曹操+張蘇双 (十三支演義)


 張世平が曹操の屋敷を訪れた翌日の夕刻。
 黄巾賊の残党狩りを終えた十三支の代表者が報告に訪れたとの報せを受けた曹操が謁見の間に出向くと、そこには彼お気に入りの十三支の紅一点ではなく、その少女の育ての親でもなく、少女と見紛う美貌の若者が正座して待っていた。
 曹操は上座に腰を落ち着けると、冷めた目で彼を見つめているその若者に声をかけた。

「今日もまだ関羽は寝込んでいるのか?」
「……第一声がそれなの? ボク、今日の黄巾賊討伐の報告をしに来たんだけど」

 半眼になった金色の双眸には呆れの色がありありと浮かんでいる。
 曹操が見たところ、どうやら彼はその外見とは裏腹に可愛らしい性格はしていないらしかった。

「関羽は今朝から起き上がってるよ。けど、まだ本調子じゃないから陣屋で休ませてる」
「お前は、たしか……」
「乱世の奸雄であらせられる曹操様は比類なき頭脳の持ち主だって聞いてたんだけど、あれってガセだったの? それとも、ただの情報戦略? 少数民族であるボクたち猫族全員の顔と名前なんて、てっきり頭に入っているものとばかり思ってたのに」

 殊更意外そうに、殊更残念そうに。
 猫族の若者は嘲り混じりの笑みを浮かべながら、そう言った。
 たしかに少数民族とはいえ、曹操の下で戦っている猫族の数は三百を超えている。
 しかも曹操が直接部隊を指揮しているわけでもない以上、いかに頭脳明晰と誉れ高くとも彼が猫族全員の顔と名前を記憶しているはずがないし、その必要もない。
 それでもなお若者が曹操に不敬な態度を顕わにしたのは、自分たちを人間の戦に無理やり巻き込んだ彼に対する抑えきれない怒りのせいだ。
 頭の良い若者は、この件で曹操が彼を直接罰することはあっても、人質である劉備を害する可能性は低いと考えている。
 些細な挑発にもあっさり逆上して剣を抜くだろう夏侯家の二人とは違い、曹操はこんなことで猫族の離反を招きかねない事態を引き起こすほど浅慮ではないと確信しているからだ。
 曹操は猫族を単なる捨て駒としてではなく有益な戦力として用いたがっていると若者は見ている。
 劉備は猫族にとっての弱点であると同時に曹操にとっては猫族を思い通りに操るための大切な切り札でもあり、その扱いは慎重になるはず。
 だから若者は曹操にへりくだることなく、むしろ、あえて挑発的な態度をとった。
 彼には、劉備を曹操に奪われたのは自分の咎だという負い目もあった。
 だから、たとえ今この場で自分が斬りつけられることになったとしても、曹操の不遜な表情を少しでも醜く歪めることができるなら本望だとさえ思っていたのだ。
 しかし曹操は若者の予想に反し、鷹揚に口角を上げた。

「ああ、お前は男だったのか。あまりに愛くるしい顔をしているから声を聞くまで気がつかなかった。関羽の他にも女の十三支がいただろうかと悩んでしまったではないか」
「なっ……!!」

 若者の顔が紅潮し、羞恥に歪む。
 女顔であることが子供の頃からずっと悩みの種だった彼にとって、精悍な大人の男そのものの、しかも憎むべき曹操からそれを指摘されることは耐え難い屈辱だった。
 てっきり『お前のような小物の名など覚える価値はない』とでも言われると思っていた。
 そうしたら、鼻で笑いながら『それって便利な言い訳だよね』と返してやるつもりだった。
 それなのに全く思いがけない方向から切り返され、動揺させたかった男の前で、あろうことか自分自身が動揺を顕わにしてしまったなんて、悔しさで血が沸騰しそうになる。
 それでも曹操の前で醜態をさらしたくない一心で、若者は強く拳を握り締めて、なんとか心を落ち着けようとした。
 若者は曹操を睨みつけながら、吐き捨てるようにして名乗った。

「ボクの名は張蘇双だ」
「張蘇双……。昨日訪れた張世平の息子か?」
「ボクは甥だ。世平叔父は独り身だから子はいない」
「叔父の次は甥か。それで、お前は叔父に命じられてここに来たのか?」
「そうだよ、叔父は、よっぽどあんたの顔を見たくないみたいだった。ボクだってあんたの顔なんか見たくもないけど、代わりに張飛なんかを来させたらまともな会話が成立しないだろうから仕方ないでしょ」
「私の顔など見たくもないが、関羽と私を会わせるのはもっと嫌ということか。ご苦労なことだな」

 くっ……と、何やら含みを感じさせながら曹操の唇の端が僅かに上がる。
 曹操のそんな様子に蘇双の眉が寄った。

「ボクだって、たまには劉備様の無事をこの目で確認したいだけだよ。関羽をあんたの毒牙から守りたいと思ったのも事実だけどね」
「お前も関羽を劉備の妻にと考えているわけか」
「劉備様の妻?」

 蘇双は一瞬怪訝な顔をするが、すぐに持ち前の察しの良さを発揮した。

「あんた、昨日、世平叔父とそんな話をしたの?」
「ああ、お前の叔父が申していたのだ。十三支たちは皆、それを望んでいるのだろう?」
「正確に言えば、当人の劉備様と関羽を除いて一人、それに大反対しそうな男がいるけどね」

 ――姉貴はオレのお嫁さんになるんだ! なんせ、ガキん頃に約束したんだからな!
 昔から関羽一筋だった悪友の姿を思い浮かべながら蘇双が言うと、曹操が愉快そうに鼻で笑った。

「二人の間違いだろう?」
「なに?」

 蘇双は目を眇め、曹操は笑みを深める。

「劉備と関羽が夫婦になることに反対な男は張飛だけでなく、もう一人いるだろうと言ったのだ」

 上から見下すような曹操の物言いはいつものことなのに、何故か今は無性に苛立ちが募る。
 いつにも増して、やけに断定的な言葉が引っかかったのかもしれない。

「……誰だって言うのさ」
「さてな。それは私よりお前のほうがよく知っているのではないか?」

 意味ありげな視線と台詞に蘇双が思わず息を呑んだ。
 それは一瞬、されど一瞬。一度表に出してしまった動揺は、なかったことには出来ない。
 曹操は、そんな蘇双の反応を薄笑いを浮かべたまま眺めていた。
 蘇双の目の前で訳知り顔をしている男の瞳は夜の闇を凝縮したような色をしている。
 皮肉にも蘇双が大切に思う人物の瞳と同じ色で、それは蘇双にとって愛すべき色彩のはずだった。
 けれど。
 全てを見透かしているかのような漆黒が、今はひどく忌々しい。
 内心では歯噛みしながら、けれど蘇双はそれを面に出さず、曹操を真正面から見据えた。

「言ってる意味が分からないよ。それより、さっさと本題に入ってくれない? 早く報告を済ませて、完全に陽が落ちる前にみんなのところに戻りたいんだけど」

 自制しているつもりでも苛立ちは隠しきれない。ましてや、いささか唐突とも言える話題転換だ。
 嫌がらせの意味を込めて曹操はこの話をしつこく引っ張るかもしれないとの蘇双の危惧に反し、黒い瞳の主はすんなりと同意してみせたが――。

「そうだな、たしかに夜道は危険だろう。花のかんばせを持つお前は、いつ飢えた男に暗がりに連れ込まれるかもしれぬからな」
「!!」

 あまりの屈辱発言に言葉を失っている蘇双に、曹操が追い討ちをかける。

「途中で男だと気づいても、その見目ならば女でなくてもかまわぬと思う輩もいるであろう。なんなら、我が軍の兵士に十三支の陣屋まで送らせてやってもよいぞ?」
「……っ!!」

 蘇双はギリリと音が聞こえそうなほど奥歯を強く噛み締めた。
 もしも今この手に武器があったなら衝動的に曹操に刃を向けていたかもしれない。
 けれど現実には武器はこの屋敷に入る時点で衛兵に一時的に取り上げられている。
 そのことに今は心の底から感謝しながら、蘇双は底が見え始めた理性を必死にかき集め、曹操を射殺すような目で睨みつけるのみに留まった。

「なんだ、ご自慢の毒舌はもう仕舞いか」

 まあよい、私も暇ではないからな、と言い放ち、改めて曹操は冷めた目で蘇双を見た。

「もう起き上がれるようになっているなら、明日からの黄巾賊討伐には関羽を参加させろ。報告も関羽をよこせ」
「……討伐に参加させるのはともかく、報告は関羽でなくていいはずだ」
「関羽であれば夜道を襲われたところで撃退できようが、お前では無理だろう?」
「だったら腕の立つ仲間を報告にやるよ」
「張飛のことを言っているのなら、あいつではまともな会話が成立しないと言っていたのはお前自身だぞ?」

 どうあっても関羽にこだわり続ける曹操に蘇双は舌打ちしたい気分になる。
 だったら世平叔父を――。
 しかし蘇双がそれを実際に言葉にするより早く、否、蘇双の言葉を封じ込めるよう見計らったかのように、曹操が傲然と命じた。

「関羽をよこすのだ。劉備の安全を保障してもらいたいなら私に従え」
「くっ……!」

 ここであえて劉備の名を出した曹操の言葉に本気を感じ、蘇双は悔しげに唇を歪めた。
 どれだけ蘇双が反抗的な態度をとったとしても、たとえ曹操が寛容にそれを許したとしても、曹操が猫族を同列に見ているわけではないのだと、こうして屈辱と共に何度も思い知らされる。
 これ以上の反論は許されず押し黙るしかない蘇双に、淡々とした曹操の言葉が投げかけられた。

「昨日お前の叔父にも伝えたが、心配せずとも私はあの娘に手を出すつもりはない」
「あんたの言葉なんか信用できるもんか!」
「信用できずとも従うしかない。お前は利口そうだから、それくらい分かっているだろう?」

 曹操の勝ち誇った笑みが憎らしい。
 そしてなにより、無力な自分が恨めしい。
 ふてぶてしいこの男に何の痛手も与えないのは承知の上で、蘇双は憎々しげに言った。

「言っとくけど、関羽は性格の悪い男は嫌いだよ」
「そうか。だからお前はあいつに相手にされぬのか、気の毒に」
「なっ、なんだと……!?」

 今度こそ本気の殺気を覚えた蘇双を前にして、曹操の薄い唇が笑みを刻む。

「あいつが私を嫌いでも、私はあいつが好きだぞ」

 ――どんなに嫌われようが憎まれようが、私はあいつを決して手放したりしない。

 曹操のそんな心の声が聴こえたような気がして、蘇双は今まで以上に不安を覚えざるをえなかった。
 とんでもない男に目を付けられた関羽を、なんとしてでも守らねば。
 蘇双は改めてそう固く胸に誓うのだった。






曹操と張蘇双

(2012/10/05)






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