孟徳(軍)+花 (三国恋戦記)


 賢人諸葛孔明の弟子で少し前まで劉玄徳の元でにわか軍師をしていた経歴を持つ山田花は、長坂橋で捕らえられて以降、敵の総大将である曹孟徳に気に入られ、孟徳軍で捕虜というよりむしろ賓客扱いで日々を過ごしている。
 優しくされ、よくしてもらえば、当然情もわく。もともと花は戦に巻き込まれただけで孟徳個人に対して何の悪感情も持っていなかったし、なにより曹孟徳という人物は実に気さくだ。
 その戦にしても、今日攻められる側が明日攻める側に転じることが珍しくないご時勢においては一概にどちらか一方だけが悪いと判断できるものではない、と花は考るようになっている。
 花は徐々に孟徳に親しみ――そこには幾ばくかの葛藤や事情があったものの――最終的に自らの意志で玄徳軍への帰還を拒み、孟徳のそばに留まることを決めた。
 そして、孟徳に正式に仕官することはできないけれど玄徳軍にいた時と同じように世話になった人たちの役に立ちたいとの申し出が認められ、少し前に孟徳軍に付き従って襄陽からここ江陵に移動してきたところだ。

 そんな、ある日の午後。
 丞相曹孟徳、その側近中の側近と言われる尚書令荀文若と将軍夏侯元譲。現在の漢帝国を実質的に動かしていると言える三人の男たちが城の一角にある東屋にて、花を中心にして卓を取り囲んでいた。
 男たちは普段どおりの様子で――一人はご機嫌顔で、一人は気難しい顔で、一人はいかつい顔で――それぞれに頬を掠めていく穏やかな風を感じ、茶を飲みながら花の話に耳を傾けている。
 花が彼らに語っているのは師から学んだ兵法ではなく、次の戦に向けた策でもなく、彼女の故郷ではおそらく最も有名だろうと思われる長編古典小説である。
 九天九地盤が御伽噺を記した書物でないと打ち明けられた後も孟徳は執務の合間を見つけては花を庭に連れ出し、物語をねだり続けた。
 この日も休憩と称して花と東屋で寛ごうとしていた孟徳のもとに彼の決裁を求めて文若と元譲がやってきたことが、おっさん三人と女子高生一人という異色の組み合わせの朗読会を生み出すきっかけとなった。
 幸か不幸かあとは丞相の決裁さえもらえば文若と元譲の本日の仕事は終わりで、孟徳は花の話を聞くまでは仕事に戻らないと言い張った結果である。
 予定外に東屋に居座らねばならくなった部下二名以上に困ったのは、実は花だった。何かにつけて好奇心旺盛な孟徳はともかく、良くも悪くも真面目で遊び心のなさそうな文若と元譲が子供向けの御伽噺を喜ぶとは思えない。もっと言えば、元譲には呆れられ、文若には怒られそうな気がしたのだ。
 ならば今回は御伽噺ではなく何か高尚と言われている文学作品を……と考えた結果、花が選んだのは「源氏物語」だった。
 時の帝の第二皇子に生まれ、誰もが羨む美貌と才覚を持ちながらも母の身分が低かったために臣籍に下ることになった男の波乱に満ちた生涯と、その子や孫世代までを描いた一大絵巻である。
 古典の教材に使われることも多いから、現代日本人にとっては多少なりとも馴染みのある作品だ。
 花も最初から最後まで完全に内容を把握しているわけではないけれど、源氏物語愛好家だった古文教師から特に熱心な授業を受けたおかげで物語の大筋や登場人物はだいたい覚えている。
 中でも花は、特に有名なエピソードを抜粋し、異国の男たちに話し聞かせた。
 光源氏の両親である帝と桐壺更衣の悲恋。光源氏の誕生。光源氏と、亡き母に瓜二つと言われる、光源氏にとっては継母にあたる藤壺女御との悲恋。その果てに生まれた不義の子。藤壺の姪で、藤壺の面影を宿した幼い少女――後に紫の上と呼ばれる運命の女性との出会い。
 そして、光源氏の数え切れないほどの華々しい恋愛遍歴に政治絡みの陰謀と権力闘争。
 本当ならそれ以降も話は続くのだが、光源氏と呼ばれる男が臣下としての最高位を極め、そして没するところで、花はとりあえず話を終了した。

「なかなか興味深い話だったね」
「そうですか?」

 茶器を置いて、最初に感想を述べたのは孟徳。
 彼は堪能したようだ。終始興味深そうな顔を崩さなかったし、今も満足そうな様子がうかがえる。

「昔の作り話だとは思えないほど、よくできた内容だと思うよ。主人公を取り巻く権力図が妙に現実的で生々しいところとか。登場人物たちの立場や心理もすごく緻密に描かれているよね」

 なあ、と同意を求めるように部下たちに視線を向けると、生真面目な二人は揃って頷いた。

「そうですね。光源氏という男の女性関係についてはどうでもいいですが、当時の政治体制や習俗が随所に見られるのは興味深いかと」
「たしかにな。俺は本来政治の駆け引き的な話はあまり好かんのだが、自分の養女と親友の娘のどちらが帝の正妻になるかをかけた対決などはなかなか面白かったな」
「そう、ですか」

 全員から好感触を得たにも関わらず何やら考え込むようにして黙り込んでしまった花に、孟徳が首を傾げた。

「花ちゃんはこの話が嫌いなの?」
「嫌い、というか。……そうですね、人様に聞かせておいてなんですけど、あんまり好きじゃないかもしれません」
「どういうところが?」

 男たちは皆、先程の感想で示したように、源氏物語に対して一定の評価を下している。一見すると光源氏の華々しくも情念に満ちたある意味くだらない色恋話に見えて、常にその裏に付きまとう宮廷内での権力図に、学術的かつ政治的な資料としての価値を見出したからだ。
 特に政治だけでなく芸術や学問にも造詣が深い孟徳にとっては、光源氏の多種多様な恋愛模様ですら新鮮で、興味深く楽しめた。今この物語の作者が目の前にいたならば即刻褒美を取らせているだろうほどに。
 完全なる満点評価とはいかずとも男たちにとっては斬新で興味をそそられる物語だったのに、花は何が気に入らないというのだろうか。孟徳だけでなく文若と元譲もそれが気になり、彼らの視線が花に注がれる。

「光源氏が苦手なんです」
「彼は帝位にはつけなくても権力があって、政治家としても風流人としても男としても一流だったんでしょ? 女の子なら普通、そういう男に惹かれちゃうんじゃないの?」
「たしかに光源氏はすごい人だと思うし、女の人たちにももてたみたいですけど、私はこんな男の人、好きになれそうにありません」
「どうして?」
「だって、好き者じゃないですか」

 花に注目していた三人の男たちが固まる。
 まだ短い付き合いでも、花が素直な気質だということは皆分かっていた。分かってはいたが、それにしてもあまりに直球すぎる言葉が飛び出したことに少なからず驚いたのだ。
 恥じらいが女性の美徳とされるこの国においてそれは、普通であれば、うら若い娘が男の前で口にするような言葉ではない。

「あの。私、何かおかしなこと言いましたか?」

 花がきょとんとして男たちを見やる。
 花は名家の令嬢にこそ見えないが普通に女の子らしく、礼儀正しく、間違っても蓮っ葉な性質ではない。
 今も花がいたって真面目に話をしていることは明らかで、一般的にはしたないとされる言葉を口にした自覚が本人にないことは男たちにもすぐ知れた。おそらく花の育った国では女性のこういった言葉がさほど問題にならないのだろうことも、察しの良い男たちは察することができた。
 実際孟徳たちは少々驚きはしたが、不思議と花の言葉を下品だとは思わなかった。花の生まれ育った環境がそうさせたのか、それとも花の人徳なのかは、分からないけれど。
 いちはやく孟徳が我に返り、花を安心させるように笑顔を浮かべた。

「ううん、おかしくないよ。それより花ちゃんの意見をもっと聞かせてくれる?」

 この国の女性なら、少なくとも身分ある男たちの前であんなにあけすけな言葉を、しかもあんなにきっぱりと言い放つ者はいない。
 だからこそ孟徳は、この国の女性にはない感覚を当たり前のように持っている花を遮らず、続きを聞きたいと思った。思いがけない発想をする少女の口から次はどんな言葉が飛び出すのだろうかと、わくわくと胸が高鳴るような心地ですらあった。
 ……のだが、このすぐ後、――これは孟徳限定の話であるが――花のあまりに忌憚のない意見を聞いてしまったことを後悔することになる。

「だって、ひどいです。お父さんの奥さんに恋してしまったのは仕方ないとしても、その人の面影があるからって一方的な理由でまだ世の中の常識も分かってないような女の子を攫った上に、自分以外に頼る人間のいない環境に押し込めて、言葉巧みに丸め込んで、自分好みに教育して、選択権も与えないまま自分のお嫁さんにしちゃうなんて。光源氏の術中にはまってまんまと奥さんに、いえ、正式な奥さんじゃないんだから愛人? ――にされちゃった紫の上が可哀想じゃないですか」

 そう言ってしまっては身も蓋もない、辛辣とすら言える花の言葉選びにも驚かされたが、男たちはそれ以上に、今更ながらにあることに気づいて押し黙る。
 世の中の常識も分かっていないような女の子を攫って、自分以外に頼る人間のいない環境に押し込めて、言葉巧みに丸め込んだ権力者の男。
 男の術中にはまって選択権も与えられないまま、まんまと愛人――妾にされた娘。
 つい最近、似たような話を身近なところで見聞きしたような気がしたからだ。

「…………」
「…………」
「…………」

 奇妙な沈黙をよそに、花は呆れと苛立ちを滲ませながらぼやき続ける。

「そうやって理想の女の人を手に入れたはずなのに、光源氏の女好きの病気は一向に治らないし」

 言っているうちに気持ちが高ぶってきたのか、普段は可愛らしいハの字型の眉が徐々に険しくなってきていることに、はたして花は気づいているだろうか。

「最初の奥さんの葵の上だって夫の浮気相手に呪い殺されたようなものだし、その浮気相手だって本来は非の打ち所のない淑女だったはずなのに光源氏の女癖の悪さに悩まされて結局不幸になって。あと、その時は知らなかったにしても親友の昔の恋人と関係したり、政敵の娘に手を出して流刑されて紫の上を悲しませた挙句、流刑先でも現地妻を作って子供を生ませたり。最終的には手を出さなかったにしても、養女にした昔の恋人の娘をいやらしい目で見たり」

 とにかく最低です、と言い切った花に半ば呑まれたかのように、男たちは沈黙を保ち続けていた。というより、口を挟む余地がなかった。

「最後の最後に、藤壺の姪だってことに目がくらんで女三宮を正妻にしたのもひどすぎます。それまでどんなに光源氏の好色ぶりに心を痛めていても実質的に本妻扱いされていたことを拠り所にしていた紫の上を裏切って、傷つけて。その後も、自分は浮気し放題なのに、女三宮が浮気したら激怒したりとかも、自分勝手すぎますし」

 結局その女三宮にしても光源氏の期待に反して彼のお眼鏡にかなわず、幸せとは言いがたい結末を迎えることになるのだ。

「だいたい、あの時代はそれが普通だったのかもしれないけど、たくさんの愛人を同じ屋敷に一緒に住まわせるなんてのも信じがたいです。無神経です。私のクラスメイトの男の子たちはハーレムみたいで羨ましいなんて言ってましたけど」
「くらすめいと、はーれむ、とは何だ?」

 すかさず質問した文若に、花は「私の国の言葉です」と謝罪とともに説明をした。クラスメイトとは学友のことで、ハーレムとは一人の男性がたくさんの女性を囲う場所を言うのだと。そして花の国では一般的に、男性はともかく女性は特に、ハーレムを破廉恥なものとして捉えているのだと。

「…………」
「…………」
「…………」

 またしても男たちの間に微妙な空気が流れる。
 賢明な男たちの脳裏には今、花の国の婚姻制度について、ある一つの可能性が思い浮かんでいた。
 文若と元譲がちらりと孟徳に目をやると、孟徳はどこか気まずそうな、居心地が悪そうな、困惑しているような――どんな時も飄々とした態度を崩さない男にしては珍しく、なんとも形容しがたい複雑な表情で黙りこくっている。
 そんな中、元譲がごほんと咳払いし、おそるおそるといった感じで口を開いた。

「あー……、花。その、少し訊いていいか?」
「何ですか?」
「お前、兄弟はいるか?」
「いますよ、弟が」
「何人だ?」
「一人です」
「母親は同じか?」
「? 勿論です」

 何が言いたいんだろうと不思議顔の花に元譲はそれ以上問うことをしばし悩む素振りを見せたが、最終的には腹をくくって切り出すことにした。

「お前の父親にはお前の母親以外に妻や妾はいないのか?」

 その一言に花の顔つきが一変した。

「いくら元譲さんでも、ひどいです! 言っていいことと悪いことがあります! 私のお父さんは好き者じゃないし浮気なんてしませんっ!」
「す、すまんっ!」

 語気を荒げた花に気圧され、ほとんど反射的に元譲が頭を下げた。

「ち、違うんだ、決してお前の父を侮辱したわけじゃなくてだな。その、なんというか……。いや、本当にすまないっ」

 元譲は何とか弁明しようとするが、口下手な武人ゆえか花に涙目で睨まれて焦っているせいか、しどろもどろになるばかりでどうにもうまくいかない。
 それを見かねて文若が小さなため息をつきつつ助け舟を出した。

「たしかに尋ね方はよくなかったかもしれないが、元譲殿に悪意はない。元譲殿はお前の国の婚姻制度について確認したかっただけだ」
「……婚姻制度、ですか?」

 花は頭の悪い娘ではない。文若の言葉から元譲が尋ねたがっていることに思い当たり、すぐに落ち着きを取り戻した。

「最初に言ったように源氏物語はかなり昔の物語なので、今とは事情が違います。今の私の国では私の家族に限らず、全ての人が夫一人に妻一人と法律で決められています。どんな肩書きを持つ人だろうと例外はありません。既婚者の浮気は現実にはないわけじゃありませんけど、してはいけないことで、特に政治家なんかに愛人がいることが発覚したらその地位を追われることだってあるんですよ」
「……妾の存在が発覚したら失脚、か。それはまた、ずいぶんと厳しいね……」

 片頬をわずかに引きつらせながら呟いた孟徳を無視して、文若が口を挟む。

「では、妻に子ができなかった場合はどうするのだ。家が途絶えるぞ」
「その時は仕方ないと諦めるしかないです。中には、よそから養子を迎えたり、奥さんと離婚して新しい人と結婚する人もいるみたいですけど……」
「なるほど、割り切っているな。所変われば法どころか考え方もここまで違うものなのだな」

 顎に手を当て、感心したように文若は呟いた。
 そして文若と元譲は確信した。この国の権力者はその血を残すために多くの女を娶ることが当たり前だという事実を花が知らないということに。
 そして、先日行われた宴で、自分が孟徳の妾としてお披露目されたという事実に花が気づいていないということに。
 ――それより何より、孟徳の今後が前途多難だということに。

 人が長年培ってきた常識と価値観は、そう簡単に覆るものではない。
 花が今気づいていない、自分に関わる様々な事実に気づいた時、どうするのだろう。そしてまた、孟徳はどうするのだろう。
 のほほんとした花と、少なからず動揺しているらしい孟徳を交互に見比べながら、文若と元譲はやがて訪れるであろう嵐に自分が巻き込まれないことをひたすら願うのだった。


 その後全てを知った花が真の意味で孟徳と心通わせ孟徳のものになるまで、女にかけては百戦錬磨の曹孟徳にあるまじき長い時間を要することになるのを、彼らはまだ知らない。






女の本音と前途多難な男

(2011/04/20)







(ちょっとした補足)
この時代の貴族は通い婚が主流だったようですが、光源氏は自分の邸に寵をかけた女性を集めて住まわせたというエピソードがあるので、細かい時代考証はスルーでお願いします☆


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