(Pierce+)Alice+Blood (Alice in Clover)


「ほらほら帰った帰った!」

 若い警備員に押し出されるようにして、アリスはその店から追い出された。ピアスに至っては、汚いものに触れているかのような仕草で襟首を摘まれて、店から文字通り放り出された。
 二人の扱いに多少の差異が見られたのは男女の違いなのか、他に理由があるのか、それは当の警備員にしか分からない。
 どちらにしても二人して店から追い出されたことに変わりなく、ピアスよりは多少紳士的に扱ってもらったからといって感謝できようはずもない。アリスは、目の前でゆっくり閉ざされていく重厚な扉を、しばし呆然と見つめていた。
 何がなんだか分からないまま、納得のいく説明ももらえないままの、あれよあれよという間の出来事だった。分かっているのは、ここがクローバーの国有数の高級ブランドショップで、その客であるはずの自分たちが買い物中に突然、不当に追い出されてしまったということだけ。
 一仕事を終えた警備員はすでに定位置に戻り、何事もなかったかのような澄まし顔で再び店の入り口を守っている。今自分が外に放り出したばかりのいたいけな子どもたちのことなど、もはや眼中にないらしい。現に今も、アリスの抗議の視線も視界にすら入っていないといった風情だ。
 とはいえ、アリスたちが彼を横切って再び店内に戻ろうとしたり、この場で騒ぎ立てようものなら、今度は先刻以上に強硬な手段で二人を排除するだろうことは間違いない。
 ここがアリスの元いた世界ならアリスは警備員に詰め寄っていたかもしれないが、ここは銃弾飛び交う緑の国。物騒なだけでなく、驚くほどに命の価値が軽い世界だ。下手に揉め事を起こせば、アリスの命など一瞬で塵と消えてしまう。
 腹立たしくても、納得がいかなくても、命をかけてまであの門を突破しようという気概はアリスにはない。あの警備員にかけあったところで無駄だろうことも分かっていた。アリスたちを追い出した実行犯は彼でも、それを命じたのは今は閉ざされた扉の奥にいる、この店の店長とおぼしき女性なのだから。
 泣き寝入りなんて悔しいが、現実的にお手上げなのだから仕方がない。
 苛立ちと諦めの入り混じった複雑な溜息がアリスの口から零れたのと同時に、横から情けない呻き声が。アリスはそこでようやく我に返った。あまりのなりゆきに、すっかり存在を忘れてしまっていた連れのもとに慌てて駆け寄る。

「ピアス!」
「ううう……、痛い……」
「大丈夫?」

 アリスは地面に膝をつき、いまだ座り込んだままの可哀想なネズミを心配そうに覗き込む。どうやらピアスは体を強く地面に打ち付けてしまったらしい。つぶらな瞳には、涙がじんわりと滲んでいた。

「お尻がずきずきするよ〜」

 と言われても、場所が場所なだけに患部をさすってやることもできないし、遠巻きにこちらの様子を窺っている通行人たちの好奇の視線も気になる。アリスはピアスに立てるかどうかを確認した後、彼の手を引いてその場から立ち上がらせ、ひとまずその店の向かいの通りにあるベンチへと移動した。

「アリスは怪我してない?」
「私は大丈夫よ、ありがとう」

 淑女たる者やはり男の尻をさすってやることはできないので頭をよしよしと撫でてやると、ピアスは痛みを堪えて健気に微笑んでみせる。こんな状況なのにアリスを気遣ってくるピアスの優しさが染み込むと同時に、アリスの中に改めてふつふつと怒りが湧き起こっていた。
 なぜ自分たちがこのような扱いを受けねばならないのか。セレブ御用達の高級店だかなんだか知らないが、これはない。アリスとピアスはただ普通に買い物を楽しんでいただけなのに。

『ねえアリス。俺、トカゲさんやエリーちゃんが会合の時に着てるようなロングコートが欲しいんだ』

 元々は、ピアスのその一言が事の発端だった。
 ピアスは華奢で背も低く、男性ながら見た目は女の子のように愛くるしい。トカゲさんことグレイやエリーちゃんことエリオットが着用しているシックなロングコートは、彼らのように長身で精悍な大人の男性にこそ似合うもの。体型的にもイメージ的にも、ピアスに着こなせるものではない。
 絶対似合わないから諦めなさいとアリスはズバリと忠告したが、「あのオモチャが欲しいよ〜。買って買って、買ってくれなきゃやだ〜!」と駄々をこねて親を困らせる子どものごとく、ピアスは聞く耳を持たなかった。そもそもサイズが合わないだろうとアリスが言い含めようとすれば、自分で丈を直すとまで言い出す始末。
 結局後でがっかりすることになるのに……と思う気持ちは強かったが、自分と正反対のタイプの同性に憧れたり、その真似をしたくなる心境はアリスにも分からないではなかった。アリスだって、ビバルディのきりりとしたスーツ姿に憧れを抱き、自分もああいうスーツが欲しいと思ったのは、つい先日のことだ。
 自分に似合わないと分かっているからこそ、焦がれる。子どもっぽいという自覚があるからこそ、背伸びをしてみたくなる。ピアスも、そういう心境なのだろう。
 とりあえずピアスの気が済むようにさせてやろうと、アリスは会合期間中の自由時間を利用して、グレイがコートを購入したという高級店にピアスとともに出向いたというわけだ。
 伝統と格式を感じさせる豪奢な店構え、取り扱われている商品の種類、品質、価格、客層のあらゆる点を考えても、たしかにそこはアリスやピアスのような一般階級の若者が気軽に出入りできるような店ではなかったが、だからこそ二人は会合時の正装で店を訪れ、普段以上にマナーに気を使い買い物に臨んだ。
 アリスはもともと富裕層の家の出で、見た目、立ち居振る舞いともに育ちの良さが窺えるし、ピアスもおとなしくしていれば品の良いお坊ちゃんに見えなくもない。身なりを相応に整えた二人は、貧乏人のひやかしと判断されることはなかったはずだ。
 実際、最初は件の警備員のいる扉も問題なく通過できたし、商品を静かに物色している間も誰からも咎められたりしなかった。事前によく言い聞かせたおかげかピアスも行儀良くコート選びに専念し、さて会計を済ませて帰ろうかというところで事件が起きた。

『失礼ですが、店をお間違えではないでしょうか。当店では、お客様方に見合うような品は取り扱っておりませんのよ?』

 嘲笑を滲ませて赤いルージュに彩られた唇が吊り上がった様を、アリスはこの先も決して忘れることはないだろう。侮蔑の色合いを滲ませてアリスたちを見下ろしていた、あの瞳も、同様に。

「やっぱり俺がネズミだからなのかなあ……。俺、きれいなネズミなのに。汚くないのに」

 しょんぼりと獣耳がうなだれる様は、野の花が萎れる様に似ている。だからこそ、アリスにはピアスがより痛々しく見えた。
 この世界でネズミが好かれていないことは、余所者のアリスとて承知している。アリスたちが不当な扱いを受けた原因は、もしかしたら別のところにあったのかもしれないが、ネズミに対する差別意識からの可能性はやはり高いだろう。この場でそれを肯定するつもりはアリスにはないけれど。
 ネズミ耳以外の獣耳を生やした客は他にいたから、少なくとも動物全般がNGだったわけではないはずだ。
 だけど、とアリスは思う。
 『ネズミはお断り』なら、あらかじめそう謳っておけばいいのだ。看板にでも、でかでかと。
 それはそれで納得がいかないし、今と同じ程度にはアリスは憤慨しただろう。けれどこの店はくだらない差別意識に凝り固まった最低の店なのだと、最初の段階で見切りをつけることができた。
 一度入店を許したのなら、どんな相手だろうと最後まで相手を客としてもてなすべきだ。他にも客がいる中、わざわざアリスたちに恥をかかせるように応対したのは、どう考えても悪意からだと言わざるを得ない。一流の店の一流の店員ならそれに相応しいマナーや対処法を熟知しており、客と認めなかった客を店から追い出すにしても、もっとスマートなやり様があったはずなのだから。

「コートは他の店で買いましょう。こんな最低な店の売り上げに貢献してやることなんかないわ」
「でも俺、あのコートがいいんだ。一点ものだから、あの店じゃないと買えないよ」
「店の人に追い出されたんだから買えないわよ」
「でも、あれじゃなきゃ嫌だ……」
「だから無理だって言ってるでしょ。男らしく、すぱっと諦めなさい」
「でもぉ〜……」

 アリスがぴしゃりと言っても、ピアスは未練たらたらな様子で、尚もぐずぐずと言い募ろうとする。本来であればアリス以上に怒っていいはずのピアスは、怒るでもなく解決策を見出すでもなくただあのコートが欲しい、どうしようと言い続けるばかりで、行き場のない怒りを燻らせているアリスをさらに苛立たせていることに気づきもしない。
 一気に疲れが押し寄せたアリスは、半ば投げやりに吐き捨てた。

「だったら、あの警備員に直接交渉してきなさいよ。あんた現役バリバリ本職のマフィアなんだし、凄んでごり押しすれば?」
「うえーん、そんなの無理だよ。怖いよ、撃たれちゃうよ!」

 気弱なマフィアがついに泣き出しても、アリスはげんなりとそれを見守るしかなかった。

「どうしろって言うのよ……」

 どうしようもない。
 泣きたいのは、むしろアリスのほうだった。
 あの店に戻れない以上、他の店で代替品を探すか諦めるしかないのに、肝心のピアスはこのザマで、ピアスの希望を叶えてやりたくても打つ手が何も思い浮かばない。
 おまけに、ベンチに並んで腰掛けている若い男女の片方、しかも男のほうがぴーぴーと泣いているものだから、道行く人たちの注目を浴びてしまっている。ちらちらと向けられる視線の居心地の悪さといったらない。
 これは絶対、アリスがピアスを泣かせたと誤解されている。アリスには、一割程度は自分のせいかもしれないという自覚はあったけれど、残る九割は濡れ衣なのに。
 ひそひそと、あるいはくすくすと漏れ聞こえてくる雑音にうんざりしながら、アリスはピアスにハンカチを差し出した。
 ――と、その時。

「こんなところで何をしている」

 アリスとピアスの頭上から、不機嫌そうな声が落とされた。

「ボス」
「ブラッド」

 同じタイミングでその人を見上げたピアスとアリスの声が重なる。
 赤い薔薇をあしらったトランプマークつきの帽子をかぶり、やはりトランプマークつきの黒スーツに身を包んだ胡散臭い人物は、彼らの上司に当たる男だった。
 ピアスが属するマフィア組織の長であり、アリスをメイド見習いとして雇っているご主人様は、けだるそうに腕組みをしながら冷たい視線でアリスたちを見下ろしている。
 やはり、あまり機嫌がよろしくないらしいとアリスは確信した。それは他の者にも伝わったのだろう。この付近にいた者たちは一斉に、蜘蛛の子を散らすように足早にその場から立ち去っていく。
 不機嫌な様子を隠そうとしないマフィアのボスなど、いつ爆発するか分からない爆弾と同じ。できるものならアリスも避難したかったが、それは叶わない。ひとまずは、うざったい人の目がなくなったことに感謝することにした。

「こんなところで何をしてるの? 今は昼間なのに」
「先に質問しているのは私だよ、お嬢さん」

 にこりともせずに返される。

「ここでピアスと何をしていた」

 低い声でもう一度質問を繰り返されると、なぜか責められているような気にさせられる。もしかしたら、実際に責められているのだろうか。もしもブラッドが、ピアスを泣かせたのがアリスだと勘違いしているのだとしたら――。アリスはそう考えた。

「ちょっと待ってブラッド。ピアスを泣かせたのは私じゃないわよ? 誤解しないで。ここへはピアスと買い物に来ただけで」
「ピアスと買い物……?」

 ぴくりとブラッドの眉が動いた。心なしか、空気が冷えたような気がした。

「ピアスが泣こうが喚こうが猫に食われようがどうでもいいが、ただ買い物に来ただけで泣く男はいまい。ここに来るまでの道中、可愛らしいカップルが痴話喧嘩をしていたと噂している奴らとすれ違ったんだが、まさかそれが君とピアスのことだとは思いもしなかったよ」
「いや、そのカップルとやらは私たちのことかもしれないけど、痴話喧嘩なんかしてないし、ただの喧嘩もしてないわ」
「そうだよボス。だって俺たち、すっごくすっごく仲良しだもん。喧嘩なんかしないよ!」

 ぴくりと再びブラッドの眉が動く。
 部下同士、喧嘩もせず円満な関係を築いているというのは上司としては喜ぶべきところだろうに、アリスたちが説明を続ければ続けるほど、なぜかブラッドはアリスが予想しているのと真逆の反応を示し続けていく。

「あのね、俺が泣いてたのはね、」
「転んじゃったのよ、ピアスが。で、その時、強くお尻を打ち付けたらしくて、痛いよーって泣き出しちゃったの」

 ピアスがブラッドに説明しようとしたのを、すかさずアリスが遮った。きょとんとして、ピアスがアリスを見やる。

「え? 俺、転んで泣いたの? そうなの?」
「そうよ。転んだからお尻が痛いんでしょう? お尻、打ったんでしょう? それともお尻が痛いって言ってたのは嘘だったの?」
「嘘なんかじゃないよ! 俺は正直者のネズミだよ。今だって、まだお尻が痛いもんね」
「そうでしょう?」
「うん、そうだよ!」

 アリスに誘導されるまま、ピアスはあっさり納得したようだ。アリスは心の中で、安堵の息を吐いていた。ピアスの単純さ、もとい素直さにこれほど感謝したことは今までにない。
 アリスが半ば無理やり話をまとめ、有耶無耶にしたのは、ピアスが泣き出すに至るまでの一連の出来事をブラッドに知られたくなかったからに他ならない。
 店の者に馬鹿にされた挙句店から放り出されたなんて、格好悪すぎて言えない。それに、部下の恥は上司の恥でもあるから、ブラッドにまで恥ずかしい思いをさせたくないという思いもあった。

「それでブラッドこそ、ここで何をしているの?」

 この話題はここまでという意味を込めての、かなりわざとらしい話題転換だったが、しばらくアリスを凝視していたブラッドはやがて小さな溜息をつき、アリスを探しにきたのだと伝えた。どうやらブラッドはアリスの思惑に乗せられてやることにしたらしい。ブラッドが軽く肩をすくめると同時に、それまで彼を包み込んでいた鋭いオーラが途端に霧散し、アリスを安堵させた。

「会合期間中は一応の平和協定があるとはいえ、小競り合いも多い。一人で出かけるのは控えるように言ってあっただろう」
「だから一人では出かけてないわ。今回はピアスがいるもの」
「いざという時、ピアスが役に立つとは思えないが?」

 ――御名答。
 アリスは心の中で頷いていた。さすが慧眼で名高いボスだ、自分の部下のことをよく把握していらっしゃる、と偽りない賛辞をおくりながら。
 辛辣で酷いことを言っている自覚はあるが、ピアスはマフィアだとは思えないほど臆病で、双子やエリオットたちによれば『逃げ足は誰よりも速いが、戦闘能力はからきし』だという。ブラッドの言うところの『いざという時』には、非戦闘員であるアリスと同様に、たいして役に立たないだろう。
 実際に今日のトラブル発生時にも役に立たなかった。それはアリスも同様なので、アリスにはピアスを責める権利も責めるつもりもないけれど、ピアスがいざという時に頼りになるキャラでないことは動かしがたい事実だ。

「私を心配してくれるのは有難いけど、ブラッドこそ、一人で出歩くなんて危ないわよ」
「私を誰だと思っている?」
「帽子屋ブラッド=デュプレ。悪名高い帽子屋ファミリーのボスで、我侭で、面倒くさがりで、マイペースで、人の嫌がることを嬉々としてしたがるいじめっこ気質で、それゆえに各方面から命を狙われている厄介な人」
「……私は一応君の上司なんだ。少しは耳に心地好いことも言ってくれないかな、お嬢さん」
「んー、そうね。じゃあ、へんてこな格好をしていても、己の顔と物腰と地位と財力によって全てをほぼカバーできる人……っていうのは……どう……かしら…………」

 そこでなぜかアリスは神妙な顔をして黙り込んでしまった。微妙な褒め言葉を送られたブラッドも微妙な顔で押し黙り、二人の会話を興味津々の様子で見守っているだけだったピアスは急に黙り込んでしまった彼らの顔をきょろきょろと見比べながら、やはり彼らに倣って口をつぐんでいる。

「ブラッド」

 微妙な沈黙を破ったのは、アリスだった。

「お願いがあるの」




next





inserted by FC2 system