曹操+張世平 (十三支演義)


 洛陽で曹操が劉備を人質にとり、猫族に黄巾賊の残党狩りを行わせるようになってから一ヶ月余り。
 任務を終えた後には猫族の代表が曹操の屋敷に出向き、直接彼にその日の報告を行うことが日課となっていた。
 それを終えれば、その者は自分たちの長である劉備との面会を果たし、彼の無事を確認してから仲間たちの待つ陣屋へと帰っていく。
 たいていの場合、その任に就いたのは、劉備に最も会いたがっていると同時に劉備が最も会いたがっている人物だった。
 しかしこの日の夕刻、曹操のもとに報告に訪れた猫族はいつもの少女ではなく、精悍な顔立ちに無精髭を生やした、曹操より年長の男性だった。

「お前はたしか、劉備の世話役の……」
「張世平だ。劉備様の世話役であり、関羽の親代わりでもある」

 世平が愛想の欠片もなく答えると、曹操に付き従ってきた夏侯惇が不快げに眉をひそめた。

「おい貴様、曹操様の御前で胡坐をかくとはどういった了見だ。今すぐ座り直さぬか」

 しかし世平は威圧されてもどこ吹く風で、姿勢を正そうとしない。

「聞こえぬのか!!」
「かまわぬ、たいしたことではない」

 いきりたつ夏侯惇をたしなめた曹操はその言葉通り特に気にした様子もなく上座に腰を下ろすと、世平と同じように胡坐をかく。
 夏侯惇は憎々しげな眼差しを向けながら世平の横を通り、曹操のそばに控えるべく上座から一歩下がった場所に腰を下ろした。

「して、張世平よ。関羽はどうしたのだ」
「第一声がそれか」

 俺は黄巾賊討伐の報告に来たはずなのにな、と世平が呆れまじりに笑うと、すかさず夏侯惇が眉を吊り上げる。

「貴様、その態度はなんだ!」

 しかし今回もまた曹操が片手をあげて夏侯惇を制した。
 夏侯惇は歯軋りせんばかりの表情で、けれど上司の命令とあっては口をつぐむしかなく押し黙る。
 それを何の感慨もなく見届けてから世平が口を開いた。

「あいつは今朝から休ませてる。今も陣屋で眠っているだろうさ」
「なんだと? あいつが負傷したとの報告は入っていないが」
「そりゃあ報告が入るわけねぇさ。怪我なんざ、しちゃいねえからな」
「まさか病か?」
「いいや、病気でもないが」

 ではなんだと視線で促す曹操に、世平が溜息混じりに吐き捨てた。

「どっかの誰かさんはすっかり忘れているようだが、いくら強くてもあいつは女の身なんでね。戦いと一族の男衆の世話を一手に引き受けりゃあ、へばりもするさ」

 挑発するような声音には、猫族を――とりわけ関羽を酷使する男に対する無数の棘が含まれている。
 世平は猫族の中でも特に慎重な穏健派として知られているが、猫族を不浄の輩と蔑む人間たちや猫族を特攻兵として利用する曹操に何も感じていないわけではない。
 むしろ、仲間を思うが故に常日頃私情を押し殺して皆をなだめる立場にあるからこそ、内に秘めた世平の怒りは大きかった。
 劉備を人質に取られている以上曹操に反旗を翻すことはできなくても、傲岸不遜で常に取り澄ましている男の顔をせめて少しでも歪めさせてやりたいと思うのは、意趣返しとしては実にささやかなものだろう。
 しかし世平のそんな気持ちを嘲笑うかのように、曹操がにやりと笑みを浮かべる。

「なるほどな。だが、あの娘が戦いと十三支たちの面倒を一手に引き受けざるを得ないのは、いい大人であるはずのお前たち男衆が不甲斐ないからではないのか?」
「……っ!」

 痛いところを突かれて顔を歪めたのは世平のほうだった。
 さすがに乱世の奸雄と呼ばれ、その悪知恵に定評がある男は、減らず口もよく回るようだ。
 世平は渋面のまま、目の前の一筋縄ではいかない男に対する嫌悪感をあらわにした。
 この時、この男の前で悔しそうな顔だけは見せまいと決意したのは、世平なりのせめてもの矜持だ。

「そこは否定しねぇよ。実際、体調を崩した関羽を目の当たりして俺たちは皆、あいつに頼りきっていたことを心から反省した。あんたら人間からケダモノ扱いされてる俺たちでさえ反省するんだ。人間様の中でも特にお偉いあんたには、それ以上に猛省してもらいたいんだが?」
「き、貴様ぁ!! さっきから黙って聞いていれば調子に乗りおって! 曹操様への度重なる無礼、断じて許さぬぞ!!」

 言うが早いか夏侯惇が抜刀し、怒りのオーラを立ち昇らせたまま世平に向かって鋭い剣先を向けたが。

「控えよ、夏侯惇」
「しかし曹操様、いかに十三支が礼を欠いた下民とはいえ、俺はもう我慢なりません!」
「俺たち猫族が礼を欠いていると言うなら、年頃の娘を連日夕暮れ時から夜にかけて自分の屋敷に呼びつけて、報告と称して二人きりになろうとする男もたいがい非常識じゃねえのか?」

 世平がこれみよがしに肩をすくめてみせると、夏侯惇はカッと目を見開いた。

「どこまで曹操様を愚弄したら気が済むのだ、この薄汚い十三支め! 我が剣の錆びにしてくれるわ!!!」
「よさぬか夏侯惇!!」
「!!」

 肌をびりびりと震わせるような鋭い一喝に、今まさに世平の頭上から剣を振り下ろそうとしていた夏侯惇の動きがぴたりと止まる。

「剣を下ろせ」
「しかし曹操様!」
「聞こえなかったのか、剣を下ろせと言ったのだ」

 曹操は腹心の部下に厳しい言葉とともに凍てつくような視線を投げかけた。

「お前も我が軍の武将なら、相手の思惑通りに安い挑発に乗ったことを恥じよ」
「………っ!!」
「お前は普段は分別もあり有能だが、こと私が絡むとすぐに頭に血が上るのが玉に瑕だな」

 曹操が溜息をつくと同時に夏侯惇の腕が剣ごと力なく下ろされる。

「下がれ。外で少し頭を冷やしてくるがよい」
「……ハッ。申し訳……ございませんでした」

 叱責され意気消沈の態で夏侯惇は部屋を後にした。

「あーあ……、敬愛する上司のためにやったことなのに追い出されるなんてな」
「お前たち相手にすぐ感情的になる夏侯惇の悪癖は改めさせねばならぬ。常にあのありさまでは、戦場で十三支と協力せねばならぬ時に、我が軍の足を引っ張ることにもなりかねぬからな」
「にしたって、あんなにこっぴどく叱らなくてもいいんじゃねぇのか? 気の毒なこった」
「ふ……。気の毒に思っているようには到底見えぬがな。内心、少しは溜飲が下がったといったところではないのか?」
「まあな。だけど俺が本当にぎゃふんと言わせてやりたいのは、あんたなんでね」
「そうだろうな」

 男たちは殺伐とした空気の中で薄く笑みを浮かべる。
 けれど世平はすぐに表情を引き締めて、曹操を真正面から見据えた。

「今後、必要以上に関羽に構うのはやめてくれないか?」
「唐突だな」
「唐突どころか、さっきも言ったはずだ。あいつは年頃の娘なんだから、いい大人であるはずのあんたに気を配ってもらいたいって話だ」
「そんなことを言うためだけに、今日お前がここに来たというわけか」

 くだらぬ――、と。
 言葉にせずとも曹操の双眸がそう告げていた。
 呆れの色を隠そうともしない曹操の態度から、先ほどまでは確かに見られた世平への興味が急激に薄れつつあることが手に取るように分かる。
 けれど世平にとっては関羽に関わる話に何一つとしてくだらないことなどない。

「決して身贔屓して言うわけじゃねぇが、関羽は」

 世平は更に強い視線と口調で曹操に対峙した。

「武芸に秀でているだけでなく器量も気立てもいい。頭だって悪かねぇし、一部苦手分野はあるが家事も問題なくこなせる。あいつは、どこに出したって恥ずかしくない娘だ」
「そうだな。この私の目から見ても、あれは実に良い女だ」

 あえて世平を煽っているのか本心なのか、曹操が意味ありげな言葉で同意する。
 どちらにしても迷惑な話だと内心舌打ちしながら世平は話を続けた。

「劉備様の手前、皆遠慮しているが、あいつを憎からず思って嫁に欲しいと望んでいる一族の若い衆は大勢いるんだ」
「なぜ劉備に遠慮する」

 曹操が怪訝な顔をした。
 無論彼は劉備が猫族の長であることも関羽に懐いていることも百も承知だが、どう見ても関羽は劉備の子守役にすぎない。
 また、実年齢に成長が伴わず心身ともにいまだ幼子同然の劉備が関羽を一人の女性として意識しているようには見えないし、関羽の色恋沙汰に干渉してくるとも思えなかった。
 それゆえの質問だったのだが。

「関羽は劉備様の嫁候補の筆頭だからな」
「あいつが劉備の嫁候補だと?」

 まさかという思いで曹操が目を見張った。

「そうだ。年齢も近いし、なにより劉備様が関羽にあれだけ懐いておられるからな。今はまだ具体的な話があがっているわけじゃないが、一族の多くの者が、いずれそうなるだろうと見ている」
「つまりお前は私に、自分たちの長の花嫁候補に近づくなと言いたいわけか」
「正直なところ、あんたみたいな地位のある人間が『十三支』の女に手を出すと本気で思ってるわけじゃねぇが……」

 そう言いながらも世平の言葉は歯切れが悪い。
 彼が曹操に対して疑念を完全に払拭できない原因は、日頃関羽を見つめる曹操の眼差しにあった。
 曹操は大多数の人間と同様に猫族を十三支と呼び、あまつさえ戦の駒として扱っている。
 しかし、そうしながらも彼が関羽を好ましい者として見ているのは誰の目にも明らかだった。
 世平が見たところ、そこに色めいたものは感じられないが、曹操は実際に猫族の誰より関羽の戦闘能力と統率力に注目しているし、個人的な部分で関羽の気の強さを殊更気に入っているようだった。
 日々、関羽は曹操の期待通りに、否、期待以上に功績を重ねていく。
 曹操の期待に応えることこそが猫族が自由になる唯一の道であるはずなのに、関羽が曹操の期待に応えれば応えるほどに世平は不安を覚えずにいられなかった。
 人間と猫族とはいえ、所詮は生身の男と女。普段は禁欲的に見える曹操も、雄の本能と欲望は当然その身に秘めているだろう。
 ましてや関羽という娘は、他人を強く惹き付ける魅力を持った存在でもある。
 今は関羽の武にのみ向いている曹操の興味と執着が、いつ矛先を変えるか分からない。
 もしもそうなったら、関羽はどうなってしまうのか。
 少なくとも、曹操が関羽を手放そうとしないだろうことだけは容易に想像がつく。
 だからこそ世平は関羽の育ての親として、間違ってもそんな事態にならないよう事前に手を打っておきたかったのだ。

「たとえあんたの毒牙にかからなくても、嫁入り前の娘に変な噂が立つこと自体迷惑な話なんだ。だから自重してもらいたい」

 真摯に乞う世平を、けれど曹操は冷めた目で一瞥した。

「哀れだな」
「何が哀れだと言うんだ」
「関羽が哀れだと言ったのだ」
「……どういう意味だ」
「どういう意味も何もあるまい」

 真顔で問われたことがよほど可笑しかったのか、曹操がせせら笑う。

「あれほどの器を備えた女が、あのように身も心も幼いままの子供の妻の座を押し付けられるなど、哀れと言わず何と言う?」

 間髪を入れず、曹操が嘲るように言った。

「妻ではなく母親……いや、子守の間違いだろう?」

 咄嗟に二の句を継げなかった世平に畳み掛けるように、今度は曹操は得心がいったと言わんばかりに頷いた。

「ああ、なるほどな。長の妻という肩書きを与える代わりに、あいつに一生涯劉備の面倒を押し付けようという腹か」
「黙れ! 劉備様と関羽を侮辱することは許さねえ!!」
「侮辱だと? 私は真実を言ったまでだ」

 殺気交じりの怒りを真正面からぶつけられても、曹操はまるで痛痒を感じない様子で腕を組み直した。

「子供の頃から劉備はあのままなのだろう? ならば劉備はいつ成長するのだ? 関羽が花の盛りを過ぎても、劉備は今と変わらぬのではないのか? それでも関羽は永遠に訪れぬかもしれぬ劉備の成長を待ち続けるか、もしくは永遠に心身ともに子供のままの劉備に嫁がねばならぬのか?」
「そ、それは」
「お前は私に言ったな、関羽はいくら腕が立っても女の身だと。それにお前は関羽の親代わりなのだろう? だったら、どんな状況にあっても関羽を守ってやれる男に関羽を任せたいとは思わぬのか?」
「――……!」

 曹操の物言いは辛辣ではあるが正論でもあり、世平は結局何一つとしてまともに反論することができなかった。
 猫族の始祖である劉一族は代々が無垢で、神聖な存在だ。
 それゆえ曹操の発言には許容しがたい部分もある。
 けれど、あくまでも淡々と、意外にも真摯な響きをもって語る曹操を前にして、一度は語気を荒げた世平も次第に冷静さを取り戻し始めていた。

「関羽が劉備に心を砕いているのは見ていれば分かる、愛情をもって劉備に接していることもな。だが、それは母性のようなものだろう? あいつには、そんな気はないと思うがな」

 関羽には、そんな気はない――つまり劉備を生涯の伴侶となる男性として見ていない、と。
 曹操の意見はおそらく正しいと世平は冷静に判じていた。
 そこに付け加えるなら、関羽が劉備に対して抱いている愛情の根底にあるものは、劉備に対する恩義だ。
 昔、人間と猫族の間に生まれた混血児として異端扱いだった関羽を救ったのは世平でも張飛でもなく劉備だったのだから。
 関羽が今、一族たちに溶け込み、皆から全幅の信頼を寄せられているのは彼女の努力の賜物だとしても、そのきっかけを作ったのは紛れもなく劉備だ。
 関羽は劉備をこの世で最も大切にしている。おそらく劉備は今この時点で関羽が最も愛している人物と言ってもいいはずだ。
 だから二人の間に縁談話が持ち上がれば、劉備が拒否しない限りは関羽はそれをすんなり受け入れるだろう。
 けれど、それは曹操の言う通り、恋ではないのかもしれない。
 恋心がなくても、双方の間にたしかな愛情と絆がある以上、劉備と関羽が幸せな家庭を築ける可能性は高い。
 それでも、たった一人の相手を深く激しく恋う喜びを知らないまま関羽が花嫁となるのは寂しいことだと、世平は今、頭の片隅で考えてしまっている。
 そんな恋情を知っている世平だからこそ――もっとも世平の恋は喜びだけでなく苦しみにも満ちていたが――、そう思ってしまう。

(くそ……。乱世の奸雄の言葉に惑わされちまったか……)

 劉備に対する幾ばくかの後ろめたさを感じながら、世平は自分を惑わせた曹操とあっさり彼の術中にはまってしまった自分自身に対して苦々しい思いを噛み締めていた。

「余計な気を回さずとも、今のところ私が欲しているのはあれの武のみだ」
「今のところ、かよ」
「もっとも、私があの娘に惹かれたとして、実際に手を出す可能性は限りなく低いだろうとだけ言っておこう」
「その根拠は?」

 疑いを滲ませて世平が問うと、曹操が迷いなく言い放った。

「あいつが十三支だからだ」
「……なるほど、明確な回答をどうも。よく分かった」

 つまり下賎の女など相手にしない、と。
 世平は曹操の言葉をそういう意味だと捉えて激しい憤りを感じる一方で、おおいに安堵もした。
 いつまでも十三支と見下され続けることにははらわたが煮えくり返りそうだが、ここまで選民意識に凝り固まっているならば曹操が『十三支』である関羽に食指を動かす可能性は彼の言うとおり限りなく低そうだ、と。
 しかし実際には、世平は曹操の言葉の真意を履き違えていた。
 曹操は『十三支』が蔑むべき種族だから関羽に手を出すつもりがないと言ったわけではなかった。
 彼はただ――。

「十三支の女に手を出してあの忌々しい男と同じに成り果てるなど、ありえぬからな……」

 ほとんど唇を動かすこともなく発せられたその囁きが世平の耳に届くことはなかった。
 それゆえに、そして曹操の出自を知らぬがゆえに、世平が曹操の言葉の真意を知ることもなかった。
 世平がこの時の曹操の言葉にこめられた意味を知ることになるのは、関羽と曹操が互いに深く激しい恋に身を焦がした後の話となる。






曹操と張世平

(2012/09/29)






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