孟徳 (三国恋戦記)


 薄汚れた分厚い木の扉から、切れ切れの呻き声が漏れ聞こえている。
 扉を守る屈強そうな兵士は薄暗い回廊の向こうから現れた三人の男たちの姿を認め、恭しく頭を下げた。

「どうぞ」

 兵士によってギギギと重い音を立てて扉が開かれた途端、カビと埃と血と吐瀉物が入り混じったかのような独特の臭気が漂ってくる。
 もはや換気をしても水で洗い流しても、この場に完全に染み着いてしまった臭いが拭い去られることはないのだろう。
 人が出入りできるのはこの重厚な扉、ただ一つのみ。
 しかも扉はその使用目的から普段は固く閉ざされたままで開け放たれることはない。
 窓一つない部屋に射し込む光は当然なく、申し訳程度に灯された燭台の薄暗い灯りのみが室内を照らしている。
 ただひたすら澱んだ空気と腐臭の、誰もが眉をひそめるような陰鬱な空間。
 そこを訪れる者は皆、本能で察するのだ―――この場に漂うのは死の香りであり、つまりここに繋がれたら最後、末路はただ一つしかないのだと。

「これは丞相。文若様に元譲様までおそろいで。わざわざこのような場所にお運びいただかなくても、後ほど私がご報告に参りましたものを」
「その囚人に、じかに聞きたいことがあってな」

 拷問用の杖を手にした武官とその部下たちが慌てて膝をつこうとするのを片手で制してから、赤い衣を纏った男は文官姿の同伴者に面白そうな目を向けた。
 この場に足を踏み入れた時からいつも通り飄々とした表情を崩さなかった、むしろどこか楽しげでもあった彼と、やはりいつも通りいかつい表情を崩さない隻眼の男とは異なり、彼らの一歩後ろに付き従う男が「開いているのか閉じているのか分からない」と常日頃から揶揄される糸目を不快げに、さらに細めたのを見逃してはいなかったのだ。

「おまえ、血生臭いのは苦手だろう。無理して俺たちにつきあわなくてもいいんだぞ」
「お気遣いは無用です。戦場に身を置かぬ文官にすぎずとも、これしきのことに怯むほど軟弱ではありません。それに、これも軍に関わること。立場上、苦手だからと目をそらしていいものではないでしょう」

 血生臭いことはたしかに文若の得意とする分野ではないが、件の囚人から直接話を聞きたがっているのは文若も同じだと承知しながらからかうような言葉を投げかけてくる、誰より厳しい為政者でありながら子どものようなふざけ心を併せ持つ上司に、文若は溜息をついた。

「さて、と」

 孟徳は、両手を天井から伸びる鎖で吊るされ、両足首に枷をはめられ、自害できないよう猿轡を噛まされ、首以外自由に動かせないでいる男の前に立った。
 下穿き以外を身に着けることを許されず剥き出しになった男の上半身は赤黒く変色して腫れあがり、杖で痛めつけられた痕跡が生々しく残っている。
 孟徳の命令によって猿轡を外された男は、ようやく自由になった口を力なく開く。
 だらしなく口の端から零れる涎を丞相に対する目汚しと取ったのだろう、若い武官がすかさず布で拭い、改めて孟徳の傍に控えた。

「……丞、相」
「久しいな」

 弱々しく孟徳を見つめる男の顔は、孟徳だけでなく文若と元譲にとっても見知ったものだった。
 先の戦で捕虜になった玄徳軍の同胞たちを先導して脱走を企てた咎でこの場に繋がれている男は、現在では玄徳軍の重臣に収まっていると同時に数年前までは曹孟徳に仕え、孟徳軍でそれなりの戦果をあげていた武将でもある。
 孟徳にとって覚えのめでたい部下だった。幼い献帝を許都から連れ出そうとする一派の計画に男が加担した、その日までは。

「別に昔の恨み言を言いたいわけじゃない。おまえが俺を裏切った理由もどうでもいいし」

 この場にそぐわぬ軽い口調に、男が疑わしげな眼差しで応える。
 しかし、たとえ男や周囲の人間がどう思ったにせよ、孟徳の言葉に嘘はなかった。
 当時すでに権勢を極めていた孟徳を裏切り、黄巾党の反乱で名を上げたとはいえ弱小軍の頭目にすぎなかった玄徳に男が肩入れした理由など、孟徳は知らない。
 孟徳を漢王朝の逆賊と見たのか、孟徳にはない何かを玄徳に見出したのか。裏切りが発覚した当時でさえ、興味はなかった。
 重要なのは理由ではなく男が孟徳を裏切ったという事実で、裏切り者、邪魔者は排除するのみ。
 孟徳のその方針通り、計画発覚時、反孟徳一派はことごとく処刑された。その時許都をたまたま離れていたために命拾いした玄徳と男以外の者は、一人残らず。
 仕留め損ねた虫に対する不快感はあっても、孟徳には部下に裏切られたことに対する驚きや失望はとりたてて無かった。
 そもそも誰も信じておらず、裏切り裏切られるのが乱世の常だと他の誰よりも理解しているからだ。
 男にしてみれば信じがたいだろうが、男の裏切りは当時も今も孟徳にとって些事にすぎない。
 今の孟徳はそんなくだらないことに時間を割くほど暇ではなく、貴重な時間を割いてでも確認しておきたいことが他にあったから、自らここを訪れた。

「玄徳の側近であるおまえに少し教えてもらいたいことがあってな」
「あなたに話すことなど何もございませぬ」
「へえ。拒否したらもっと痛い目にあうって分かってるのに?」
「どのみち某がここで朽ち果てることに変わりありませぬゆえ」

 言い終わるや否や男は素早く口を開き、今残されている全身の力を全て上顎のただ一点へと込め、勢いのまま舌を噛み切ろうとした―――誇りを持ったまま自ら果てるために。
 まさに一瞬の出来事だった。
 腹をくくった男の行動にためらいはなく、本来なら男の本懐は容易く遂げられていた―――はずだった。

「んー、残念」

 のほほんとした声が薄暗い獄に響いた。
 男の舌は千切れることなく―――ただ彼の両の眼が驚愕に瞠られている。
 瞬き一つ出来ないで硬直している男の頬に汗が浮かび上がるのを愉快そうに眺めながら、孟徳は目を細めた。

「惜しかったなぁ、あと一歩だったのに」

 男の口内にじわりと鉄臭い味が広がったが、それは男の血ではない。
 男と孟徳の傍に控えていた武官のごつごつとした太い指が数本、男の口に突っ込まれていた。
 男が舌を噛み切るより早く自らの指をねじ込み、男の舌の代わりに自分の指を噛ませることで、武官が男の決死の行動を阻んだのだ。

「…………」

 いまだ武官の指に歯が深くくい込んでいる以上、男は喋ることも出来ない。
 歯を放すことも出来ず、かといって何をどうしていいか分からず、男は半ば呆然としたまま、こみあげてくる怖気と吐き気を必死に抑え込もうとしていた。
 ただ気持ちが悪く、ただひたすら恐ろしかった。骨にまで達するほどに深く突き立てた肉の感触も、飲み込むことも出来ず喉にたまっていく血の味も、一瞬で男の自害を阻止した武官の尋常ならざる動きも、自らの指を躊躇なく犠牲にし、想像を絶する痛みを感じているだろうに呻き声一つ上げない武官にも。
 そして何より、一瞬だけ眉を顰めた文若以外、この場にいる誰一人として今起こった出来事に驚きもせず平然としていることも。
 男にとって、何もかもが異常だった。

「なめてもらっちゃ困る。拷問官ってのは汚れ仕事に携わる下官のように捉えられがちだが、罪人が口を割る前に死なせてはいけないし、責め方にも工夫と微調整が必要な上、陰惨な現場で日々を過ごさなければならない。つまり、それ相応の技術と覚悟が要求されるんだ」

 拷問の後は結果報告のみを受けることがほとんどで、よほど特別な罪人を相手にする場合を除き、拷問官以外の者が最初から最後まで現場に立ち会うことは少ない。
 だから一端の武将とはいえおまえがその辺の事情に疎くても仕方ないんだけど、と孟徳は穏やかな口調で話を続けた。まるで、ものを知らない子どもを諭し、必要な知識を優しく教え込む大人さながらに。

「あらゆる意味で生半可な奴にこの仕事は務まらない。それに、舌を噛み切ろうとする囚人は掃いて捨てるほどいる。おまえが同じことを考えるだろうことは、猿轡を外した時点で想定内だと思わないか?」

 孟徳の目の合図を受け、ようやく男の口から武官の指が引き抜かれた。
 厚みのある指はさすがに千切れてこそいなかったが血にまみれ、深い傷跡が見るも無残な様相を醸し出している。

「御苦労だった。おまえはもういい、手当てを」
「はっ」

 孟徳の言葉を受けた武官は一礼し、痛痒をまるで感じさせない態度で獄を去る。代わりに、今度は残っていた武官の一人が孟徳と罪人である男の傍に控えた。
 男は本能で慄いた。そして理解した。男が今また同じことを繰り返せば、次の武官がまた同じことを繰り返すだけだということを。
 逃げることも自ら死を選ぶことも不可能だ。ここにいる拷問官たちの手腕は並でない。
 どう転んだところで生きてこの獄を出ることはないだろうが、孟徳の求める情報を洗いざらい提供しない限り自分が想像していたより遙かに苛烈な死しか残されていないのだと思い知らされた。
 百叩きの刑に耐え抜き、けれどその後に必ず訪れる死を正面から覚悟していたはずの心が呆気なく萎れていく―――実際には新たな拷問を受けたわけでもないのに。
 猿轡を外すところから始まった一連の行いは男の自害を誘導するための行いだった。
 全ては男の心を完全に折るための計略だったことに思い至り、男はうなだれた。

「……何を、お尋ねになりたいのです」

 全てを諦めた力ない言葉に孟徳は満足そうに笑み、腕を組み直した。

「聞きたいのは花という名前の女の子のことだ。彼女のことは知っているな?」
「花?」

 玄徳軍の内部情報を求められていると信じて疑っていなかったのだろう。思ってもいなかった名前を出され、男は胡乱な表情を孟徳に向ける。

「玄徳軍の現状など、おまえに尋ねるまでもなく、おおよそのことは分かっている」

 孟徳軍の猛追を受け、玄徳を含め生き残った者たちは命からがら江夏に逃げのびたという情報が入っている。
 もともと少なかった兵がさらに失われた今、態勢を立て直すには時間がかかるだろう。
 だが、痛手を受けたのは孟徳軍も同じだった。
 そもそも今回の戦は楽に勝てるはずだったのだ。本来であれば今頃は玄徳を討ち取り、勝利の美酒に酔いしれていたかもしれない。
 決して孟徳軍が油断していたわけではない。念には念を入れるにこしたことはなく、万全を期した。負ける要素などどこにもなかった。
 それにもかかわらず博望と新野の戦いで敵の策に翻弄され十万以上の兵が命を落としたのは、玄徳に知略を与えた存在がいたからだ。
 山田花と名乗った異国の少女の姿が孟徳の脳裏によみがえる。

「おまえが知る限りのことを包み隠さず話せ」

 逆らうことを許さない、命じることに慣れた絶対者の声が重々しく獄に響く。

「あの娘のことはよくは知りませぬ。今より少し前に玄徳様が自ら新野城に連れ帰ってきた娘で、伏龍と名高い賢人諸葛孔明の弟子だとしか」
「伏龍の弟子というのは真のことか」
「文若」
「……申し訳ありません」

 思わずといった様子で口を挟んだ文若を元譲が咎める。
 今まで文若は孟徳の後ろで事の成り行きを黙して見守っていたくせに――花を尋問した時もそうだったが――よほど花の肩書きが信じがたいらしい。
 元譲はそれ以上何も言わず、孟徳は苦笑を浮かべただけで文若を叱責することはなかった。

「玄徳軍でも最初は皆疑いました、あんな小娘が本当にあの賢人の弟子なのかと。しかし玄徳様は最初から、出会ったばかりのあの娘を信用しておられた」
「彼女の身を証明するものはあったのか」
「花殿が新野城にやって来てすぐに伏龍から書簡が届きました。使者も書簡もたしかに本物でしたから、彼女が孔明の弟子であるのは間違いありませぬ」
「出身地は?」
「知りませぬ。遠い異国から来たらしいとしか」
「どのくらいの期間、伏龍に師事している」
「それも知りませぬ」
「彼女は何のために玄徳軍に身を寄せた? と言うより、何のために伏龍は彼女を玄徳のもとに寄越した」
「花殿の見聞を広めるために」

 男の瞳がほんの一瞬、かすかに揺れたのを孟徳は見逃さなかった。
 鼻で笑うような表情を受け、全て見透かされたことを悟った男は諦め顔で目を伏せた。

「……ということに、表向き、なっております」
「それは建前で、実際は玄徳に仕官させたかったということか」

 武に秀でていても知が足りない玄徳軍に今最も必要なのは優秀な軍師だ。伏龍本人でないにしろあれほど優れた策を献じた花を玄徳が欲さないとは考えにくい。
 だが先ほど孟徳が花に尋問した際に、自分は居候のようなもので玄徳の部下ではないと口にしていた彼女の言葉に嘘はなかった。
 だとすれば。

「伏龍と玄徳は彼女の仕官を望んだが彼女自身がそれを拒否した、ということだな」
「そのように聞いております。もっとも、それを知るのは玄徳軍でも特に玄徳様の傍近くに仕える一握りの武将のみですが」
「なるほどね」

 賢人の弟子とはいえ公的には何の身分も持たない小娘が、名のある武将からの仕官を断る。それも師の意向に背いてまで。
 玄徳に仕える部下たちからすれば不遜なことこの上ない振舞いだろう。
 しかし仁者として名高い玄徳の気質からして花に仕官を無理強いしないだろうし、仕官を断られたことをおおっぴろげにしてわざわざ花の立場を悪くすることもないだろうことは孟徳にも察しがついた。

「彼女が仕官を断った理由は何だ。他に仕えたい人物がいるわけでもなさそうだが……、玄徳を仕えるに値しない人物と見たのか?」
「詳しいことは聞き及んでおりませんが、修行中の身で今はまだ時期尚早ということではないでしょうか。花殿は玄徳様を慕っておりましたし、断る理由が他に思いつきませぬ」
「ふーん。慕っていた、か」
「玄徳様も花殿を可愛がっておられましたからな」
「……へーえ」

 十分な軍資金を蓄えているとは言いがたい玄徳軍は兵士とその家族を養うだけで手一杯で、余計な食い扶持が一人でも減るにこしたことはないはずだ。
 そもそも玄徳自体が景升の客将にすぎず、そんな中、いかに諸葛孔明の弟子とはいえ士官を断ってなお軍に留まることを許されていた花は玄徳に余程気に入られていたとみて間違いない。
 花もまた、玄徳の無事を知り安堵していた様子から、玄徳に好意を持っていたのが分かる。

「玄徳の妾だったのか? あいつの傍には芙蓉ちゃんもいるし、羨ましい限りだよなあ」
「玄徳様は女と見れば誰彼構わぬ節操なしではありませぬ。それに、芙蓉殿がおなごとしてではなく配下として玄徳様に付従っていることは、あなたとてご存知でしょうに」

 吐き捨てるような物言いは、女好きとして名を馳せている孟徳を蔑み皮肉ってのことだ。主君と仲間を侮辱され、腹立たしく思っているのが見て取れる。
 言外に「下世話なおまえと一緒にするな」と言われたも同然だったが、孟徳は気分を害した様子もなくむしろ楽しげに口角を上げた。

「奴だって男だぞ? そんなに気に入った女なら手を出していてもおかしくないんじゃないか?」
「もしも花殿に玄徳様のお手がついているなら、今頃花殿は正式に玄徳様の妻妾として周知されているはずです。誠実な玄徳様なら、きっとそうなさいます」
「玄徳のお手つきじゃないにしても、玄徳が彼女に惚れてた可能性はあるよな」
「軍師として優秀でも、花殿はまだ小娘ですぞ」
「年齢的にはそれほど幼いわけでもなさそうに見えたけど?」
「……玄徳様の御心の内は某には分かりかねます」

 男の回答はどこか歯切れが悪い。
 男の言葉に嘘はない。男も量りかねている、と言ったほうが正しいのだろう。
 恋心からとまでは言わずとも、単なる庇護心からと言うには過ぎた程度には、玄徳が花を大切に扱っていたということだ。
 とりあえずはそれで充分だった。

「……おそれながら丞相、話が横道にそれているように見受けられますが」

 再び文若が口を挟んできたが、今度は元譲は咎めなかった。
 元譲のやれやれといった表情が尋問中に横槍を入れた文若に対してでなく自分に対してだと見て取った孟徳は、肩をすくめながら再び男に向き合う。

「次が最後の質問だ。博望と新野の戦いは真実彼女の献策によるものか」

 ――本当は伏龍の策を彼女の策として採用したのではないのか。
 低い声で発せられた孟徳の言葉には、そういう意味合いが含まれていた。
 孟徳は答えを聞くまでもなく、あれが花の策だったと確信している。
 しかしそれを疑ってやまない文若を納得させるには、玄徳軍の重臣であるこの男の証言が必要だった。

「元譲将軍が進軍を開始した時も今回の戦も、伏龍はいませんでした。こちらは混乱を極めておりましたし、外部の者と接触する余裕などあるはずもない」

 つまり、あれは彼女の策だったということだ。嘘偽りなく。

「ふーん、やっぱりそうか」

 ちらりと視線を向ければ、文若は今までよりも硬い表情で何事かを、おそらく花のことを考え込んでいる。
 男の証言に嘘がないと察しながらもまだ花に対する疑念を捨てきれないらしい文若とは対照的に、孟徳の口元には心底楽しげな笑みが浮かんだ。

(面白いな)

 知りたいことは概ね分かった。
 元譲軍大敗の報告を受けた時、奇抜な策を献じて戦上手の孟徳軍を手玉に取った軍師に怒りを覚えるよりも興味がわいた。
 その正体が高名な軍師ではなく無名の、しかも年若い少女だと知って、ますます興味がわいた。
 長坂橋で兵を逃がすために大軍の前に立ちふさがった度胸と、実に可愛らしい言葉で孟徳の質問に答えた、その落差。
 孟徳の目の前に現れたのは、いまだかつて孟徳が出会ったことのない、優秀で珍しくて可愛い女の子だった。
 彼女と話してみたいと思った。
 そしてこの襄陽で実際に花と対面して、孟徳の興味はさらに膨れ上がった。
 処罰されることを恐れてというよりも単に根が正直なのだろう、尋問を受けた際に多少の隠し事はあっても花は孟徳に嘘をつかなかった。その素直さ。
 何より印象的だったのは、敵軍の中枢に一人ぼっちで放り出された恐れと心細さを表に出しながらも、媚びることも謙ることも知らない澄んだ瞳。
 花は捕虜という自分の立場を理解し、また初対面の人間に対する礼儀もわきまえていながらも、孟徳を『丞相』と意識せずに『曹孟徳』という一個人として接しているようだった。
 不遜に思うどころか、孟徳にはそれがひどく心地好かった。

(あの子は玄徳には過ぎた女の子だ)

 優秀な人材は手元にいくらあっても困らない。ましてや因縁ある玄徳が大事にしていた存在なら奪ってでも自分のものにしたいと思う。
 もしもこの先、花が玄徳の元に戻ることになれば、玄徳の力は確実に増すだろう。

(そうさせないためにも、あの子を)

 というのは半分近くが建前だと孟徳は気づいていた。
 純粋に、有能な手駒が欲しいという思惑はある。
 しかしそれと同じくらい、何の思惑もなく花のことをもっと知りたいとも思っている。そして手元に置きたい、と。

(花ちゃん、ごめんね?)

 花の気持ちがどうあれ、もう玄徳軍には返さないと孟徳は決めていた。
 しかしそれを花自身に選択させなければ花の迷いは後々まで残るに違いない。そして花が他の誰でもない、曹孟徳を選ぶことこそが玄徳にとって何よりの打撃になるということも、もちろん孟徳の計算の内に入っている。

(さて、どうやって囲い込もうか)

 ふと、花が所持していた書物を思い出す。
 長坂橋で川に流された時でさえ決して手放さず、先ほどもその在り処を気にかけていた、『本』なる珍しい書物。
 花にとって、よほど大事なものなのだろう。

(大丈夫。後で返すと約束したから、ちゃんと返してあげるよ)

 ――ただし、一度はね。

 心の中でそう付け加えて、孟徳は密やかに笑った。 






君を知る

(2010/11/15)





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