孟徳+花孔明 (三国恋戦記)


 今はまだ仮初の状態だとしても、群雄が割拠するこの戦乱の世に一応の終止符を打ったのは劉玄徳に仕える軍師――伏龍の異名を持つ賢人、諸葛孔明である。
 人望と実力はあれど結果としてそれを活かしきることができずに燻っていた玄徳を、いまや曹孟徳と肩を並べるまでに押し上げた人物だ。
 孟徳にとってみれば、三国分立の立役者である件の軍師はかねてより興味深い存在であると同時に、漢帝国を統一して腐敗したこの国の制度を根底から革新するという彼の生涯をかけた理想を打ち砕いてくれた存在でもある。
 事実、博望の戦いで孟徳の片腕と言える元譲が大敗を喫したのを皮切りに、新野、赤壁と続いて孟徳軍は孔明の策によって煮え湯を飲まされた挙句、保護という名目で支配していた献帝を解放されての三国分立とくれば、さすがに孟徳も孔明に対して純粋な好奇心を抱くだけではすまされない。
 その心中は複雑だった。
 孟徳は今でも孔明の提唱する三国分立に対して完全に納得しているわけではない。むしろ、同調しがたい部分も多い。
 けれど時流を鑑み、度重なる戦で疲弊しきった民や兵士のことを熟考した結果、とりあえず今の段階ではそれを受け入れるのもやむなしと判断を下した。
 ――それが実を伴わず単なる茶番に終わるようなら、すぐにでもこの手で仮初の平和を破ってやる。その時は、真っ先に玄徳ともども孔明を葬ってやろう。
 孟徳は穏便に和平を結ぶその裏で、そのような決意を秘めていた。


 ここは長安。
 幼い帝のおわす宮殿の一角にあるこじんまりとした東屋で、孟徳と孔明は円卓を挟んで向かい合わせに腰かけていた。
 孟徳の背後には元譲が、孔明の背後には雲長が、それぞれ黙して控えている。
 この場にいるのは彼ら四名のみで、東屋付近には警備兵の姿さえ見られない。
 この日、三国分立の具体的な取り決めを行うために三軍の代表たちによる会談が執り行われ、それが終了した後、孟徳が孔明に私的な会見を持ちかけたのだ。世に名高い賢人にぜひとも教えを乞いたい、ただし二人きりで、と。
 孔明の主君である玄徳は当然警戒し、にべもなくそれを拒否した。
 しかし孟徳は赤壁で大きな痛手を受けたとはいえ、いまだ臣下としての最高権力者である丞相の地位にあり、この大陸で最も強い勢力を有している。
 たとえ仲謀軍と玄徳軍が同盟を結んだとしても、孟徳がその気になれば、それを蹴散らせるだけの力は今なお健在だ。
 極論を言えば、三国分立が、つまりこの国の平和が成るかどうかは孟徳の心次第。
 それが分かっていても、玄徳は安易に孟徳の申し出を受け入れるわけにはいかなかった。
 今は休戦協定に同意する姿勢を見せていても孟徳は腹の中に一物もそれ以上も隠し持っている男で、孔明との会見には何かしらの思惑があるはずだと考えたからだ。
 女に甘い男だとしても孟徳にとって孔明は己の野望を阻んだ怨敵のはずで、彼が孔明を害さない保障はない。
 けれど天下の丞相ともあろう男が自らの申し出を簡単に撤回するはずがなく、そして玄徳がいつまでも渋り続ける限り、事態は膠着するばかり。
 これでは埒が明かないと、指名された当人である孔明が両者の間に入り、孟徳が痺れを切らす寸前に彼の申し出を快諾した。
 せっかくまとまりかけている和平をこのようなことで御破算にするわけにもいかず、結局は玄徳が折れる形になり、その代わり、互いの陣営からそれぞれ一人ずつ帯剣した護衛をそばに控えさせることを条件に出した。
 二人きりでという希望は叶えられなかったものの、これ以上のやり取りは時間の無駄だと判断した孟徳も譲歩を見せ、そして現在の状況に到る。

「話には聞いていたけど、伏龍と称される名軍師殿が、まさかこんな可愛らしい女の子だったとはね」
「生憎私はすでに女の子と呼ばれる年齢ではございませんが、お褒めの言葉は素直に頂戴しておくことにいたします」

 孔明は、ともすれば孔明を小娘風情と侮っているとも受け取れる発言に気分を害した様子もなく、やわらかく微笑んだ。
 その微笑みからは孟徳に対する悪意も警戒心も全く感じられない。
 軍師とは偽りの笑顔で敵を騙すのが仕事のようなものだが、おそらくこれは作り笑いではない。
 人並み外れた勘の良さと洞察力に加え、その人の言葉の真偽を見抜くことのできる能力を備えている孟徳だからこそ、それが分かる。
 意外なことに、どうやら孔明はその鮮烈なまでの献策とは対照的に温厚で、女性らしく丸みのある性格をしているらしく、孟徳は内心で驚きを隠せずにいた。
 もとより、稀代の名軍師が女性であることは聞き及んでいた。
 伏龍と呼ばれる女は気候さえ自在に操り、剣の代わりに羽扇を振るっては容赦なく敵を殲滅していく――と言われている。
 博望では火計を用い、新野では総大将である玄徳を囮にするという大胆不敵な策で敵をおびき寄せた後に火攻めと水攻めを駆使し、計十万人以上にも及ぶ孟徳軍の兵士の命を奪った。
 赤壁では吹くはずのない東南の風を利用して孟徳軍の大船団を根こそぎ焼き払い、戦上手と謳われた孟徳を命からがらの態で敗走させた。
 味方からは戦女神であるかのように信奉され、敵からはあの世からの使者であるかのように恐れられている女軍師に孟徳は純粋に興味があったし、敵ながら彼女の奇抜で斬新な策の数々は驚嘆に値した。
 けれど孟徳はこれまで、彼女の策の印象から孔明に対し、計算高く冷徹で日頃から取り澄ましている女性像を抱いていた。見た目も中身も、まるで毒花のごとき女なのだろう、と。
 ところが実際はどうだ。今孟徳の目の前にいる孔明は、切れ者で血生臭い軍師には到底見えない。
 勿論、馬鹿そうに見えるという意味ではない。策略家の風格など微塵もなく、見た目のみで判断すれば、その辺にいるごく普通の町娘そのものなのだ。
 会見のために正装をしているものの全てにおいて控えめで、年頃の娘らしい飾り気も化粧気もない。
 とはいえ若さゆえだろうか、瑞々しく血色のいい肌は健やかで美しく、孔明の魅力は少しも損なわれてはいない。
 毒花どころか、野に咲く小さな花のような娘だと孟徳は思った。
 軍師の装いと真白な羽扇がなければ、彼女が諸葛孔明だと気づく者など誰一人としていないだろう。
 たしか年齢は二十歳を超えたばかりのはずだ。
 孔明自身が言っていたように女の子と呼ばれる年頃は脱したのだろうが、可愛らしい顔立ちのせいで実年齢より幼く見え、成人した今でも女の子と呼んだほうがしっくりくる。
 それでいながら、その若さに見合わず、澄んだ双眸に達観した光を宿していたことが、特に孟徳の目を引いた。
 成熟した大人のような、否、どこか厭世的とも言える雰囲気を彼女は纏っていたのだ。

(不思議な子だな)

 孟徳はそうとは悟られない態度で目の前にいる孔明をじっくり観察しながら、女官が運んできた茶と茶請けの菓子を孔明に勧めた。
 円卓には二人分の茶と何種類もの菓子が盛られた大皿が一枚置かれている。

「女の子は甘いものが好きだろうと思って、とっておきの菓子とお茶を用意させたんだ。さあ、どうぞ遠慮しないで食べて」

 孟徳は邪気のない笑顔でそれらを勧めるだけ勧めておきながら、自分は茶にも菓子にも一切手をつけようとしない。
 それまで黙って控えているだけだった雲長が口を挟んだ。

「おそれながら、目下の者が目上の御方を差し置いて飲食を始めるのは無礼にあたります。ですからどうか、丞相が先にお召し上がりを」
「残念ながら俺は甘いものがそれほど好きじゃなくてね。てことで、俺は遠慮しておくよ。さあさあ孔明、せっかく君のために準備させたんだから、堅苦しい作法なんか気にしないで好きなだけ召し上がれ」

 慇懃無礼な雲長の発言を一蹴し、孟徳はさらに強く孔明に茶と菓子を勧めた。
 雲長が顔をしかめ、元譲もわずかに緊張感を露にする。
 まさかとは思いながらも、彼らは茶と菓子の中に毒が仕込まれている可能性を危惧しているのだ。
 休戦協定を終えたそばから、少なくともこんな分かりやすい形で孟徳が孔明の暗殺を謀ろうとするとは考えにくいが、先ほどからの孟徳の言動は純粋に菓子を勧めているようにも無理やり菓子を食べさそうとしているようにも見える。
 まずは戦を止めて自らの地盤を固めたい玄徳と仲謀と違い、孟徳は三軍の休戦を心の底から望んでいるわけではない。そして、丞相曹孟徳という人物は、その信念を貫くためなら時として常人には――側近であり従兄弟でもある元譲ですら予測もつかない大胆な行動に出ることがあることを、この場にいる者は皆知っている。
 つまり孟徳が三国分立をよしとせず、その計画をぶち壊す手始めとして、この場で孔明を狙う可能性がないとは言い切れないのだ。
 仮にそのことで彼自身の身にも危険が及ぶとしても、それが必要だと判断したなら、自らのことも国を生かすための駒の一つと考えている孟徳ならば躊躇しないだろう。

「それならば、まず俺が毒見をさせていただきます」

 そう言って雲長が一歩前に進み出ようとした瞬間、威圧的な孟徳の声と落ち着き払った孔明の声が重なり、彼の足を止めさせた。

「毒見? 出過ぎるな、雲長」
「その必要はありませんよ、雲長殿」

 孔明は雲長が止めるより早く、躊躇うことなく菓子の一つをつまみ、少女のような仕草でそれをぱくりと口にした。
 全員が見守る中、孔明はそれをゆっくり味わいながら咀嚼し、今度は茶を静かに啜る。

「丞相がとっておきとおっしゃるだけありますね、とても美味です。特にこの蜂蜜入りの桂花茶は………とても懐かしい味がしました」

 ふと遠くを見るような眼差しで目を細めた孔明に、一瞬哀愁が漂う。
 孟徳にしてみれば、今が単に桂花が咲き誇る時期だから準備させたに過ぎなかったが、彼女にとって桂花茶はよほど思い出深い茶だったらしい。
 過ぎ去った日に思いを馳せているのだろうか。孔明は愛しさと切なさが入り混じったような、儚げな笑みを浮かべた。
 二十歳そこそこの娘とは思えないその大人びた表情に孟徳は胸を突かれ、不覚にも目を奪われた。

「桂花茶にどんな思い出があるのか訊いてもいい?」

 気づけば孟徳はそんなことを口にしていた。

「この会見の目的は、『伏龍から教えを乞いたい』とのことでしたが?」
「俺もまだまだ若輩者でね。他人の思い出や人生観を知ることも俺にとっては勉強の一つなんだ」
「なるほど。丞相の好奇心……いえ、向学心は素晴らしい限りですね」

 小さな笑みをこぼして、孔明はあっさりと孟徳の要望に応えた。

「取るに足りないことですよ。桂花茶は初恋の方が初めて私に振舞ってくださったお茶。ただそれだけのことです」
「初恋……」

 なるほど、たしかに当事者以外にとっては取るに足りない話だろう。
 けれど孟徳は、この発言によってますます孔明に興味を引かれた。
 時に老獪とも思える策で敵を殲滅するよう命じている口から、乙女のような言葉が語られる。その落差がひどく面白い。
 玄徳に三顧の礼をもって招聘されるまで孔明は荊州の山奥にある草庵で隠匿生活を送っていたはずで、孟徳は孔明に対し、それこそ男女の俗な欲望とは無縁な人間であるかのような印象を勝手に抱いていたのだ。
 その孔明が、恋。
 しかし甘酸っぱい初恋話にしては、孔明がさっき垣間見せた表情はあまりに愁いを帯びているのが気にかかる。

「まさかその初恋の相手って玄徳?」
「いいえ」
「じゃあ雲長?」
「ご本人がいる場で言うのも失礼な気がしますが、違います」
「張翼徳? 趙子龍?」
「どちらも違います」
「玄徳軍の誰かじゃないの?」
「ええ。もう、ずいぶんと昔の話ですから」
「ふぅん。じゃあさ、君の初恋は実ったの?」
「……孟徳、いくらなんでも立ち入りすぎだぞ」

 孟徳の側近であると同時に従兄弟でもある元譲が厳つい顔を更に渋面にしてたしなめるが。

「だって興味があるんだから仕方ないだろ?」

 悪びれずに言ってのけた孟徳に元譲と雲長は呆れたような溜息をつき、孔明は苦笑した。

「秘密です……と言いたいところですけど、実ったとも言えるし、実らなかったとも言えますね」
「濁した言い方をするね。結局どっちなの?」
「意図的に言葉を濁しているわけではないのですが、こればかりは私にも、どっちと断言できかねるのです」

 本来であればそんな馬鹿な話があるかと思うところだろうが、孔明の言葉に嘘は存在していない。
 どういうことなのかは不明だが、彼女の言うとおり、彼女自身、自分の初恋の顛末を明確に言い表すことができないということになる。

「訳ありみたいだね。もっと詳しい話を知りたいのが本音だけど、これ以上はやめておくよ。君に野暮な男だと嫌われたくないからさ」
「そうしていただけると助かります」

 孔明はうふふと微笑んだ。
 本当に興味深い女だと孟徳は思った。
 大人びた雰囲気と少女のような仕草。
 一見相反する要素が同居している孔明には不思議な魅力がある。
 毒が入っているかもしれない菓子を躊躇なく口にしたことにしても――勿論、毒が入っていない可能性のほうが高いと冷静に判断した上での行動だろうが――肝が据わっている。
 言葉運び一つにしても、さすがに軍師だけあって孔明は卒がない。
 決して傲慢ではないのに、孟徳に臆することもおもねることもない瞳も印象的だ。
 何より、会見が始まって以来、彼女の言葉には何一つとして嘘がない。
 そのことに孟徳は激しく惹きつけられた。

(いいな、この子。すごくいい)

 実のところ孟徳は、この会見の流れ次第では孔明を人知れず葬ってやろうと考えていた。
 その思いはいまや、孔明のことをもっと知りたい、知りたくてたまらないという欲求へと変貌している。
 少し話しただけでも分かる。彼女の才は本物だ。
 賢く有能な者は男だろうと女だろうと好ましい。
 それに、容貌のみを言えば孟徳の好みからは少し外れるものの、孔明は充分魅力的で可愛らしい娘だ。
 どうしてこの娘を玄徳より先に得ることが出来なかったのだろうと悔やまれてならない。
 彼女を手にしたのが自分であれば、今頃孟徳はこの国を統一できていたのだろうか。
 どうして孔明は孟徳ではなく玄徳を選んだのだろうか。
 そんな思いが押し寄せる波のように孟徳の胸に湧き上がってくる。

「ねえ孔明、玄徳なんかやめて俺に乗り換えない?」

 前置きもなく、言葉を飾ることもなく、孟徳は自分の今の気持ちを率直に投げかけた。
 元譲と雲長が突然何を言い出すのだと言いたげに顔をしかめたが、孟徳はそれに気づかないフリをして孔明に向かって身をのりだした。

「今からでも遅くないよ。どうかな?」
「せっかくのお申し出ですが、それは出来ません」
「どうして? 君の献策や政策を見る限り、君の根底にある物の考え方は玄徳よりも俺のそれに近いと思うんだけどな」

 それは常々孟徳が思っていたことだった。
 孔明の策は甘くない。勿論味方を平気で捨て駒にする非道さはないけれど、彼女は戦には身内にもある程度の犠牲はつきものだと割り切っている節がある。
 玄徳が厭わないぎりぎりの範囲で、孔明は容赦ない策を献じる。
 私情を重視するのではなくあくまでも合理的に動こうとする姿勢は、孟徳が先ほど指摘したように、玄徳よりむしろ孟徳寄りだ。
 だからこそ玄徳はやっと自分の本拠を得、孟徳と仲謀に匹敵する高みまで昇ることが出来たのだ。
 そんな孔明がどうして、自らの信念に囚われるあまり時に味方さえ危険にさらす玄徳の側に立つのか、孟徳はずっと疑問に思っていた。

「どうして玄徳に力を貸すの? 本当は玄徳の考え方に納得できないことも多いんじゃないの?」
「勿論私と玄徳様の意見が対立することも多々ございます。お優しいところが我が君の美徳であると同時に、そのお優しさが命取りになりかねない場合もございますから」
「そうだろ? それに、俺のほうが統治者として優れていると自負してるんだけどなあ」
「そうですね、あくまでも個人の政治手腕のみで判断するならば、我が君はあなた様には及びません」
「孔明!」

 雲長が咎めるように彼女の名を呼んだ。
 孔明は客観的事実を述べているに過ぎない。それはこの場にいる全員が理解しているが、傍から聞けば孟徳に媚びて主君を貶めているようにも取れる発言である以上、この発言を孟徳に利用される恐れもある。
 それが分からない孔明ではないだろうに、彼女は一向に動じる気配がない。

「けれど玄徳様は自分に何が足りないのかをきちんと自覚した上で、至らぬ自分を補い支えてほしいと我々臣下に頭をお下げになることの出来る御方です」

 これは一見簡単なようでいて実際はなかなか出来ることではありません、と孔明は誇らしげに言った。

「玄徳様には玄徳様の統治があり、玄徳様のもとには有能な臣下が大勢集っております。要は適材適所、君主が一人で国を動かす必要などないのです。それに懐が大きく情に厚い玄徳様は民から絶大なる信頼を得て慕われており、民は常に協力的で謀反の心配もない。これは大きな要素です。私は、玄徳様は間違いなく名君の器だと思っております」
「……ふうん」

 つまらなそうに孟徳が頬杖を付く。
 実際、孟徳はつまらなかった。
 宦官の孫だと蔑まれても、血も涙もない人でなしと面と向かって罵倒されても、帝位簒奪を目論む逆賊と糾弾されても、孟徳は笑ってやりすごすことが出来るし、今更衝撃を受けたりしない。
 それなのに、この日初めてまともに会話を交わしたこの娘の口から玄徳を褒める言葉が出てくるたびに、孟徳の胸の中に、もやもやとした黒い霧が立ち込めてくるのだ。

「つまり、たとえ俺のほうが有能だとしても、俺に仕える気はさらさらないってことだね?」
「おそれながら、そのとおりです」

 孟徳が少なからず気分を害していることに気づいているだろうに、孔明は申し訳なさそうな顔もせず、さらりと肯定した。

(面白くないけど、面白い)

 たしかに簡単に主君を鞍替えする軍師など信用に値しない。
 孟徳の誘いを鮮やかにかわす手腕と豪胆さも、ますます気に入った。
 それに手強い女は好きだ。手強ければ手強いだけ、手に入れた時の喜びは大きい。
 孟徳は心の中で一層の闘志を燃やしながら、けれど残念そうな表情を作り、孔明の顔を覗き込んだ。

「参考までに、俺の何が気に入らないか訊いていい?」
「気に入らないなど……」
「いいや。君は俺に対して何かしら気に入らない点があるはずだ」
「なぜ、そのようにお思いになるのです」

 断定口調の孟徳に孔明が首を傾げる。
 次の瞬間、孟徳が放った言葉に孔明は息を呑むことになった。

「だって、君は最初からずっと、そんな目で俺を見てるから」
「………っ」

 それは、今までずっと揺らぐことのなかった孔明が初めて見せた動揺だった。
 わずかばかりとはいえ、たしかに彼女の心に波紋が生じた。

「なんとなくそんな気がしてたのは本当だけど、どうやら図星だったようだね」

 してやったりという思いで孟徳が口の端を上げた。
 自分が気に入った女に気に入られていないらしいことは残念ではあるが、もともと孟徳は悪評が高い上に玄徳軍とは何度も敵対してきた間柄だ。仕方がないというより当然だろう。
 孔明の気に入らない点が改善できるなら改善し、孔明に好かれるよう振舞えばいいだけのことだと割り切り、孟徳はさらに孔明に詰め寄った。

「俺も、自分の悪いところは改めたいと思っているんだ。だからここは俺のためだと思って正直に言ってくれないかな。何を言われても怒ったりしないし当然罰したりしないと約束する。今この時は、俺を丞相だと思わないでいい」

 孟徳の本心からの言葉だった。
 それが伝わったのだろう、孔明はしばらく思案した後、わかりましたと頷いた。
 孔明が何を言い出すかについては孟徳だけでなく元譲も興味があるらしく、熱い視線が孔明に注がれる。
 雲長だけが若干不安そうな面持ちで、そんな彼らを見守っていた。

「では率直に申し上げましょう。私は女好きな男性が嫌いなのです」
「…………」

 孟徳は沈黙し、元譲は呆気に取られ、雲長は額を手で押さえていた。

「………えーっと。それって君の個人的な好き嫌いだよね?」
「はい」

 孔明が真顔で頷く。
 私情を殺して大局を見極める女だと思っていただけに、この孔明の回答は孟徳にとって意外でしかなかった。
 しかも女好きの男は嫌いだと言うが、世のほとんどの男は女好きのはずで、理路整然とした軍師の言葉とは思えない。
 勿論孔明の言う『女好き』が特に多情な男を指していることくらいは理解しているが、それにしても。
 想定外の答えに、さすがの孟徳も調子が狂う。

「……仕える相手を選ぶのに、そんなことが左右されるの?」
「当然です。尊敬出来ない方のために命を賭してお仕えすることなど出来ません」
「………ああ、うん、それはまあ……そうだね」

 あなたを尊敬出来ないとはっきりと言われたも同然だが、孟徳は怒る気にはならなかった。ただ、力が抜けた。
 孟徳の背後では、『怒りも罰しもしない』との主君の言葉を守ってか、あるいは主君の女好きには自分も辟易としていたからか、元譲が微妙な顔をして立ちすくんでいる。
 ちなみに孔明の背後では、雲長が深い溜息をついていた。
 孟徳は気を取り直して、再び孔明に問うた。

「でもさ、仮に君が俺に仕えることになったとして、俺が女好きでも君は困らないでしょ? 俺は妻たちにだって軍の機密を漏らしたことはないし、女にねだられて自費で物を買え与えたことはあっても権力を行使して彼女たちやその一族を優遇したことはない。それとも飢えた俺が見境なく君を襲うとでも思ってる?」
「私風情が丞相の好みに合致していると思うほど自意識過剰ではありません。世間から無類の女好きと称されようと、あなた様は無節操なわけではなく、確かな好みがおありです」
「たとえば?」
「歌や踊りや楽器などの芸事に長け、美しく、大人の色気と慎みを持った、たおやかな女性。あと、胸とお尻のあたりが豊かなら完璧です」
「……えらく具体的だね」

 しかし、当たっている。

「いっときの遊び相手なら奔放な女性も選びましょうが、妻にするなら、立場をわきまえ、でしゃばらない女性をお選びになるでしょう」

 伏龍は全てを見渡せる者だとの評判は、あながち過大評価だと言えなくもないのかもしれない。少なくとも、孔明の情報網は侮ってはいけない。
 孟徳の好みを知り尽くしているとしか思えない孔明の発言に、孟徳だけでなく元譲も同じようなことを考えていた。

「仮に丞相が私に興味を持たれたとしても、毛色の違う女、しかもそれが軍師だったということに対する一時的な物珍しさに過ぎません」
「だったらどうして? 実害がないなら俺に仕えても問題ないんじゃないの?」
「大問題ですよ。丞相が女性としての私に興味をお持ちにならなくても、私が男性としての丞相に惹かれた場合、困りますから」

 聞きようによったら男を誘惑するための思わせぶりな発言だが、淡々と語る孔明にそんな意図がないのは一目瞭然だった。

「だけど君は女好きな男、つまり俺みたいな男は好みじゃないんでしょ? それとも君、実は惚れやすいの?」

 少し揶揄するように言えば、孔明はなぜか自嘲するような笑みを浮かべた。

「私は生まれてこの方、たった一度しか恋をしたことがございませんので、惚れやすいということはないと思いますが……」
「それが初恋の相手ってことか。君って一途なんだね」
「……不器用で気持ちの切り替えが下手なだけですよ」

 それはまるで、そんな自分が馬鹿らしいとでも言いたげな孔明の物言いだった。

「私は色恋沙汰は不得手で面倒だと思っておりますから、華やかな噂の絶えない方にお仕えするのは嫌なのです」
「んー、つまり、万が一自分の主に恋をしてしまったら色々悩みそうだから、最初から近寄りたくないってこと?」
「まあ、そういうことです」

 戦に関してはどこまでも強気な軍師のくせに色恋沙汰に関してはとんと弱気ということかと、孟徳は孔明を微笑ましく感じた。
 それに、その言い分からすると、少なくとも孔明は玄徳より孟徳のほうを異性として強く意識しているということになる。

「さっき君は、俺が君にちょっかいをかけるとしたらそれは単なる物珍しさから来る興味だと言ったけど、それは少し違うよ」
「では、自軍の軍師が裏切らないよう手懐けるためですか?」

 俺は一体どんな男だと思われているんだと内心苦笑いをしながら、孟徳はそれを否定した。

「きっかけが物珍しさや興味だったとしても、俺は好きでもない子に手を出す趣味はないんだ。だから俺が君に手を出すなら、それは俺が君に対して本気だってことだよ」

 孟徳がそう言い終わるや否や、なぜか孔明の表情がふっと翳った。

「……その時は本気でも、いずれそれは恋でなくなるんでしょう? 私を好きになってくれても、どうせまた、たくさんの女性にも本気になるんでしょう?」

 空気をかすかに震わせるような声で孔明が独り言のように囁いた。
 蚊の鳴くような声より更に小さな呟きは、元譲と雲長はもとより孔明の目の前にいる孟徳の耳にすら届くことなく、さわやかな風にかき消される。
 孔明が何かを呟いたことに気づいても彼女の唇はかすかにわななきを見せた程度で、その台詞を唇の動きから読み取ることは、さしもの孟徳ですら不可能だった。

「孔明。今、何て言ったの?」
「つまらない独り言です。どうぞお気になさらず」
「そんなふうに言われたら、余計に気になるなあ」

 あの呟きを漏らした時の孔明は諸葛孔明ではなかった。否、諸葛孔明らしくないと孟徳は感じていた。

「あなたは誰より大人でいて、誰よりも子どものような方ですね」

 自分の不用意な行いで孟徳の好奇心を刺激しまったことを恥じ入るかのように、そして、何が何でも教えろとごり押ししない代わりに素直に引く気配も見せない孟徳に、孔明が苦笑う。
 仕方なく孔明は、先ほどの呟きの代わりとなりそうな餌を孟徳に与えることにした。

「生憎、先ほど自分が何を呟いたかは忘れてしまいました。その代わりにと言ってはなんですが、とある少女の愚かな恋物語をお聞かせいたしましょう」
「それはさっきの呟き以上の価値がある話?」
「たった今お話しさせていただきましたように、先ほど自分が何を呟いたか忘れてしまいましたので比べようがございませんが、こちらの話は私の恋愛観に多大なる影響を与えた話とだけ申し上げましょう」
「……いいね、面白そうだ」

 ぜひ聞かせて。
 そう言って、孟徳は孔明を見据えた。





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