変わらず瞬き一つ出来ないまま、そしてそれ以上言葉を発することも出来ないまま。
しばし、無言のまま、互いを見つめあう。
時が止まってしまったのではないかと疑ってしまうほど、それはやけに長い時間のように思えて、でも実際は、ほんの数秒でしかなかったのかもしれないけれど――。
ようやく……、前髪を払いながら、彼はベッドから体を起こした。
わずかに表情を曇らせて、私の頬をそっと撫でる。
「……ごめんね。悪ふざけが過ぎたようだ。君はまだ熱も下がりきってないというのに……」
自嘲するかのような、しかしどこか切なげに細められた瞳に、何故か胸を突かれる想いがした。
自分のほうが彼を傷つけるような真似をしてしまったのではないかと錯覚してしまうような……。
この人は時々、不意に、今みたいな表情をすることがある。
全てに恵まれているであろう人のはずなのに、時折、どこか寂しくて翳りのある表情を見せるのだ。
そんな時、どうしたらいいのか分からなくて、私はただ彼の傍で彼を見つめることしか出来なくなってしまう。
……今みたいに。
そんな私の気持ちを察したのか、彼はすぐにいつもの穏やかな表情を取り繕って、私に優しく微笑みかけた。
「でもね、優姫も悪いんだよ。今日はずっと具合が悪かったんだろう? それなのに無茶をして。ましてや、ずっと目が覚めないままでいいなんて口にするから」
だから意地悪をしてしまったんだ、と。
「……ごめんなさい……」
やんわりとした咎め方ではあったけれど、その眼差しがあまりに真摯で。
彼がどれだけ私を心配してくれていたのか、痛いほどに伝わってきたから……。
「ごめんなさい。枢センパイ、本当にごめんなさい……」
私はただ、それしか言葉を知らないように、「ごめんなさい」を繰り返すことしか出来なかった。