「この僕に感謝している、だって? ……フフッ」
自室に戻り寝台に腰を下ろした途端に、乾いた笑いがこみ上げてきた。とんだお笑い種だ。本当にとんでもない人選だった。いっそ今から彼の目の前で僕の正体を曝し、それに驚愕するであろう姿を眺めて大笑いしてやりたいくらいだ。
――ねえ、ジーク様。知らぬこととはいえ、貴方は姫に対してひどく罪なことを僕に請うたのですよ?
姫が悩んでいると彼は言ったが、それは正しくもあり、でもきっと、少し違う。悩みという言葉で一括りにできるような単純な心境ではない。疑念、不信、不安、恐怖、嫌悪、絶望、憎悪などと言ったほうがしっくりくるだろう。
他にどんな表現があるだろうか。どんな言葉であれ、それは全て負の感情であることは間違いなくて、さらに言うならば、それらを彼女に植え付けたのはこの僕。それらの感情が向かう先も全てこの僕だ。
その僕が姫を慰めるなんて、それこそ傷口に塩を塗りこむような所業に等しい。そんな僕に感謝して頭まで下げるなんて、本当に愚かで、本当に皮肉で、本当に滑稽だとしか言いようがないではないか。
姫と僕との間に隠された真実を知ったならば、いかに温厚な彼であっても僕に掴みかかる程度のことでは済まさないだろうに。
姫の僕に対する気持ち? ――もちろん、気づいていましたよ。
「彼女は僕を愛していた」なんて言うほど厚顔ではないけれど。
こと私的なことに関しては自分の感情に素直すぎる彼女が僕に向ける純粋な好意。幸か不幸か、それに気づけないほどには僕は愚鈍ではなかった。
いつの頃からか、彼女の瞳はいつも僕を追っていた。どうしてそれに気づかずにいられようか。
何故なら、僕の瞳もまた、それよりずっと以前から、いつも彼女だけを追っていたから。僕を振り返ってほしい、僕だけを見つめてほしいと祈るような気持ちで、そしてそれをおそらく隠しきれていなかったであろう瞳で、彼女を見つめ続けてきたのだから。
そんな僕の視線に気づいて彼女が僕を意識しだしたのか、それとも他に理由があったのか、それは知らない。だけど彼女はたしかに僕を振り返り、僕を見つめてくれるようになった。
しかし今思えば、それこそが災いしたのかもしれない。
人間の欲望には果てがない。今まで何物にも執着したことがなかった僕は、彼女と王宮で再会して初めてそれを理解する羽目になった。
僕を振り返ってほしい。最初の願いは本当にそれだけだった。願いはやがて叶い、彼女は僕を振り返ってくれた。最初はそれだけで満足だと思っていたはずなのに、今度は僕に微笑みかけてほしいと願うようになった。そしてそれが叶うと、またその次を求めたくなった。
――もっと、もっと。
涸れ果てることを知らず、想いは湧き上がってくる。
――もっと、もっと。
彼女の愛が、彼女の全てが欲しい――、と。
叶わぬことと知りながら、浅ましくも願ってしまった。そして日に日に想いは激しさを増していくばかりで――……どうしようもなかった。
だけど彼女の僕に対する想いは本当の僕を知らないがゆえの想い。彼女が想いを寄せていたのは、僕であって、僕ではない。上品で優しい宮廷楽士を演じていた、偽者の僕なのだから。
しかもそれはきっと、恋に恋する少女が抱くような、淡く幼い恋心。もしかしたら彼女自身、自分の中にそんな気持ちが芽生えつつあったことすら気づいていなかったのかもしれない。そんな、ささやかな想い。
そんな汚れなき愛すべき姫君に、実質拒否権のない卑劣な取引をもちかけた。その美しい精神に見合った、いまだ男を知らなかった身体を無理やり押し開き、激しく揺さぶり、苦痛と快楽に啼かせた。
僕を信頼しきっていた彼女を最も残酷な形で裏切った。
――僕が、穢した。
そんな僕が、どうやって彼女の傷を癒せるというのだろうか。大切なお姫様を励ましたい彼のお優しさは、かえって彼女の傷を抉るだけだ。
「『貴方が姫を、少しでも憎からず想ってくれているのなら』……か」
そんな簡単な言葉で、今この瞬間もこの身を支配し続けている熱情を片付けられはしない。今にも体を突き破ってしまいそうなこの狂おしい想いを、そんな言葉で片付けてほしくはない。
その程度で片付けられる想いならば、あんな手段には出なかった。
決して手の届かない愛しく高貴な花。
決して想いが叶うことがないのであれば、仮初にでもいい、せめて一夜だけでもと願わずにはいられなかった。ようやく手に入れた彼女の微笑みを失うことになろうとも―――求めずにはいられなかった。
「姫……」
彼女を思いながらあの夜彼女に触れた手のひらを眺めてみると、どうしようもなく穢れきっていたこの手が、あの夜以来、浄化されたような気がした。
手だけではない。清浄な彼女に触れた場所全てが、彼女によって清められたような気がする。
自分は彼女を穢しておきながら、僕自身そんな自分を嫌悪していながら、それでも至福を感じずにはいられないなんて。なんと身勝手で浅ましいことか。
「本当に愚かだな、僕は。救いようがないよ」
僕はその手をぎゅっと握り締めた。――痛いほどに。
そして、そこにそっと口づける。――痛いほどに、彼女を想って。
「姫……」
建国祭から今日までの間、王子の教育時以外では姫とは顔をあわせていない。国王一家暗殺の依頼人を探るため、可能な限りの時間を作っては秘密裏に行動していたからだ。
今はまだ、一族は動かない。僕の裏切りはまだ灰色の段階であって、彼らが僕を黒と、もしくは限りなく黒に近い灰色だと判断を下すのはもう少し先の話だ。
自惚れるでもなく僕は一族にとっては使える手駒であり、できることならば彼らは僕を手放したがりはしないだろう。もちろん、灰色のまま僕を放っておくほど一族は甘くはないが。
今はまだ大丈夫。だがしかし、そう遠くない未来に一族は動く、確実に。だからこそ自由に動ける今、一つでも多くの情報を集めておきたかったのだ。
だが。
それはただの口実で、本当は彼女に逢うのが怖かっただけなのかもしれない。建国祭の夜、僕のことを信じてくれますかと問うた僕に、彼女は言った――「貴方のこと、信じるわ」と。だけどいざ二人きりになった時、彼女にそれを否定されるのではないかと恐れていただけなのかもしれない。
だけど、嬉しかった。もしもあの時、彼女を脅かすものが何もない状態であったならば、あのまま自分の命を絶ってもかまわないと本気で思ったくらいに、あの言葉は僕を酔わせた。
あれがそのまま彼女の本心なのだと都合よく思い込めるほど馬鹿じゃない。だけど、それでもかまわなかった。
僕を信じると言ってくれたその言葉が、どれほどの威力をもって僕を貫いたか、彼女には分かるまい。彼女の言動の一つ一つがどれほどまでに僕を一喜一憂させ、どれほどまでに僕の魂を揺さぶっているのか、彼女には分かるまい。
僕が不在の間に、姫がこの部屋を訪れたかどうかは定かではない。
――いや。
僕を見張るために、あるいは「僕のものになれ」との約束を律儀に守るために、きっと彼女はここを訪れていただろう。僕は確信に近い気持ちでそう思う。
その魂に宿る恐怖や嫌悪感を無理やりに抑えつけてでも、弟の身を守るために、ただそのためだけに。
自分を犠牲にしてでも国と弟を守ろうとする。それが彼女なのだから。
そして今日は土曜。
調べられることは調べつくしてしまった僕と、王子の教育が休みの姫と。おそらく、二人ともに時間をもてあましている休日。
――姫は僕を訪ねてくれるだろうか……。
そう不安と期待の入り混じる思いを抱えながら、自室の扉をどれほどの間、眺めていただろう。
そして――……
今はまだ閉ざされた扉の向こうに感じたのは、愛しくて愛しくてどうしようもない人の気配。
刹那、心臓が大きく跳ねた。
少しの躊躇いが感じられる間の後に、控えめなノックがした。
――彼女が、来た。この僕に、逢いに。
彼女がどんな顔をして僕に接するのか、正直怖い。だけど恐怖を感じると同時に、それ以上の幸福感がこの身を包みこんでいくのを僕ははっきりと感じていた。
彼女のことが、泣きたくなるほどに愛しくてたまらない。
僕の存在は彼女を傷つけるだけだと分かっているのに、彼女はきっと僕には二度と微笑んではくれないだろうことも分かっているのに、それでも僕に逢いに来てくれたことがこんなにも嬉しい。
それを彼女自身が義務だとしか思っていなくても――この身に湧き上がる熱い想いは言葉では表現できそうにない。
「――リオウ。今、いいかしら」
ずっと聴きたかった声だった。凛としてしかし穏やかで。涼やかでいてしかし温かくて。美しさの中にも愛らしさを感じさせる、僕の大好きな声。
その声で、「リオウ」と。
あの夜以来、初めて僕の名を呼んでくれた。王子の教育の付き添い時でさえ、ただの一度も僕の名を呼んではくれなかった姫が、僕の名を――。
「リオウ。……いないの?」
その声が僅かに落胆と寂しさを孕んでいるように聴こえたのは、きっと僕自身の願望なのだろう。
そんな自分をほろ苦く思いながらも、僕は慌てて扉へと向かった。僕が全てを捧げる、唯一無二の存在を迎え入れるために。
「申し訳ありません、姫。すぐにお開けいたします」
彼女をこれ以上怯えさせないように毒のない宮廷楽士の笑顔を貼りつけ、僕は誓いを新たにする。
これ以上彼女を悲しませるような真似は、誰にもさせない。この僕自身を含めて、もう二度と。
約束はきっと守るから、だから。
全てが片付くまででいい、僕を憎んでくれていい。だから、それまでは、僕の傍に。
――どうか、僕の傍に。
たとえ許してもらえなくても、僕は彼女を愛することを止めないだろう。僕の魂が、彼女を求めてしまうから。
――魂が、彼女を求めてやまない。
(2006/01/28)