孟徳×花 (三国恋戦記)


 軍事演習の視察を終えて執務室に戻ろうとしていた孟徳は、てくてくと回廊の先を行く小さな背中を見つけ、相好を崩した。
 いそいそと少女に駆け寄って、可憐で華奢な肩を叩く。

「やあ、花ちゃん。どこ行くの?」
「あ、孟徳さん。こんにちは、ちょうどよかった」

 足を止めて振り返った花が孟徳の姿を認めて笑顔になる。

「今、孟徳さんの執務室に行こうとしてたんです」
「俺のところに? 何か用事?」

 こういう場合は頬の一つでも染めながら「ただ孟徳さんに会いたかったんです」とでも言ってほしいところだが、残念ながら色恋にかけては鈍感極まりない花に甘い言葉を期待するのは無理だろう。
 それでも一縷の希望を抱きたくなる自分に苦笑しつつ花の用事は文若のお使いだろうかと考ていた孟徳の目の前に、花の手がおずおずと差し出された。

「さっき、そこの回廊でこれを拾ったんです」

 花の手のひらにちょこんと乗っていたのは小さな玉を品良くあしらった簪だった。
 貴人への献上品に用いられるような高級品ではないが、庶民なら普段使いにはできないだろう程度には良い品だ。
 おそらく丞相府に仕える女官が落としでもしたのだろう。

「これがどうかしたの?」
「どこに届け出ればいいのかを教えてもらおうと思って」
「これを届け出る? どうして?」
「どうしてって言われても。落し物だから」
「でも簪だよね?」
「簪、です、けど? ……早く落し主さんを見つけて返してあげないといけないですし」

 見つめ合う二人の顔から、互いに対する疑問符が飛んでいる。
 噛み合わない会話を噛み合わせるためには、さらなる会話が必要だった。
 異なる国で生まれ育った者同士が質問をぶつけ合い、存分に語り合った結果、孟徳が理解したのはこういうことだ。
 花の国では落し物を拾った場合、その筋の専門機関に届け出るのが決まりで、貴重品だろうとそうでなかろうと拾い主が着服することは道義的にも法的にも許されず、罪を犯した者は罰せられるのだという。
 花の話は孟徳には軽く衝撃だった。この漢帝国では考えられないことだったからだ。
 もちろん他人の占有物を奪うことはこの国でも犯罪になる。
 しかし、落し物の場合は少し勝手が違う。
 落し主が分かっているなら落し物を届けてやる善良な人間もいるだろうが、わざわざ落し物を保管し、落し主を探そうなどという奇特な人間は稀だ。
 現実には、誰が落としたかも分からぬ物であれば、いや、仮に落し主が分かっていたとしても、放っておくか、拾ったものを黙って持ち去る者がほとんどだ。
 ネコババしたことがばれれば外聞は良くはないだろうが、花の国のように厳格な罰則規定があるわけでもなく、この国においてはそういったことに対する罪の意識そのものが低い。
 丞相府は国家機密の宝庫であり、仮に軍に関わる資料が紛失した場合などはそれを見つけた者が届け出なければ当然処罰されようが、花が拾ったのはおそらく一女官の私物――言ってしまえば、なくしたからと言って誰も困らない代物だ。
 むろん落し主がそれを気に入っていたなら探し、見つからなければ惜しみはするだろうが、落とした自分が不注意だったとすぐに諦めるだろう。
 ここでは、そういうものだから。皆がそう割り切っているから。
 全ては落とした者の過失で、落としたものは返ってこないという考え方が一般的な世界なのだ。
 花の国のように落し主を救済する機関を設けたり、花のように落し物を拾った者が落し主に心を砕くことなどありえない。

『その簪、花ちゃんに似合いそうだからもらっておけば?』

 もし孟徳がこう言えば、花ならきっと真面目な顔をして孟徳に説教するだろう。
 もちろん孟徳には花に誰かのお古の簪など使わせる気はないし、花には近いうちにもっと可愛くてもっと質の良い簪やその他諸々を贈ろうと今まさに心の中で企ているのだが。
 真っ直ぐで優しくて誠実な花の人柄が形成されたのは、徹底した道徳観と倫理観を叩き込もうとする花の国家制度のおかげもあるのだろう。
 だけど、と孟徳は思う。
 罰則が設けられているということは法を破る者も少なからず存在しているということで、孟徳を魅了してやまない花の心根は、やはり花個人が持つ資質によるところが大きいのだろうと。
 外見も愛らしいが、花の内面はとてもきれいだ。
 飾らず、思いやり深く、正道をまっすぐに歩こうとする。
 孟徳は改めて花の美点を見せ付けられ、眩しいものを見るかのように目を細めた。

「どうかしましたか?」
「ううん、何でもないよ」

 ――また君のことが好きになっただけ。

 孟徳はそれを言葉にせず、自らの心に宿った花への更なる想いを噛み締めながら柔らかな微笑みを浮かべていた。

「ところで、届けられた落し物はどうなるの?」
「落し主が現れるまで、一定期間、保管されることになります」
「じゃあ、期間内に落し主が現れなかった場合は?」
「私も詳しくは知らないんですけど、たしか拾った人のものになるはずです」
「……最終的に落し物は拾った人のものになるってのが、花ちゃんの国の決まり事?」
「はい。落し主が現れなければ、ですけどね」

 花の答えを受けて孟徳は満足そうに、そっかそっかと繰り返した。

「あの、孟徳さん……?」
「何かな、花ちゃん」
「なんでそんなに楽しそうなんですか?」
「俺、そんな顔してる?」
「してます、……ものすごく」

 不思議そうに可愛らしく小首を傾げている花に、孟徳がくすりと笑う。

「実は俺も、しばらく前に落し物を拾ってね」
「孟徳さんも?」
「そ。落し主が落し物を取り戻しに来ないなら、それはいずれ俺のものにしていいってことだよね」
「そうですね。落し主が現れないなら孟徳さんのものにしてしまっていいと思います」

 落し主に返してあげれないのなら仕方がないし、孟徳がそれを有効活用できるなら、そうしたほうがいいのかもしれないと思っての花の発言だった。
 ここで不意に孟徳は表情を引き締め、真摯に花を見つめ直した。

「本当に、俺のものにしていい?」
「……? はい。それでいいと思います、よ?」

 花は半ば孟徳に呑まれるように頷いていた。

「――そっか! 花ちゃんの許可も貰えたことだし、落し物の保管期限が切れる日が待ち遠しいなあ」

 声を弾ませ、にぱあっと笑み崩れた孟徳につられるように花の頬も緩む。
 孟徳が拾った落し物はよほど貴重なものだったに違いない。
 落し主には悪いと思いつつも、落し主がこのまま現れなければいいとつい孟徳のために願ってしまうほど、今喜色満面でいる孟徳を微笑ましく思った。
 けれど花はこのすぐ後に、拗ねて唇を尖らせることになる。
 なぜなら、何を拾ったのか教えてほしいと言う花に孟徳が「いずれ分かるから今は秘密」と楽しげに言い張り、最後まで答えを教えてくれなかったからだ。

 今から少し前に孟徳が長坂橋で拾った可愛い可愛い落し物。

 孟徳が拾った落し物が何だったのか。そしてこの時、自分が不用意にも拾い主に言質を与えてしまったことに花が気づくのは、これからもうしばらく後のことである。







落し物の行く末

(2011/04/23)





inserted by FC2 system