Liou+Princess (王宮夜想曲)


 女に気づいていないふりをしながら件の木陰に腰を下ろしたが、あえてこちらから声をかけることはしない。
 女が心身ともに淑女と呼ぶにはまだ少し早いであろうことは推測できていた。そんな小娘相手に救いの手を差し伸べてやらない自分を少々意地が悪いと思わないでもないけれど、だからと言ってこちらから折れてやる義理などないし、女にしても僕がやって来るところはずっと見ていたはずなのだから、声をかけてこないほうが悪いのだ。
 救いとなるかもしれない人物がやって来たことに安堵しながらも、やはり声はかけにくい……そういう心理状況なのだろう。貴族にあるまじき姿を見られるのが恥ずかしいのか、一介の楽士服を纏った男に頭を下げることをよしとしないのか――、女が実際にどう思っているのかは分からないが、なんとなく前者のような気がした。
 これといった根拠があったわけではないが、やはりこの女からは嫌な感じがしないのだ。いわゆる第六感。裏表があって一筋縄ではいかない人間たちばかりを幼い頃から見続けてきたせいか、この手の直感はよく当たる。

 それに――。

 頭上に感じる女の気配に、知らず唇が苦笑に近い形に歪んでいた。実際に女が身動きしていたわけではないのだが……きっと女は生来素直な気質なのだろう、その気配までもが素直で、女が逡巡し、まごついているのが手に取るように分かる。
 どうやら踏ん切りがつかないだけで、声をかける気はあるらしい――が。
 まだ時間がかかりそうなことを察して、僕はやれやれという思いで楽な姿勢を取り直した。このまま何もせず女の出方を待つのはつまらない、手慰みに笛でも吹くか、という気になったからだ。
 大声を出さなくても声が届く距離までわざわざ来てやったのだ、このチャンスを生かすも殺すも女次第――。
 そう、もしも女が自らこのチャンスを失うつもりなら、それはそれで別に構わなかった。それもまた一興。
 恩を売る計画は水に流れてしまうけれど、ある程度時間をかければ王族に近づく機会はこの先やってくるだろうし、そのようにもって行く自信もある。

 ――猶予は一曲。それ以上待たされるのは興がそがれる。

 心の中で一方的な宣告を下し、腰のベルトから笛を抜き取る。
 曲が終わっても女に動きが見られなければ、あとは勝手に上流階級の誇りとやらを貫いて、木から飛び降りるなりその結果大怪我を負うなり、好きにすればいい。選ぶのは女で、僕は暇つぶしがてら結末を見届けるだけのことだ。

 そして己の半身とも言うべき笛を唇に当てて、ふと思い至る……王宮入りして以来、楽士としてではなく自分から笛を吹きたいと思ったのが、今このときが初めてだということに。

「………」

 もともと楽を奏でるのは好きだ。この笛を吹いているときだけは、何もかもが洗い流されていく気がするから。そして宮廷楽士は所望されるままに楽を奏でるのが務めで、この笛は宮中で評価を勝ち取るための小道具。
 それは分かっている………しかし。
 求める旋律の美しさとは裏腹に腹黒い宮廷人たちを喜ばせるために音を奏でることは、この笛を僕自身が汚しているような気持ちにさせられて、どこか癪だった。
 もしかしたらその気持ちを引きずっていたのだろうか……誰のためでもなく自分のために演奏したいという欲求さえ、王宮入りして以来忘れていたような気がする。貴族たちをあしらうのは簡単でも、自分でも気づかないうちに彼らが撒き散らす腐臭に悪酔いしていたのかもしれない。

 それが今、ようやくにして一息つけたような気がした。
 別段、感謝の念を覚えたわけではないけれど、こうなったのは、ある意味この女のおかげと言えるのかもしれない……とは思った。女の突拍子のない言動によって、ある種の毒気が抜かれたような気分になったことは間違いないのだから。
 だからこそ、この女にならば素のままの僕の演奏を披露してもいいという気になったのだろう。これも気紛れついでだと思うことにして、僕は目を閉じ、笛に命を吹き込んでいった。
 僕の吐息と笛の力が合わさって、音色という、形がなくてしかし形がある一つのものが生まれ、その素朴な旋律は空気を震わせながら、緩やかにその場に流れていく。
 昔、東の国出身だという流浪の民から教わった、名前も知らない曲。
 僕は、技巧に走らないこの曲が一番好きだった。どこか懐かしさを感じさせられるのは、僕に流れているであろう異国の血が反応しているのだろうか。
 この曲を奏でるのは本当に久しぶりだった。この曲だけは他の貴族たちに聴かせてやるつもりはないから、当面はまた封印することになるのが少々寂しいところだが……やはり心が凪いでいく。この庭園で咲き誇る花々の美しさにも、今初めて気がついたような気がした。

 やがて曲は終了し、そっと笛から唇を離してから数秒。
 頭上からスタンディングオベーションのごとき勢いの拍手が降り注いだから、さすがに驚いた――と言うより、正直呆気にとられた。今まで声をかけることすらできなかったくせに……まさか、こうくるとは。
 そんなに叩いて手が痛くならないのかと尋ねたくなるほどの拍手からは、純然たる賛辞以外には何の思惑も感じられない。事実、掛け値なしの拍手を送ってくれているのだろうが……それにしても、なんと素直な反応を示すのだろうか。拍手をしたのも衝動的な行動だろうし、自分が置かれている状況など忘れてしまっているに違いない。
 この陰謀渦巻く王宮において、こんな分かりやすい性格で生きていけるのだろうかと半分呆れつつ、もう半分は微笑ましさに近いものを感じながら、苦笑したいのを必死にこらえ、しかし表情だけは「誰もいないと思っていたのに、突然の拍手にこれ以上ないというほど驚きました」というふうを装い、慌てた様子で頭上を仰いだ。

 そして、凍りつく―――。
 完璧に作り上げていたはずの、宮廷楽士としての表情も。
 頬を優しく掠めていた、暖かな春の風も。
 僕の視線も、喉の奥も、体も、その中を流れる血液さえも。
 僕を形作る全てが、僕を取り巻くこの世界そのものが、時を刻むことを止めてしまったかのように―――。

 『馬鹿な』

 頭に浮かんだのは、そのたった一言だけだった。頭は目の前にある事実を瞬時に理解してしまったのに、凍りついてしまった僕の感情がそのスピードに追いついていかない。

 木の上から見下ろす彼女と、木の下から見上げる僕と。
 これが、彼女と僕が初めて顔を合わせた瞬間……となるはずだった。
 だが、―――違う。

 年の頃は十六か十七くらい。淑女と呼ぶには今一歩の、あどけなさを残した美少女。
 赤みがかった髪と、見る者の目を奪わずにいられない、まばゆいばかりの琥珀色の双眸。

 ――馬鹿な。

 ありえない、こんな偶然があるはずがないと目の前の現実を強く否定したがる気持ちとは裏腹に、それを腹立たしいほど冷静に打ち消しているのも、他ならぬ僕自身だった。
 ――そう、僕が間違えるはずがない、あの輝きを……!

 幼い頃の、たった一度きりの邂逅。
 アーデンの地で攫われ、泣いていた小さな女の子。
 殺すことしか知らなかった僕が、ただ一人、どうしても助けてあげたいと願い、そしてこの手で逃がしてあげた女の子。
 今、思い出の中の幼い女の子と目の前の女の姿が一つに重なる。

 ――どうして………。

 その言葉が、虚しく脳裏に響く。
 あの時の少女が目の前にいる――どうして事はそれだけで済まされないのだろうか。
 どうして彼女が。
 どうして僕が。
 どうして―――。

 ……そう、僕は一目で分かってしまった、あの時の少女が何者であったのかを、そして今相対しているこの女が何者であるのかを。

 事前に肖像画で国王一家の顔を確認することを不要だと言い切ったのは自分だ。王侯貴族の肖像画は時として実物以上に美化して描かれ、正確な情報となりえないこともあるし、どのみち王宮入りすれば、彼らの顔を拝む機会など嫌でも訪れるはずだった。
 僕に与えられていた王女の情報といえば、赤みがかった髪と琥珀色の瞳を持つ、齢十七の美少女だということだけ。
 けれど、それがあの少女に結びつくことなどなかった――結びつくはずがなかった。たしかにあの少女は名のある家の娘なのだろうとは思っていたけれど、王都の、それも厳重な警備がなされている王宮にいるはずの王女が片田舎で誘拐されるなど、誰が想像できただろうか。

 今僕の視線の先にいる女本人が王女であると名乗ったわけではないが、彼女があの時の少女であり、そしてあの時の少女が王女であることを疑う気持ちは微塵もない。柔らかな美貌も、澄み切った瞳も、その身を包む高貴で優しいオーラも……僕の中で忘れえぬ記憶として息づいているものが、今、目の前にある。
 ――彼女こそが、あの時の少女だ。
 たおやかな彼女からは他者を圧倒するような威厳や風格は全くと言っていいほど感じられないというのに、そして今も淑女にあるまじき振る舞いをしているというのに、彼女の品格とでも言うべきものは何一つとして損なわれてはいない、……彼女には、常人には持ち得ない、冒しがたい何かが備わっている。
 ――彼女こそが、王女だ。

 僕は微動だにせず、視線は彼女に釘付けになったまま、密かに拳だけを握り締めていた、――爪が肌に食い込む痛みすら感じられないほどに、強く。もしかしたらそれは無意識だったのかもしれないけれど……今僕の全身を支配しようとしている「何か」――何に対してか分からない怒りともどかしさ、そして虚しさを、必死に打ち消そうとするかのように。
 たとえ目の前の出来事がにわかに信じがたくても、これは紛れのない現実……。いつまでも動揺しているわけにはいかない。「どうして」と問いかけたところで、それに答えてくれる者など、どこにもいないのだ。
 早く、いつもの自分を取り戻さなければならない。
 僕は自分にそう言い聞かせてから、もう一度だけ握り締めた拳に力を込めた。

 しかし――。

 どうして王女は僕から目を逸らさないのか。
 どうして、食い入るように僕を見つめているのか。
 僕の髪と瞳の色はこの国では目立つから、彼女が僕のことを覚えていたとしてもおかしくはない……。
 けれど、もしも僕のことを、そして僕たちがどういう人間であるかを覚えていたならば………僕は、指令が下る前に彼女の口を封じることになる。

 その張り詰めた沈黙を破るきっかけを作ったのは王女のほうだった。
 不安定な木の上から前のめりに近い体勢で僕を覗き込んでいたせいで、彼女の体がぐらりと傾いたのだ。
 「危ない!」という僕の咄嗟の叫びで我に返った彼女は、今更ながらに素っ頓狂な悲鳴をあげて幹にしがみついたのだが……注意力散漫に加え、本人は大慌てだったのだろうが実際にはもたもたした動きが妙に可笑しくて、それまでの切迫していた心が一瞬中和されたのだろう、僕は思わず口元を綻ばせてしまっていた。もちろんそれは一瞬のことで、すぐにはらはらした表情を作り直したけれど。

「あ、あの。こんなところからでごめんなさい。貴方のお邪魔をするつもりも、演奏を盗み聞きするつもりでもなかったのだけれど、その……」

 どうやら僕のことは覚えていないようだ。
 ほっとしたのに、反面、そのことに少しだけ落胆している自分がいることにも気づいていた。王女が僕のことを覚えていたなら、いろんな意味で面倒なことになるというのに……と自分の心を持て余しながら心の中で自嘲の笑みを漏らし、僕はけれど態度だけはあくまでも恭しい所作で腰を折って見せた。

「初めてお目にかかります、宮廷楽士のリオウと申します。こちらこそ姫がいらっしゃるとは知らず、姫を驚かせてしまい、申し訳ございませんでした。お怪我はございませんでしょうか」
「そんな! 貴方に謝ってもらうことではないわ、こんなところにいる私が悪いのですもの。それに怪我もしてないわ、心配してくれてありがとう」

 叶うならば否定してほしい――無理だと分かっていながらそれでも一縷の望みをかけて口にした『姫』という呼びかけは、呆気なく本人に肯定されてしまうのだから、やはり嗤うしかない。もはや試されているのかと思えるほどだ。
 ……試されている?
 誰に、何を?
 一族に、忠誠心を?
 それとも、運命とやらに? 僕がどこまでできるのか、情という情の一切を捨て去り、僕が本当の死神になれるのかということを――?
 あの少女との記憶は、もはや穢れだらけになってしまった僕の中で辛うじて綺麗なまま残されていたものだった。僕が持つことを許された……いや、僕が持つことを許されたと信じこんでいた、唯一の清らかなもの。

 ――その、たった一つ守りたかったものを、僕自身が壊すのか……。

 どのみち、国王一家の暗殺依頼を一族が請けた時点で王女の命運は尽きてしまっている。
 依頼人が依頼を取り消さない限りは、たとえ暗殺者が一度任務に失敗したとしても、たとえ一族の手駒が何人命を落とすことになったとしても、一族は一度請けた依頼は必ず完遂する。仮に僕が手を引いたとしても、僕は一族から始末されて、代わりの暗殺者が送り込まれるだけのことだ。
 王女は死ぬ、そう遠くない未来に。
 幕が上がってしまったからには、もう回避することは出来ない。

「……どうして私がこんなところにいるのか、訊かないの?」

 そんな僕の心中など露知らず、おずおずと声をかけてきた王女の無垢な表情がわずかに胸を突いたけれど、それを無理やりやり過ごして、僕は剥がれかけていた宮廷楽士の仮面を被りなおした。
 あまりに皮肉な巡り合わせに、自分らしくもなく動揺したことは否めない。
 ……それでも僕は暗殺者だ、それ以外の何者にもなれないし、なるつもりもない。相手が誰であっても、依頼通り標的の命を奪うこと――それが僕の使命、僕が存在するただ一つの理由――。
 だから、見る者を安心させ、その心を掴む笑顔を取り繕うのだ。そして王女に近づき、任務をまっとうする。
 それが今、僕が為すべきことなのだから。

「今日はとても気持ちの良い気候ですし、高い場所から、風を感じながら、この美しい庭園を見渡したくなるのも分かります」

 王女があまり深く追求されたくないと思っていることなど、明らかだ。ここにいるはずの警備兵がいないのは王女の仕業なのだろうから、彼女にとっては、やむにやまれない事情があったのだろう……きっとお転婆な性質はもともと持ち合わせていたに違いないけれど。
 だけど、お転婆ついでに今僕の目の前で王女に怪我などされてはかなわない。僕に非はなくても、王女に万一のことがあれば、その場に居合わせた僕までが責任を取らされかねない。そうなれば、王宮にいられなくなる可能性も出てくる。兵が戻ってきて騒ぎになる前に、早々に王女を木から降ろしたほうがいいと僕は判断を下した。
 最初は、兵を呼んできて彼らに木の上の女を救出させるつもりでいたけれど、相手が王女であれば話は別だ……直接僕が王女を助けて信頼を得れば、今後の仕事がやりやすくなるだろう。

「ですが、姫。まだ春先です、いつまでもそんなところにいらっしゃいますとお体を冷やしてしまいますよ。そろそろ降りられたほうがよろしいかと。幸い僕たち以外には誰もいないようですので今のうちに」
「それが……。降りたいのはやまやまなのだけれど……降りられなくて。申し訳ないのだけれど、私の侍従か典医を呼んできてもらえないかしら」
「残念ながらその時間はないと思いますよ」
「え?」
「顔見知りの兵士に聞いたことがあるのですが、夕方には巡回兵の勤務交替が行われるそうです。もうそろそろその刻限ですから、今から人を呼んでいては間にあわないでしょう」
「そんな……」

 『どうしよう』
 口に出さずともそんな思いがありありと顔に出ている王女に向かって両手を差し伸べると、僕が意図するところなど一つしかないはずなのに本当に意味が分かっていないらしく、心底きょとんとした様子で王女が小首を傾げる。

「……リオウ?」
「僕が受け止めます。飛び降りてください」
「……えっ……?」

 王女が驚きを隠そうともせずに目をしばたかせた。

「大丈夫です。こう見えて腕力には自信があるのです。絶対に姫を落としたりはしませんから」

 余裕のある顔を見せて、この程度のことは何でもないことだとアピールしてみせるけれど、王女は血相を変えて首を振る。

「駄目よ! この高さから落ちてくる人間を受け止めるだなんて、無茶だわ!」
「僕だって男ですよ? 姫のように華奢な女性を受け止めるくらいの体力と自信はございます」
「貴方の申し出は嬉しいけれど、やっぱり駄目よ。危ないもの」

 何かと頼りないくせに王女は驚くほどに強情で、この後も僕が大丈夫だと何度訴えかけても彼女は首を縦に振ることはしなかった。
 僕は並みの騎士以上の運動神経と体力を備えていると自負しているし、実際に王女を安全に受け止めることなど造作もないことだけれど、彼女からすれば僕は一介の楽士に過ぎず、ましてや僕は男としては細身なほうで屈強には見えない。加えてこの高さだ、王女が躊躇するのも分からなくもない……が、今はもたもたしている暇はない。
 ……ならば。

「困りましたね、もうすぐ兵が来てしまいますよ。姫が決断してくださらないのは、僕が頼りなく見えるせいでしょうか」

 あまりてこずらせてくれるなと内心で小さくため息をつきながら、表ではそっと半眼を伏せて哀愁を帯びた表情を作り、路線変更を図る。押して駄目なら引いてみるべきだろう。
 王女が僕を信用してくれないのは僕が至らないせいなのだと、王女ではなく自分自身を責めているかのような雰囲気を演出すれば、

「違うの! そうではなくて!」

 思ったとおり、彼女はさっと顔色を変え、大慌てでそれを否定しにかかる。
 今、王女のほうが、相手を落ち込ませてしまった自分の至らなさに歯噛みしたい心地になっているのだろう。彼女がそんなふうに思い込むよう仕向けたのは僕自身であるとはいえ……なんとも扱いやすいお姫様だと苦笑いしたくなる。

「では、飛び降りるのが怖ろしい?」
「それも、たしかにあるけど」
「それだけではない、と。では、どうしてです?」
「それは……、貴方が、楽士、だから」

 ……だから。それでは堂々巡りだ。
 やれやれ、本当に頑固だな……と思いながらさらに表情を曇らせてみれば、王女は今度はもどかしそうにかぶりを振る。

「だから、そうではなくて。……貴方の手が」
「手……ですか?」
「もしも私を受け止めた衝撃で腕や手を痛めてしまったら困るでしょう? あんな繊細な音色を奏でる指に万が一のことがあったら……。だって、その若さで宮廷楽士になるって、大変なことなのでしょう? 才能は勿論のことだけど、貴方はきっとすごく努力してきたのだと思うの。その努力の結果を私のせいで台無しにするわけにはいかないわ」

 裏表の感じられない、真摯な言葉だった。そして同時に、あまりに皮肉な言葉だった。

 ――僕の、手……?

 驚いたことに、王女が僕の申し出をあれほど頑なに拒んでいたのは、僕に不安を感じること以上に、そして飛び降りるのが恐いという以上に、第一に僕のことを考えてくれてのことだったというわけだ。何度も危ないからと言っていたのは、王女本人のことではなく僕のことだったらしく、王女が真剣に僕を案じてくれていることは疑いようがない。
 俄かには信じがたいほどの人のよさだ。おそらく彼女はもともと善良な魂の持ち主であることに加えて、可能な限り世の邪なるものから遠ざけられ、善良な人間たちに囲まれて生きてきたのだろう……真っ直ぐで、邪気の欠片も見られない。
 なんとも幸せで、なんとも愚かしく、なんともお優しいお姫様か。
 自分が苦境にあるときでさえ、他人を思いやる心を忘れない――その愛すべき美点は、あの頃から何一つ失われていない。

 ――君が綺麗なままでいてくれたことが嬉しい。
 ……ああ、だけど。

「……そのようなことを心配してくださっていたのですか?」
「『そのようなこと』なんかじゃないわ。楽士が演奏できなくなれば、即御役目御免で暇を出されることになるのでしょう? ……いいえ、暇を出される云々の問題ではなくて、あれだけの音を生み出す手なのだから、大事にしなくては」

 ――君が綺麗なままだったことが、こんなにもやるせない。

 胸にこみ上げてくる、笑いたくなるような、それでいて泣きたくなるような衝動を抑えるために、僕は俯いた……今にも砕けてしまいそうな仮面の下にある素顔の僕を、彼女から隠すために。
 どうやら僕と彼女は、とことん皮肉な絆で結ばれているらしい。

 ――君が大事にしろと言ったこの手は、君とその家族の命を奪うための手なんだよ?

 今、王女にそう言ってやりたい。
 そして、教えてやりたい、この手が今までどれだけの血にまみれてきたかを。この手で、どのようにしてそれを行ってきたのかを。
 この手は、人の命を奪うためだけにある。
 この手によって全てを奪われる運命にある彼女から、よりによってこの手を大切にしろと言われるなんて――これ以上の皮肉はない。

 ――僕の手が使い物にならなくなることを願うべきなんだ、君は。

 そう、言ってやりたい。

 いっそのこと、昔の面影など欠片も残らないほどに彼女が変わっていればよかった。驕りたかぶり、自分の思い通りにならないことなどこの世に何一つないと過信しているような醜い人間に成り下がっていてくれたならば……あの少女とのことは所詮は幻想にすぎなかったのだと、何の躊躇もなく、王女の命ともどもあの記憶をこの手で打ち砕くことができただろうに――。

『俺がそばにいないからって、情にほだされて浮気すんなよ』

 それは、僕が王宮入りする当日に、僕への餞別だと言ってジーンが冗談交じりによこした言葉だ。
 あいつの言うことなど真面目に聞いてやるのも馬鹿馬鹿しいと聞き流していたけれど、それが今、こんなにも耳に痛い。
 『情』。
 これほど厄介なものはないと、今、心から思う。これほどまでに僕が動揺させられのはもしかしたらこれが初めてのことかもしれないし、そもそも僕の中にいまだに「情」というものが存在していたとは思いもしていなかった。

 ――ああ、まったくだ。おまえの言うとおり、情なんて、持つものじゃない。

 ほろ苦い気持ちで笑ってから僕は顔を上げた。そして再び王女と真っ直ぐに対峙する。
 結局のところ、僕の感情がどうであれ、そして彼女が変わっていようがいまいが、僕は課せられた任務を果たすしかないのだ。
 いつまでも過去の思い出に囚われることなど、僕には許されない。
 たとえどれほど揺さぶられようとも、もう揺らいではいけない……僕には、迷うことすら許されないのだから。

「姫はお優しいのですね。でもその心配は無用です。僕は姫を必ず受け止めてみせますし、この手を駄目にして王宮を去るつもりもありません。……僕にはまだ、ここでやらなければならないことがあるのですから」

 ――そう、君とその最愛の家族の命のともしびを消し去るまでは、僕はここから去るわけには行かないのですよ。

「……じゃあ、お願いしても……いいかしら……」

 ――もちろんです。今君に何かあったら僕も困るのです。

「では姫。お気持ちの準備が整いましたら、いつでもどうぞ」

 ――僕の気持ちの準備は、もう整いましたから。

 心の中で皮肉りながら、にっこりと微笑んで再び両の腕を広げれば、そんな僕に対して彼女は全幅の信頼を滲ませた笑顔で応えてくれたから、柔和な微笑みの裏で、さすがに一言苦言を呈したくなった――そんなに簡単に人を信じるものではありませんよ、と。ましてや僕は、彼女からしてみれば、初対面のはずの人間なのだから、なおさらだ。
 今回に限っては僕をあっさりと信用してくれて有難かったのだから、自分でも身勝手な言い草だとは思うけれど、王女にはもう少し警戒心を持ってもらわないと困る。
 そう、困るのはむしろ僕のほうだ………彼女は僕の獲物で、僕は獲物を誰かに横取りされるつもりはないのだから――。
 王女はある意味大物と言えるのかもしれないけれど、僕に言わせれば、物を知らなくて無鉄砲なだけだ。僕以外にも王族の命を狙う者が現れてもおかしくないし、今この時点ですでに狙われている可能性だってある。
 けれどいかに王宮の警備が厳重であっても、肝心の王女がこうである以上、王宮内でも安全だとは言えまい。
 今思えば、王女がアーデンで誘拐されたのも、もとをただせば王女の行動に問題があったのではないかと疑いたくなるほどで、実際に、その推理は当たらずとも遠からずなのだろうと思う。

 ……もっとも、底抜けの善良さを持つ彼女だからこそ、あの日の僕が心動かされたのであろうことも、僕自身、分かっていたけれど。

「姫、そろそろよろしいですか?」
「じゃあリオウ、よろしくお願いします」
「お任せください」

 ――大丈夫。必ず無事に受け止めてあげますから。
 「その日」がやって来るまでは、君を死なせたりはしませんから。

 偽りの微笑みを浮かべたままの僕と。
 純真な微笑みを浮かべたままの王女と。
 そんな二人は改めて互いを見つめあい、最後の合図として、さらに微笑みを深くした。





 ――僕はこれから君を騙し、裏切り、最後にはその命を散らさなくてはならないけれど、これだけは約束しよう――必ず、一瞬で終わらせることを。
 たとえ依頼人の意志に背くことになったとしても、君だけは。
 恐怖も、痛みも、悲しみも、何かを感じる隙など与えずに。
 君に相応しく、綺麗なままで。
 ――それが、あの日の君のために僕が出来る、せめてものこと。


 僕たちの舞台は、遠いあの日からすでに始まっていたというわけだ。
 そしてこれが僕たちの第二幕の始まり。
 恋しさも、悲しさも、苦しみも、そして喜びも。
 何もかもが、ここから始まる――。





ここから始まる 〜Liou〜

(2006/12/12)




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