吐息が絡み合い、快楽の声が重なり合い――。
それは激しく濃密な情交だった。
二人分の体温で熱された空気がようやく冷め始め、男の規則正しい寝息が聞こえ始めた頃に、男の横で一糸まとわぬ美しい女がそろりと身を起こした。
肉感的で陶磁器のように白い裸体が惜しげもなくさらされ、闇にひっそりと浮かび上がる。
女がちらりと寝台を一瞥した。
男が目を覚ます気配は見られない。すっかり寝入っているようだった。
あれだけ激しく睦みあったのだから当然か、と真紅に濡れた女の唇が妖しく弧を描く。
女は男の寝顔を眺めながら、「それにしても」と思う。
(眠っている姿は子どものようね)
さっきまで色と欲に溢れた雄の顔で自分を翻弄してくれた男だとは到底思えない、邪気の欠片もない寝姿に少し意外な思いを覚えていた。
ましてや男は冷酷非道で知られ、己の才覚だけでこの国の次位にまで――事実上の最高位にまで上り詰めた鬼才だというのに。
(戦場や政治の世界では隙を見せない男でも、閨ではただの男にすぎないか)
所詮男など、欲望を吐き出した後の反応など皆同じだ。身分など関係なく、快楽の余韻に呑まれ、女の前で無防備な姿をさらけだすだけ。
闇の中、黒曜石を思わせる女の瞳に嘲りの色が浮かんだ。
だがしかし、それほどの男を閨で骨抜きにしたのが自分だと思えば女の自尊心はおおいに満たされる。
気をよくした女は乱れた長い髪をそっとかきあげてから、寝台の下に投げ捨てられた衣の隙間から簪を拾い上げた。
(他愛無い)
醒めた気持ちでそう吐き捨てるけれど、反面、少し勿体無いと思っている自分に気づいて女は自嘲気味に笑う。
今までに多くの男たちと閨を共にしてきた女にとっても、今目の前で無防備に眠っている男ほどの『いい男』に出会ったのは初めての経験だった。
地位や権力的に大物というだけではない。
端正で華のある容姿と、体の芯を刺激するかのような艶のある声。
ごつすぎず、美しく無駄のない筋肉で構成された肉体。
優男の風貌にはそぐわない、歴戦の猛者の証である数々の勇ましい傷跡。
相応の場数を踏んでいる者だけが駆使できる、巧みな話術と恋の駆け引き。
そして男を蕩かす術に長けている女でさえ我を忘れて夢中になってしまったほどの、閨での手練手管。
これが任務でさえなければ妾になってやってもいいと本気で考えてしまうほどの上玉だった。
今だって、あともう一度くらい、まぐわっておけばよかったと名残惜しく思う気持ちがある。
これほどまでの男だと事前に知っていたなら、依頼人を裏切ってこの男についてもよかったと思えるほどに。
しかしそれも、依頼人の一族に面が割れ、多額の前金を受け取ってしまっている今となっては後の祭りでしかない。
(本当に残念だけど……さようなら、色男さん)
女が振り上げた簪の切っ先が闇の中、きらりと光る。
女は躊躇うことなく男の喉元めがけ、特別に研ぎ澄ました簪を振り下ろす―――いつものように、手に馴染んだこの武器で、標的の命を奪うために。
見事男の喉に突き刺さるはずだったそれは、しかし寸でのところで女の手首ごと戒められ、女は息を呑んだ。
「…………ッ!?」
「無粋だなあ……。せっかく人が気持ちよくまどろんでるのに」
女の手首を片手で掴んでいるのは、今まで気持ち良さそうに眠っていたはずの男だった。
女の手首を強い力で拘束したまま、それを微塵も感じさせない寛いだ様子で小さく欠伸をして、男がのそのそと上体を起こす。
女の凶刃を瞬時に防いだのが信じられないほど、ゆったりとした動作だった。
「なぜ……、いつから……」
なぜ分かったのか。
いつから気づいていたのか。
端的に過ぎる女の言葉を男は正確に読み取り、自由の利く手で頭を掻きながら気だるげに答えを返す。
「んー。最初から?」
「最初から?」
状況に合致していない軽い口調とその内容に女が目を瞠る。
最初から事が露見していた可能性は限りなく低いはずだった。
高位の人間に暗殺計画はつきもの。ましてや今回の標的は臣下の最高位である丞相の地位に御座す人物。
丞相の身辺警備も丞相本人の警戒心も並ではない。
ゆえに今回の計画は入念に慎重を期して企てられた。
事前に計画が漏れる可能性をゼロに近くするために、この丞相暗殺計画は依頼人とその親族数名と凶手である女の、計五名にも満たない人間しか関わっていない。
丞相たる男に警戒心を抱かせないために女は孟徳軍お抱えの歌い手として潜入し、宴のたびに美しい容姿と歌声を披露しつつも出過ぎた行動は取らず、時間をかけ、少しずつ標的へと近づいていった。
これまでに世の男たちを虜にしてきた美貌を備えた女に、当初女好きと言われている丞相は女たちの予想に反し、なかなか手を出してこなかった。
若い女相手だろうと新参者相手に警戒しているのかもしれない。
そう考えたから女も依頼人も焦れることなく辛抱強く時を待った―――丞相が女に気を許し、彼の食指が動くその時を。
そして今夜――数日後に開始される荊州侵攻の戦勝祈願に催された宴にて、ようやく女が丞相の寝所に召されたのだ。
女が丞相に初めて芸を披露してから、実に数年が経過してのことだった。
「そんなこと、ありえない」
「嘘じゃないさ。だって最初から君の言葉には何一つ真実がなかったからね」
断言する丞相――曹孟徳の言葉を女は鼻で笑う。
幼い頃からこの道で生きてきた女は男たちの寝首をかくために、あらゆる技術を磨いてきた。
男を誘う仕草を研究し、男を閨で悦ばせる手管を身につけ、美しい肉体が衰えないよう努力もしてきた。
中でも男たちの気を引く話術と演技力には特に自信を持っていた。
これまでに数え切れない嘘をついてきたが、それが途中でばれた経験は皆無。
だから最初から女の嘘を見破っていたと告げた孟徳が癇に障り、またそれが孟徳の強がりだと思えたのだ。
「あなたに私の何が見抜けたとおっしゃるの?」
「挙げたらキリがないよ。全部だから」
「適当なことをおっしゃって誤魔化すおつもり?」
ふふ、とあからさまな嘲笑を受け、孟徳は面倒くさそうに溜息をついた。
「初めて会った時から俺を慕っていたとか、自分は酒が飲めないだとか、次の戦での我が軍の勝利を祈っているとか、故郷に残した弟妹を養うために歌を歌っているとか。君の家族構成は知らないけど、少なくとも君に弟はいても妹はいないだろ? その弟も、もう死んでるし」
「………っ!」
淡々と例を挙げる孟徳に女は得体の知れない戦慄を覚えていた。
他の事柄は適当に予測することもできるが、弟妹についての真偽を孟徳に言い当てられるはずがない。
仮に孟徳が女の素性を事前に探らせていたとしても、どんなに有能な間者がそれを調べていたとしても、その情報を掴むことだけは不可能だった。
なぜなら、生まれてすぐに戦火に巻き込まれ、自分の親や自分の名前さえ知らないまま犯罪に手を染めて日々食いつなぎ、頻繁に名を変え、弟と二人で各地を転々としてきた女の経歴を知る者などいないのだから。
唯一女のことを知る弟も、孟徳が言ったように、とっくにこの世から消えている。
過去のことを誰にも話したことのない女の素性は、誰にも知ることができないはずだ。
それなのに、知りえることができない事実を、たしかに孟徳は知っている。
そしてそれがただの当てずっぽうではないと、なぜだか女は今、肌で分かる。
「最初から本当に全てを見抜いていたのなら、どうして……」
「刺客と分かっていながら閨を共にしたかって?」
孟徳が呆然とした女の手を離すと、力をなくした女の手がだらりと垂れ下がり、簪がカツンと音を立てて床に落ちた。
孟徳は簪を拾い、暗殺用に鋭く加工された切っ先を指で撫でながら小さく笑う。
「ここのところ、頭痛が酷くてさ」
一見何の脈絡のない言葉が飛び出し、女は訳が分からずに眉をひそめた。
「薬を飲んでも全然効果がなくて困ってたんだ」
それが? と言わんばかりの表情をしている女に、だからね、と孟徳は何でもないことのように言う。
「女を抱けば、たとえ一時の快楽だったとしても痛みを紛らわせることができると思ったんだ」
「な……っ!」
「そうしたら都合のいいことに、君がいた」
――だから寝た。
侮辱とも言える孟徳の発言に女が気色ばむ。
男の寝首をかくことを生業にしていても、女にしてみれば自分が娼婦だという感覚はない。報酬のために体を売っているのではなく、報酬を得るための技術の一環として男と同衾しているのだ。
――体を餌にして金を得るしか能のない弱い女たちと自分は違う。
他人が聞けば違いが分からないこだわりでもあっても、それこそが女にとっての矜持だった。
(それなのに、この男は今何と言った?)
この自分を安っぽい娼婦と同列に見ていた。
お手軽な女がたまたま目の前にいたから利用したまで。
(この男は、そう……、言った!)
一瞬にして女の全身が怒りで煮えたぎる。
刹那、女は俊敏な動きで床を蹴り、寝台の横に立てかけられていた孟徳の長剣に手を伸ばそうとする。
しかし。
「ぐぅ……っ!!」
女の手が孟徳の剣を掴むことはなかった。
孟徳の剣に届く直前に女の手のひらには孟徳が放った簪――女が寝所に持ち込むことが唯一可能だった己の武器が深々と突き立てられ、それと同時に寝所に踏み込んできた元譲によって女の体はあっという間に床に全身を押さえつけられるような形で拘束されていたからだ。
「畜生っ!!」
ついさっき閨で孟徳の耳を心地よく楽しませた甘い喘ぎの片鱗もない呻き声に、孟徳は苦笑する。
「俺だけ非難されるのは心外だ。君だって君の都合で俺と寝たがってたろ? だったらお互い様じゃないかな?」
悪びれもせずに微笑み、孟徳は生まれたままの姿で元譲に押さえつけられている女に薄衣をかけてやる。
元譲が部屋の外に合図し、女を引き立てるために二名の衛兵が新たに寝所に足を踏み入れてきた。
衛兵たちが女を立ち上がらせ両手に枷をつけている様子を横目で見やりながら、ぽつりと孟徳が呟く。
「若い女が捕らえられている姿を見てると、命を狙われていた俺のほうが悪人に見えなくもないのはどうしてだろうな」
「本来被害者であるはずのお前のほうがよほどタチが悪いからじゃないか?」
呆れを隠さずに元譲が嘆息する。
「危険な状況にあえて身を置いたんだ。少しくらい役得があってもいいだろ?」
「危険と思うなら女を寝所に呼ぶ前に捕らえればよかっただろうが」
「だから頭痛がさ……」
従兄弟同士でありながら両極端の性質を持つ二人の、それも女絡みの会話は堂々巡りで交わることがない。
早々と見切りをつけた元譲と衛兵たちが女を室外へ連れ出そうとすると、女の背に「そうそう」と何かを思い出したかのような孟徳の声がかかった。
「君の言葉は嘘まみれだったけど、一つだけ真実があったよ」
振り向いた女の視線の先で、寝台から降りた孟徳が白い夜着に袖を通しているところだった。
「俺との閨事はよかったんだよね?」
あの言葉は嘘じゃなかった。
おかげで自信を無くさずにすんだよと小さく笑みを零しながら、孟徳は夜着の上に執務を行う際には必ず身に着ける赤の衣を羽織る。
中身が夜着だとしても、これで丞相としての曹孟徳が出来上がった。
孟徳は腕を組み、改めて女を見据えた。
「俺も今夜は楽しませてもらったことだし、君のおかげで一時頭痛も忘れられた。だから君は楽に死なせてやってもいいと思ってる」
女の背後関係――曹孟徳暗殺を依頼した人物はとっくの昔に割れている。
女たちが長い時間をかけて行動を起こそうとしたように、孟徳もまた長い時間をかけて彼らを泳がせていたに過ぎない。
今頃は向かわせた兵たちによって首謀者と一族郎党全て捕縛されているはずだ。
彼らを待っているのは、早く殺してくれと泣き叫ぶこと必至の苛烈な拷問とその果てにある惨めな死のみ。
それを聞かせた上で、孟徳は女に柔らかく告げる。
「長く苦しみたくないなら今この場で舌を噛み切って自ら果てるもよし、一息に俺に斬り殺されるもよし」
――俺は女の子には優しいからね。だから選ばせてあげるよ、と孟徳は言う。まるで世間話を興じるような気安さで。
結局のところ、首を刎ねられ、首をさらされるだろう女の末路は何一つとして変わらないというのに。
女の目には、孟徳が羽織っている鮮やかな真紅が、これまでに孟徳が流させてきた血のように見えてならなかった。
錯覚だと分かっているのに、元は白かった衣が孟徳が浴びた血を啜り、色を変えたかのように思えてならない。
そして血色の衣を纏った男は今、あっけなく女の命運を摘み取ったのだ。
「あなたという御方は……」
「何かな?」
女は何かを言おうとして、けれど結局は口を閉ざし、それ以降口を開くことはなかった。
それを見極めた孟徳はひらひらと手を振って元譲たちと女を寝所から下がらせた。
全員が立ち去り、静寂が訪れた寝所の中で、孟徳は女が最後に自分を見つめていた時の表情を思い出して微苦笑を浮かべる。
―――あれではまるで、人外の存在でも見るような。
「あれはないよなあ」
肩をすくませて孟徳がぼやく。
「これでも可能な限り、情けをかけたつもりだったんだけど」
女の子には優しいという孟徳の座右の銘は偽りではない。
ただ、女なら誰でもいいというわけじゃないというだけの話だ。
心から慈しみ、優しくすべき女の子がいつか孟徳の前に現れたなら、その時は。
「さっきの女みたいな顔をされないように、うーんと甘やかしたいものだな」
そう独りごちて、孟徳は衣を脱いだ。
―――荊州侵攻で流されるだろう血を暗示させる、赤の衣を。