これから先も、君の眠りが脅かされることがないように。
まだ夜は深い。
灯りを落とした部屋はしかし完全な闇に包まれているわけではなく、カーテンの隙間から差し込む柔らかな月の光が、寝台で眠る人の姿を仄白く照らし出していた。
隣で小さな寝息を立てて眠っているのは、僕に、愛し愛されることの喜びを教えてくれた、この世でただ一人の人だ。美しくもあどけない寝顔はまるで子どものようで、これがほんの数時間前にはあれほど甘く切なげな表情を見せていた人物だとは、俄かには信じがたい。
僕は頬杖をつきながら、その寝姿を眺め続けていた。どれだけの間、そうしていたか分からない。他に何をするでもなく、飽くことなく姫をただ眺めるだけ。
そんな無為なはずの時間は、僕にこの上もない安らぎをもたらしてくれる。
姫は知らないだろう……そうすることが僕にとって、彼女と過ごす夜の、半ばお決まりの行いになりつつあるということを。
このことを知れば、姫は呆れ果てるだろうか。困った顔をして、あるいは怒った顔をして、僕を咎めるだろうか。
その様子を想像して、それも悪くないと本気で思ってしまう自分に呆れてしまう。
――重症だ。
人間らしい感情など持ち合わせていないと思っていたこの僕が――。
こんな事態を、一体誰が予想できただろうか。もっとも、この状況を最も信じがたく思っているのは、きっと僕自身なのだろうと思う。
ほんの数ヶ月前までは……姫に見つめられるたび、名を呼ばれるたび、微笑まれるたびに心がざわめき、体が未知の熱に支配されていくことに戸惑い、苛立ちもしたものだったのに。
けれど、気づかないわけにはいかなかった――日を増すごとに甘く切なく僕を蝕んでいくそれこそが、恋なのだと。
そして認めざるをえなかった――僕は姫を愛しているのだと。
僕の細胞の全てまでを冒し尽くしてしまったこの熱病は、きっと一生治ることはない。命の尽きる最後の瞬間まで、僕は彼女という熱に浮かされ続けるのだろう。
他人に干渉されるのが何よりも嫌いで一人でいることを好む僕が、今は一分一秒をも惜しんで姫のそばにいたいと願っている。
彼女だけだ。そばにいたいと思うのも、そばにいてほしいと思うのも。
僕の中で生まれた、たった一人の例外――それが姫だ。
一介の宮廷楽士に過ぎない僕と、一国の王女である彼女と。
暗殺者である僕と、その標的だった彼女と。
本来なら決して結ばれるはずのない二人だった。許されるはずのない恋は――たとえ誰が許さずとも誰にも邪魔させるつもりはないけれど――露見してしまえば厄介なことになる。
全てが決着していない今はまだこの関係を誰にも知られるわけにはいかず、僕たちの逢瀬はもっぱら人目の少ない夜更けから夜明け前までに限られてしまう。
ほんの数時間。
この限りある時間が、何物にも変えがたい貴重なものとなるのだ。
この時ばかりは、僕は偽りの宮廷楽士でも非道な暗殺者でもなく、姫を愛するただの男に戻り、姫もまた、王女ではなく、ただの女に戻る。
同じベッドで眠るようになってからまだ日が浅いけれど、このひとときが目に見える幸せを、そして姫のぬくもりがこの手で触れて確かめることができる幸せを実感させてくれるのだ――これは夢でも幻でもないのだと。
姫が本当に僕を想ってくれているのか不安だったこともある。全ては大切な弟を守りたいがためではないか、と。けれど、姫と二人きりで過ごす時間が、そんな不安を徐々に消し去ってくれた。互いに求め、求められる夜が、彼女の気持ちを僕に信じさせてくれた。
僕の隣で眠る姫の姿は――、どうしようもなく焦がれ、求めずにいられなかった姫が今この手の中にあるのだと、実感を伴わせて僕に思い知らせてくれるのだ。
「う……ん……」
僕の視線の先で、不意に姫が小さく身じろいだ。その弾みでシーツが肩口からわずかにずり落ち、それを直してやろうとシーツに手をかければ、むき出しになった肩口に、首筋に、胸の膨らみに、そして今はシーツに隠された全身のいたるところに残された赤い痕が露になり……それらは姫の白く透き通る肌によく映えているけれど……知らず、苦笑がこぼれていた。
その赤の多さは、数時間前の自分の熱情と所業をこの上なく赤裸々に物語っているからだ。その一つ一つにありったけの情熱を注いで姫に赤を刻んだ。肌に咲く赤い花は刻印――彼女が僕のものだという証だ。
もちろん姫に刻み込んだのはそれだけではない。姫を寝台と僕の身体の間に閉じ込めて、その唇から何度も何度も甘い啼き声を引き出してはその身体を揺さぶり、僕自身を深く刻み付けた……それも、最後に彼女が意識を手離してしまうまで。
今夜は特に、姫に無理をさせてしまったという自覚と申し訳なさがあった。姫は明日も朝早くから王子の教育の付き添いに励まねばならないと分かっているのに、それでも歯止めがきかなかったのは――何かを埋めるかのように彼女を貪ってしまったのは、気が焦っていたからかもしれない。
――僕に残された時間は少ないから。
もうすぐ、姫のそばを離れなければならなくなるから。
恐ろしいほどの恋情だと自分でも思う。こんな厄介な男に想われ、その男を想ってしまった姫を、正直、哀れに思うこともある。
もっと穏やかに、もっと奥行きのある愛し方のできる男のほうが姫には相応しいのだろう……だからと言って、他の男に姫を任せ、身を引くつもりなどないけれど。
本当はもっと違った愛情表現もあるのだろう。だけど、人を愛することが初めての経験である僕には、今はまだ、これ以外の愛し方は分からない。
けれどそれも、全てを終えて姫のもとに戻ってくることができたら、その時こそ死神は人間に生まれ変わり、きっとこれまでとは違った愛し方ができるようになると僕は信じている。
いや、戻ってくることができたら、ではなく、必ず姫のもとに戻ってみせる。姫こそが僕の帰る場所なのだから。
だけどそれまでは――。
僕は死神であり続けねばならない。
たとえこの手をさらに血で染めることになろうとも。
姫がそれを望まなくても。
姫が悲しむことが分かっていても。
――それでも、僕はまだ、死神として培ってきた全てを手放すわけにはいかないのだ。姫を脅かす全てのものを排除するためには、この力が必要不可欠なのだから。僕は、僕なりのやり方でしか、姫を守ることはできないから。
姫を守るためならば、僕は今以上に冷酷な死神にだってなれるだろう。
――必ず君を守ってみせるから。
そのためには常に感覚を研ぎ澄ませておかなくてはならず、僕はただでさえ少ない睡眠時間をこれ以上減らすわけにはいかなくなる。もっと姫の寝顔を見ていたいという名残惜しさを感じながらも、彼女の体を包み込むようにして素肌に閉じ込め直した。
深い眠りに落ちている姫は、すっぽりと僕の胸に納まったまま。
華奢で、頼りない体だ。僕の肌をくすぐる規則正しい寝息まで儚げで。
この腕に少し力を込めただけで、姫の脆い体など簡単に壊せてしまいそうだ――そしてそれはその命も同じこと。一族の暗殺者にかかれば、姫の命の灯など、いとも容易く消されてしまうだろう。
――だけど、そんなことはさせない。
そんなことは絶対に許さない。
僕は、姫のこの穏やかな眠りを守り続けたい。姫にとって眠りの時は、王族としての重圧と責務から解放され、素の自分に戻れる安息の時なのだ。
以前は、辛く悲しい夢をよく見ていたのだろう……僕と眠るようになってからも、時折両親と弟の名前を呼んではうなされていることがあったけれど、最近になってようやくそれも少なくなってきたところなのだ。順調に回復を見せた弟君が近々王位に就くのは間違いなく、それが姫の深層心理に好影響を及ぼして、悪夢を遠ざけているのかもしれない。
もう二度と、姫に悪夢を見せたくはない。彼女には、いつだって幸福な眠りに就いていて欲しいから。
だから――。
――君の眠りを乱すものは許さない。
僕が君の眠りを守るから、君は穏やかな夢路を彷徨っていればいい。
それこそが僕の役目、――それこそが僕の望み。
君の眠りが穏やかであるように。
これから先も、君の眠りが脅かされることがないように。
――全ては君のためだけに。
眠りの守り人
(2006/07/12)
(2006/07/12)