「とにかく驚いたよ。書類を受け取りに来たら玄関に鍵がかかっていないし、慌てて中に入ってみれば優姫が倒れているし」
「はぁ……、その、スミマセン」
倒れた前後の状況まではよく覚えていないから、ただうなだれるしかない。
枢センパイを前して縮こまるのはいつものことだったけれど、今夜は少し勝手が違う。さっきのアレで、なけなしの気力体力全てを使い切ってしまったのか、普段のような、話しかけられるとしどろもどろでしか応対できなくなってしまうほどの緊張感はここにはなかった。
さすがに緊張感皆無とまではいかなくても、今の私は平常心に近い状態で彼に接しているのは間違いない。
私自身は覚えがないことだけど、意識が朦朧としていた時に彼が薬を飲ませてくれたらしく、ずいぶんと気分も良くなっている。
まだ少しだるいけれど、今みたいにベッドに半身を起こしていても平気だし、頭の中も明瞭になってきた。「こんなことなら今日、部屋の掃除をしておけばよかった」とか「もっと可愛いパジャマを用意しておくんだった」などと呑気なことまで考えてしまうくらいだ。
そこで、はたと。気づいてしまったのだ、とある重大な事に。
彼が私の部屋にいるのはかまわない。幸い部屋は散らかっていないし、掃除もマメにしている。
問題はそこではなくて。
ある疑惑が、私の心と体を完全に硬直させてしまった。体から滲み出る汗は、発熱がもたらしたものではない。
「あ…、あのぅ……、枢センパイ……?」
「何?」
恐る恐る彼のほうを向くと、ベッドの横の椅子に腰掛けた彼が麗しい笑顔を返してくれる。
そんな笑顔を向けられると、ますます訊きづらくなります。
実際に口にするではなく、心の中で私はそう呟いていた。
本当を言うと答えを聞きたくない気持ちで一杯だったけど、やはり問題をうやむやにするわけにもいかず――。
「あ、あの。私……たしか制服を……着ていたと……思うんですけど………」
蚊の鳴くような声でおずおずと切り出しながら、私は今着ているパジャマのあわせを握り締めていた。震える手で、おそらく無意識のうちに。
月の寮を訪ねるのに私服ではまずいと思い、休日の今日、わざわざ制服に着替えたのだ。そこははっきりと覚えている。
「ああ、ごめんね。優姫があんまり汗をかいていたから、僕が着替えさせたんだ」
「…………!」
申し訳なさそうな表情ではあったものの、さらりと告げられて――言葉を失った。
半ば予想していた答えとはいえ、脳天を鈍器で殴られたような衝撃だった。
零に、小学生のまま成長が止まっていると馬鹿にされているこの貧相な体を、よりによってこの男性に見られたというのか。
脱いだらすごいんです。
――残念ながら、そのフレーズは私には当てはまらない。
着痩せするタイプでもなく、外見と中身が一致した凹凸の少ない体しか私は持ち合わせてはいない。
かろうじて肌の白さには自信があるけど――、などと呑気なことを考えている場合ではない。
パジャマの下を確認するまでもない。今の私は下着を……つけていない。いや、正確には下だけは穿いているみたいだけど、それ以外は体を覆うものは何もない。
ある意味、未遂で終わってしまった先程のアレよりも、既遂である分、こちらのほうがダメージは大きい。
熱のせいではなく、眩暈がした。叶うことならば、今すぐに彼に記憶操作を施して今日見たこと全てを忘れさせてしまいたい。
「本当にごめんね。勝手に女の子を着替えさせるのはどうかと僕も思うけど、あの時はあのままにしておくわけにもいかなかったんだ」
それでもなお凍りついたままの私を見かねたのか、彼が心配そうに私を覗き込む。
邪な考えで私の衣類を脱がせたわけではなく、私を心配してくれてこその処置だ。それは至極まっとうな行いでむしろ感謝すべきこと。汗だくの、しかも窮屈なデザインの制服を着たまま放置されていたとすれば、私の症状はさらに悪化していたことだろう。
本来ならば当然ここで「気にしないでください」もしくは「ありがとうございました」とでも言わねばならないのは分かっている。しかし今はそんなことを考える余裕すらない。
「バスタオルで包んで着替えさせて、体が見えないように極力気をつけたつもりなんだけど」
「…………」
「極力気をつけたつもりだが」などという言い回しをするからには、やむをえず見てしまった部分が確実にあるということを意味しているわけで。
わずかに残されていた望みまで打ち砕かれてしまい、この場から立ち去ってしまいたいくらいだったけど、病身ではそれは叶わない。
あまりの恥ずかしさに掛布団を引き上げ、顔を覆い隠すのが精一杯だった。とてもじゃないが、彼の顔を見ることなどできそうもない。
「許してもらえない、かな……?」
ひどく申し訳なさそうな口調に胸が痛んだ。どうやら彼は私が怒っているのだと誤解しているようだった。
そうではない、ただただ恥ずかしいだけで、あなたは何も悪くないのだと伝えたかったけど、やっぱり今はまだ混乱していて、ただ否定の意を示すべく首を横に振ることしかできない。
もどかしいけれど自分でもどうしようもない。
「優姫。僕の顔を見たくないほど、口もききたくないほど、怒っているの……?」
悲しそうに問われてもやっぱり何も答えられなくて、私は相変わらず顔を隠したままで。
二人とも無言になってしまって。
気まずい空気にますますどうしていいか分からなくなってきた時、何かの重みでベッドがわずかに沈み――。
「――えっ……?」
私の体は背後から、彼の温かい胸の中へと引き寄せられていた。
顔を隠していた掛布団も、後ろから優しく剥ぎ取られてしまって。
慌てて彼から離れようとしたけれど、彼は私を拘束したまま放してはくれなかった。
結局後ろから抱きしめられたまま彼を振り返ることもできず、すっぽりとその胸に収まっているしかなかった。
なんだかそれがひどく面映くて、俯いてしまう。
私を抱きしめる腕がひどく甘く思えて、先程とは違った意味で、私はまた何も言えなくなってしまう。
頬が一段と熱くなったのは、果たして何が原因なのか。
だけど不思議なことに、つい先ほどまでの穴があったら入りたいという心理はなりを潜め、私の心は今、凪いだ海のような静けさを取り戻しつつある。
ますます羞恥心が刺激されそうなこの状況下だというのに、憧れの人に抱きすくめられているというのに、本当に不思議だ。
あくまでも優しい彼の所作が、匂いが、そしてパジャマごしに伝わってくる熱と鼓動が、私の全てを包み込んでくれている。
それが本当に心地良くて。
体だけでなく心まで、彼に全てを抱きしめられているかのような感覚だった。
それに浸っていたくて、私はいつの間にかうっとりと瞼を伏せていた。
彼の魔法にでもかかってしまったのだろうか。素肌を見られたことさえも、もうどうでもいいとさえ思える。
「無神経なことをしてしまって本当に悪かったね」
「枢センパイ……。あの、私、」
怒っているわけじゃないんです、それにもういいんです、と言おうとして――皆まで言う前に言葉は遮られる。
「顔を上げたくなければそのままでいいよ。聞いてくれるかな」
小さく私が頷くと、彼が安堵の息を吐く気配を感じた。
「言ったよね、もしも優姫が眠り続けるなら、僕はどんなことをしてでも目覚めさせてみせるって。あれは本気だよ。たとえそれが優姫の意志に反することと知っていても、僕はきっとそうするだろう。……君を失いたくないから」
その時、腕に込められた力がほんの少しだけ強められたような気がした。
胸の奥がきゅっと締め付けられるような……かすかな痛みを覚えると同時に、私の頬が、細胞の全てが、再び熱を帯びて甘く疼きだす。
私を抱きしめている彼にまで、この熱が伝わっているのかもしれない。
そう考えると、平穏を取り戻しつつあった気持ちがまた少し、ざわめきを見せ始める。
「優姫が倒れているのを見た時は、心臓が凍りつくかと思ったよ。症状からすぐに風邪だと分かったけど、優姫が落ち着きを取り戻すまでは気が気じゃなかった」
「…………」
「ただの風邪であったとしても、優姫が辛そうにしているのは僕にとっても辛いから。優姫を部屋に運びこんだ時も、着替えさせた時も、余計なことを考えている余裕はなかった。……本当だよ?」
「…………」
「……やっぱり、まだ怒ってる?」
彼の独白を聞きながらも、私は何も口にしなかった。否、口にできなかった。
初めから怒ってなどいなかったし、万一怒りたくなったとしても、もう怒れはしない。
玖蘭枢という人物は穏やかだけど堂々とした人で、ムキになって何かに反論したり、言い訳をるすようなタイプではない。
どんな識者をも静かに論破してみせる。そんな凄い人で。
それなのにその彼が今、私みたいな小娘相手にいつになく弱腰で、明らかに困っているのが分かる。
しかも普段から何もかも見通しているかのような彼が、こんなかわいらしい勘違いをしたままで。
なんだか可笑しかった。
そして、いつも隙を見せない彼が私の知らなかった一面を晒してくれたみたいに思えて、嬉しくて。
いつの間にか私の口元は綻んでいた。
「枢センパイはずるいです」
「ずるい?」
「……私が枢センパイを怒れるはずがないじゃないですか」
たとえ天地がひっくり返ったってありえない。
そんなこと、知ってるくせに。
「……もう怒ってないの?」
「怒るも何も、初めから怒ってません」
「顔を上げてもくれないのに?」
それは今もまだ少しだけ恥ずかしいから。
彼自身もそのことに、そして、私が怒っていないことにも、もう気がついている。
私が困っている様子を楽しんでいるかのように思えるのは、きっと勘違いではないはずだ。
「そんなことよりも、うつっちゃいますよ、風邪」
だから離れてください。
言外にそう言ったつもりなのに、反対に、回された腕にさらに力が込められ……ますます困ってしまう。
そのくせ、今もこの温もりが離れていかないことを喜んでいる現金な私がいる。
「いいよ。風邪は人にうつすと治ると言うから」
「なおさら離れてください!」
彼に迷惑をかけた上に風邪をうつしてしまうなんて、そんなこと。
焦って後ろを振り向くと、悪戯っぽく笑う彼の笑顔が待ち構えていた。
「やっと顔を上げてくれたね」
「そっ、そんなこと言ってる場合じゃなくて、」
「今日は色々と申し訳ないことをしてしまったから、お詫びをしたいし」
「でも本当に風邪がうつっちゃったら、」
「だからそれこそ望むところだよ。優姫から貰えるものなら、風邪だろうと何だろうと僕は喜んでそれをいただくよ」
それにその時は優姫に看病をお願いするから。
そう囁かれ、それ以上反論することは諦めるしかなかった。
どう言ったところでしばらくは放してくれそうにないし、それに吸血鬼は人間以上に病気に対する耐性があるらしいから、実際には彼に風邪がうつることはおそらくないだろう。
でも。
やっぱり枢センパイはずるいと思う。
私が彼に逆らえないことを知っているくせに。
私がこの優しい腕を振りほどきたくないと思っていることを知っているくせに。
いつだって、いとも簡単に私を丸め込んでしまう。
だけど、そんなずるさを何より嬉しく思っている私のほうが、きっと、もっとずるいのだろう。
だってこの腕は、手放してしまうにはあまりにも温かすぎるから。
それは私にとってかけがえのないものだから。
彼もまた、私と同じことを考えてくれているのだといい。
そんなことを考えるのは不遜かもしれないけれど、今はそれを風邪のせいにして、もうしばらくはこうして彼に包まれていたい。
あと少し。
もう少しだけ、この温もりの中で―――。
(2005/11/16)