自分が店から叩き出した客が目の前を悠々と通過していくのを見送る。しかも今度は恭しくこうべを垂れながら――というのは、どんな気分だろう。
この日二度目の門をくぐりながら、そんなことがふと頭をよぎったが、愚問だったとアリスはすぐにその考えを打ち消した。考えるまでもない。通り過ぎざまにちらりと見た警備員の様子が全てを物語っている。
名高い店の警備員ならば並み以上の度胸と腕を兼ね備え、相応の場数も踏んでいるはず。けれど優秀なはずの彼は今、動揺し完全に顔色を失っていた。
アリスたちが通り過ぎても一向に頭を上げる気配がないのは、礼を尽くしているのではなくアリスとその連れを直視できないだけで、少し前にアリスとピアスを手酷く追い出したことを彼は今、切実に後悔している。
アリスには手に取るように彼の心理が分かったけれど、これっぽっちも胸はすかない。それどころか、売り場であるフロアへと続く廊下を進む足取りは重くなる一方だった。
「浮かない顔だな、お嬢さん」
アリスと並んで歩いていた男が物憂げに口を開いた。心の中でこっそり溜息をつこうとしていたのを見計らったかのようなタイミングにアリスは思わず押し黙ってしまう。
たった一拍にせよ間を置いてしまったのは、彼の言葉を肯定したも同然。だからアリスは言い繕うことはせず、隠すこともせず、今しがた心の中で吐き損ねた溜息を男の前で素直に零すことにした。
「ブラッドこそ、つまらなそうだわ」
「だろうな。事実、つまらないのだからね」
しれっと言ってのける男の瞳は醒めている。苛立ちこそ感じられないものの、普段以上にやる気のなさそうな態度を隠そうともしない。
「どうして私がピアスの買い物を代行してやらねばならないんだ……」
「だから、さっきも説明して謝ったじゃない。……このお店は私とピアスには敷居が高すぎて入りづらいんだって」
「ピアスはともかく君は、そんなことで気後れするタイプには見えないが?」
ちらりと意味ありげによこされた視線で確信する。おそらくブラッドはおおよその事情を察しているのだろう、と。
ブラッドはおそろしく察しの良い男だ。アリスがブラッドに願い出たのは「子どもだけで高級店に入るのは緊張するから、ピアスの買い物に付き合ってほしい」という簡潔なものだったが、自分の買い物にもかかわらず店に入るのを渋って外で待っていると言い張ったピアスと、それを咎めなかったアリスと、件の警備員の反応から、彼らに何が起こったかをある程度推測することは難しくないだろう。
「ピアスはあなたのファミリーの一員でしょ? 可愛い部下のために一肌脱いであげてよ」
ブラッドの視線を軽くそらしながら、答えになっていない答えを返す。
ブラッドはこの期に及んでなお真実を隠そうとするアリスに思うところがあったようだが、それ以上触れてくれるなというアリスの意を汲んだのか、やれやれと言いたげな吐息を零すのみに留まった。
「まあいい。ものがピアスのコートというのは気に食わないが、君におねだりされるのは悪くない」
「そこは『おねだり』じゃなく『頼み事』と言ってもらいたいところなんだけど」
「可愛い君のためなら一肌と言わず全部脱いであげよう。もっとも私としては、君が脱いでくれたほうが百倍楽しいがね」
「……感謝したことを後悔したくなるから、セクハラ発言はそのへんにしてもらえませんか、ボス」
げんなりと肩を落としたアリスに、ブラッドはふふ、と楽しげに笑う。
「それにしてもアリス、上司を使い走りにしようなんて、君はたいしたメイドだな」
「それに関しては、もっともすぎて返す言葉がないわ。始末書提出でも減給でも、おとなしく罰は受けさせてもらいます」
「罰を与えるくらいなら最初から断っているさ。君が生真面目なのは知っているが、君と私の仲でそこまで堅苦しく考えられるとこっちが落ち込むな」
「メイド見習いと雇用主の仲でこんな頼み事、本来なら許されることじゃないもの」
「メイド見習いだろうが女王だろうが、そこは関係ないよ、お嬢さん。この私を顎で使えるのは君くらいのものだ」
咎めているような内容のはずなのに、逆にブラッドはひどく嬉しそうに見える。さっきまでの仏頂面はどこへやら。心底気まぐれな男だとアリスは改めて実感した。
他人に命令することが当然で他人から何かを命じられることのない男にとって、これは珍しい状況で、ちょっとした退屈しのぎでもあるのだろう。
けれど、それだけではないこともアリスには分かっていた。
ブラッドは自らの懐に入れた人間には甘い。そして、その懐に入ることを許された者はごく限られている。
最初は明らかに乗り気でなかったくせに、なんだかんだ言いながらも我侭を聞き入れてくれたことがアリスの密やかな喜びとなっているのを、ブラッドは知らない。
■□■
その瞬間、どよめきが起こり、ざわざわと場が震えた。
高級感漂うフロアに足を踏み入れたブラッドとアリスにフロア中の視線が集中し、店員も客も、そこにいた者全てが固まった。ひとときのこととはいえ、狭い空間は水を打ったように静まり返る。
これはアリスにとって期待していた展開ではなかったが、予想していた通りの展開ではあった。
ここまで奇抜な帽子を恥ずかしげもなく被りこなせるのは、世界広しといえどただ一人しかおらず、この世界に住まう者で彼の名と職業を知らない者はいないと言っても過言ではない。
だから店にいた者たちが世界屈指の危険人物の突然の登場に驚いたとして不思議はないが、彼らがそのことだけに驚いたわけではないということをアリスは正しく理解していた。
実のところ、上流階級が客層となっている高級店では、その筋の大物が上得意であることは珍しくない。三下は問題外として、裏社会の大物というものは本質がどうあれ表面上はえてして紳士淑女を気取るもので、怒らせでもしない限りは概ね安全だ。しかも金回りが良い上、面子にこだわって金の出し惜しみをしないとくれば、店側としてもみすみすこれを逃す手はない。
つまり、その手の人物じきじきの来店は、そうそう頻繁でなくてもありうるもの。そして、一流を自負している店の従業員や常連客たちは悠然たる態度を美徳とし、動揺を外に表すことを嫌う。
では、そんなはずの彼らが何をそこまで驚いたのか。
答えは簡単。
彼らは、さっき店から追い出された少女が狂人の二つ名を持つマフィアのドンを伴って戻ってきたことに驚いたのだ。アリスが帽子屋に連なる者だったことに目を瞠り、まさか報復に来たのだろうかと自分たちが巻き込まれる可能性に固唾を呑んでいる。
(心配しなくても、そんなつもりでブラッドについてきてもらったんじゃないわよ)
憮然としてアリスは思ったが、同時に分かってもいた、彼らの反応はもっともだと。そして、自分が用いた手段は禁じ手だと。
ブラッドを使って店に報復するつもりなどない。脅したいわけでもない。あんな形で店から追い出されたことに怒りが治まっていなくても、これはあくまでもアリスの揉め事であり、誰かに仇を討ってもらいたいなんてこれっぽっちも思わない。
アリスはただピアスのために、ここでしか買えないコートを買うというミッションを完遂したいだけ。そのためには店側が無碍に扱えない人物を同伴する必要があっただけのこと。
(だけど結果的には虎の威を借る狐なのよね……)
報復目的でなくてもブラッドを伴っている以上、ブラッドの権力を笠に着ていることに変わりはないという自覚がある。だからこそ、店の門をくぐってから今に至るまで、アリスの心はどんよりとしたままだった。
「そう落ち込むことはないよ、お嬢さん。君の主義に反するかもしれないが、利用できるものを利用して悪いことはない」
むしろ利用できるものがありながら利用しようとしないのは愚の骨頂だと、隣にいるアリスにだけ聴こえる声で囁かれた言葉。
知らず俯き加減になってしまっていたアリスは驚いて顔を上げた。
「君が、利用できるものをうまく活用できない無能者でなくて嬉しいよ」
ずいぶんとひねくれた物言いだが、ブラッドと同じひねくれ者であり現在進行形でうしろめたさ一杯のアリスには、どんなに慎重に選ばれたフォローの言葉よりよほどストレートに胸に染み込んで来る。
その後に、「おおかた、ネズミに売るものなどないとでも言われたんだろう?」とズバリと切り込まれては、もはや事実に口をつぐむ必要もない。
確信に近い予想はしていたが、ブラッドには本当に何から何までお見通しだったらしい。
少し気が軽くなったアリスは苦笑するしかなかった。
「念のために言っておくけど、代わりに仕返ししてもらいたいなんて思ってないわよ? ただ穏便に買い物を済ませたいだけなの」
だから物騒なことは考えないでねと言外に念を押されたブラッドは、分かっているよと肩をすくめながらも言葉とは裏腹にどこか不満げな様子を見せている。
「君はプライドが高いからな……。だが私としては、仕返しをねだられたほうが嬉しいんだがね」
「本当にやめてよ? 物騒な展開は御免だし、こんな子どもの喧嘩みたいなことに首を突っ込んだらあなたの名前にも傷がついちゃう」
おや、と意外そうにブラッドの眉が上がった。
「私の名誉を気にかけてくれているのか?」
「そりゃまあ、一応大切な上司ですから」
「私にとって大切なお嬢さんの名誉だって重要だぞ?」
「ありがとう。その気持ちだけもらっておくわ」
「君はプライドが高いだけじゃなく頑固だからなぁ……」
アリスとブラッドのひそひそとした会話の中、ブラッドがつまらなそうに零した溜息がやけに大きく空気を震わせ、二人の出方を少し離れた場所から固唾を呑んで見守っていた者たちの顔からさらに血の気が失せていく。彼らはブラッドの溜息の意味を恐ろしいものと読み違えていた。
そんな中、その溜息によっていち早く我に返ったのは、アリスとピアスを追い出した張本人である女性店員だった。
アリスがどんなつもりでブラッドを連れてきたのか内心生きた心地がしないだろうに、ただ一人、極上の営業スマイルで新たなる客を迎えに出た彼女の勇気は見事の一言に尽きた。
さすがはプロフェッショナル。ブラッドに対してだけでなく、ついさっき慇懃無礼に店から追い出したアリスに対しても、にこにこと笑顔を崩さない。自分がした仕打ちなどすでに忘却の彼方だと言わんばかりの態度に、アリスは呆れるより感心したほどだ。
――もっとも、彼女がアリスに意識を向けたのは申し訳程度で、あとはひたすらブラッドにのみ応対するモードに突入してしまったのだが。
「これはこれはデュプレ様、ようこそおいでくださいました。本日はどのようなものをお探しでしょう」
店長だと名乗った彼女の微笑みは、ルージュの色も相まって、さながら赤い薔薇のようにあでやかだった。
年の頃はおそらくブラッドと同じ程度。落ち着いた雰囲気に、きりりとした知的な美貌。しなやかな肢体に豊かな胸元がなまめかしい。
大人の魅力たっぷりの、なかなかの美女だ。そういえばビバルディと少しタイプが似ているかもしれないとアリスは思った。
だが。
(……ん?)
大人っぽいはずの彼女は今、アリスの目にはそれほど大人っぽく映っていない。なぜかと言えば、ブラッドに向けられた彼女の眼差しがやけに熱っぽく潤んでいるように見えるせいだ。大人っぽいというより、ひたむきな視線とでも言ったほうがしっくりくる。
(心なしか、頬も薔薇色になっているような)
そういった目で観察してみれば、彼女の微笑みは営業スマイルとは別のものに見えてくる。
(……この人、もしかして)
もしかしなくても、アリスの想像通りなのだろう。
けれど、あんな経緯さえなければアリスも見惚れていたかもしれない極上の笑顔を向けられても、肝心のブラッドの反応は実に素っ気無いものだった。
「けっこうだ。かまわないでくれ」
ひやりとした声がフロアに響く。
固唾を呑んで状況を見守っていた者たちは、さしあたりマフィアのボスに報復の意志がないらしいことに一斉に胸をなでおろしたに違いないが、彼女だけはそういう心境でないだろうことをアリスは見抜いていた。
すげなく自分を素通りして行ったブラッドを名残惜しげに追う彼女の瞳といったら――。
(蕩けそうだわ)
アリスは、さっき彼女のことをプロフェッショナルだと感心したことを早くも取り消したい気分になった。目は口ほどにものを言う。彼女の目はブラッドに対する想いが駄々漏れている。
『つれなくされて悲しい』ではなく『クールなところもス・テ・キ』とか思っていそうだとアリスは冷静に判じていた。
しかし当のブラッドが彼女に毛ほどの興味も示さない以上、そしてアリスの目的が買い物である以上、彼女の恋心などアリスにはこの際どうでもいい。
どれだ、とブラッドに促されたことで気を取り直し、アリスは件のコートのもとへブラッドを案内することにした。……その際、すれ違いざまに彼女が唇を噛み締めるようにしてアリスを見ていたことには気づかないフリをすることにして。
明らかに棘のある視線を背中に感じながらも、なるべく気にしないようにしてアリスはブラッドと肩を並べて歩く。その最中、アリスの脳裏にある一つの疑念が浮かび上がっていた。
(まさかとは思うけど、違うと思いたいけど、もしかしてそういうことなのかしら)
そして、考え事に没頭していたせいで毛の長い絨毯に足を取られ、思わずバランスを失ったアリスの体を抱きしめるようにしてブラッドが支えた時、射殺すような鋭い視線がアリスの全身を貫き、そしてアリスは確信を得た――自分の疑念こそが真実なのだろうと。
「大丈夫かな、お嬢さん。気をつけなさい」
「ごめんなさい。ありがとう、ブラッド」
アリスがそっとブラッドから離れると、殺気染みた気配が分かりやすく霧散する。
あからさまな悪感情を抱かれるのは恐ろしいことのはずなのに、肌を刺すような敵意を向けられてもアリスはちっとも恐怖を感じていなかった。
むしろ馬鹿馬鹿しくて体から力が抜けていく。
(ごめん、ピアス)
アリスは心の中で、外で一人寂しく自分たちを待っているであろう連れに詫びた。
(店を追い出されたのは、私のせいだ)
ブラッドとアリスは上司部下の関係に過ぎず、恋人同士ではない。たまにブラッドが色を滲ませてアリスにちょっかいをかけてくることがあっても、二人は清い間柄だ。
けれど、もともとがブラッドの賓客であり、今では親しい友人であり家族のようなものでもあるアリスの立ち位置は、ただの部下だと言いがたいものがある。
帽子屋ファミリーの幹部たちと連れ立って領土外でピクニックやバーベキューに興じることもあれば、ブラッドと二人きりで街を散策することも珍しくない。
その際アリスは道行くブラッドに熱視線を送り続けるご婦人たちの姿を幾度となく目の当たりにしてきたし、それと同時に、「あの子、帽子屋さんの何?」だとか「あんな小娘、ブラッド様には似合わない」と陰口を叩かれたことも一度や二度ではない。
文句なしにもてるブラッドとどこを取っても平凡な小娘にすぎないアリスは釣り合っていないから、ブラッドとアリスを即恋人同士だと勘違いする者は少ないかもしれないが、アリスがブラッドに特別扱いされていることだけは誰の目にも明らかだった。
なにせ、マフィアのボスの後ろではなく隣りを歩くことを許され、マフィアのボスがわざわざ歩調を合わせてやるのは、アリスただ一人。マフィアのボスの名を気安く呼び捨てにし、それを誰からも咎められないのも、彼の相棒以外にはアリスだけ。
アリスがブラッドの恋人であろうがなかろうが、ブラッドに想いを寄せる女性からしてみれば、アリスは目の上のたんこぶでしかない。それも、相当大きなたんこぶだろう。
引越し後の地形が不安定な時期の一人歩きは危ないからという理由で最近のアリスはブラッドと行動を共にすることが多かったから、かの女店長がブラッドのお気に入りであるアリスの存在を以前から知っていた可能性は十分考えられる。
もちろん彼女本人に問い質したわけじゃないからネズミが入店拒否の対象だったという可能性も捨てきれないが、よくよく思い返してみれば、アリスとピアスが店から追い出された時も、彼女はアリスだけを見ていたような気がする。彼女の悪意は最初からアリス一人に的が絞られていたのだろう。
つまり、今回とばっちりを受けたのはアリスではなくピアスのほうだった可能性が高い。
(くだらない……)
あまりに馬鹿馬鹿しすぎて、立ちくらみすら覚えてしまいそうだ。
アリスを一方的に目の敵にし、私情を挟みまくって善良な客を店から追い出した店長は、広い心で見れば可愛いやきもちを焼いただけと言えるのかもしれないが、明らかにプロ失格。あまりに子どもじみている。
こんなくだらないことでピアスは涙し、アリスは上げなくていい血圧を上げたのかと思うと、情けなくてアリスまで涙を零してしまいそうだ。かといって、馬鹿馬鹿しすぎて彼女に対して怒る気も失せてしまう。
(もういい。さっさと会計を済ませて帰ろう……)
重度の精神疲労にぐったりしながら目的のコートに手を伸ばしたアリスの耳元に、「なあアリス」というブラッドの囁きが落とされ、アリスは目を上げた。
「あの女に意地悪されたんだろう?」
はたから見れば秘め事を囁いているかのような妖しげな雰囲気なのに、ブラッドの声音がやけに楽しそうだとか、『意地悪された』なんてマフィアが使う言葉としてはどうなの? とか、突っ込みたいことは色々。
実際に、ブラッドはひどく楽しそうな笑みを浮かべている。もっとありていに言えば、とても胡散臭い顔をしている。
ブラッドと長い付き合いになるアリスの本能が告げていた――これはよくない兆候だと。ブラッドがこんな顔をしている時は、たいていろくでもないことを企んでいる。
けれど、ブラッドの真意が分からないアリスには、警戒しながらも話を続けるしか道はない。
「他にも店員はたくさんいるのに、どうして彼女だと特定するの?」
「見ていれば分かるさ。店に入ってから君はあの女をずっと意識していただろう? それは、あの女にも言えることだが」
極力彼女と関わりたくないと考えていたアリスには特にそんなつもりはなかったが、ブラッドがそう言うならそうなのだろう。あえて否定はしない。
「ただこのコートを買って、そのまま帰ってしまうのはつまらないと思わないか?」
「ちょっと。私、変なこと考えないでってお願いしたわよね?」
「君を侮辱した輩をこのままにしておくのは、やはり私の気がすまない」
「私はもう気にしてないし、忘れたいの! だから妙なことは考えないでってば!」
焦るアリスの反論など全く耳に入っていない様子で、ブラッドはにやりと口角を上げた。アリスに言わせれば、性格の悪いブラッドに最も似合う、実に悪人らしい笑い方で。
「仕返ししてやろう」