黄巾賊の首領である張角の首級を挙げ、その残党を順調に討伐している曹操が、このたび帝直々の恩賞を賜ることになった。
ここ曹操の邸宅の広間では今夜、それを祝い、そして黄巾賊討伐に励んだ曹操軍の部下たちをねぎらうための内輪の酒宴が開かれている。
皆の座所より一段高くなった上座には曹操が、上座付近には夏侯惇、夏侯淵、曹操軍の重臣たちがそれぞれ胡坐を組んで座し、和やかな空気の中、祝い酒を酌み交わしている。
一方で、入り口付近の末席には猫族の面々が一塊になって曹操軍から完全に切り離された空間を作り、彼らもまた振舞われた酒や食事を楽しんでいた。
『何故我々が薄汚い十三支どもと同席せねばならぬのだ』
『どうして俺たちが曹操軍の宴に参加しなきゃいけないんだ』
両者が心の中では同じようなことを思いながらも、それが曹操の命令である以上、誰も文句は言えず、この際、互いが互いの存在を空気だと思うことにして、せっかくの美酒とご馳走を堪能している。
「あら、もうお酒がなくなっちゃったみたいね」
酒壷が全て空になったことに気づいた関羽が立ち上がろうとすると、劉備がそれを遮り、元気よく立ち上がった。
「はーい! ぼくがあたらしいお酒もらってくる! だから関羽は、すわってて」
「あら、ありがとう。でもいいのよ、わたしがもらってくるから劉備こそ座っていて」
「だめー。関羽は毎日おしごとして疲れてるの。だから今度はぼくがおしごとするの!」
「じゃあボクが関羽の代わりに行きますから、劉備様はここにいらしてください」
張蘇双が立ち上がろうとすると、やはり劉備がそれを遮り、ぶぅ、と頬を膨らませた。
「蘇双も、張飛も、関定も、世平も、みんなもお疲れなの! いいからぼくにやらせて!」
「ホントに大丈夫かよ、劉備。酒壷はけっこう重いぜ?」
「だいじょうぶだよ、だってぼく、男の子だもん」
不安そうに声をかけてきた張飛に向かって劉備が胸を張る。
猫族の仲間たちが自分のために意に染まない戦いに駆り出されていることに劉備は幼いなりに気づき、小さな胸を痛めている。だからこその発言に、皆はそれ以上「ダメ」とは言えなくなった。
「劉備様がこうおっしゃってるんだし、酒を運んでもらうくらい、いいんじゃねえか? じゃあ劉備様、あそこに置かれている酒壷を取ってきていただけますか?」
張世平が広間の片隅にずらりと並べられている酒壷を指差すと、劉備は満面の笑みを浮かべて頷いた。
「じゃあぼく、お酒とってくるね!」
言うが早いか劉備は駆け出していた。
猫族たちが微笑ましく、あるいはハラハラと見守る中、劉備はよりによって一番大きな酒樽を胸に抱えて仲間たちがいる一角に戻ろうとした。
大きな樽に視界をほぼ塞がれた状態で、よたよたした足取りが見るからに危なっかしい。
関羽と張飛が慌てて劉備に駆け寄ろうとするが。
「劉備、足元!」
「危ねえ!」
関羽と張飛の叫び声が重なったその時、劉備は足元に転がっていた盃に躓いて転び、その瞬間、劉備が抱えていた樽の中身が全てぶちまけられてしまった。
それまで賑やかだった場が一瞬にして凍りつき、何とも言えない沈黙が落ちる。
「…………き、貴様ぁ……」
皆が固唾を呑んでいる中、地を這うような男の声によって沈黙は破られた。
夏侯淵だった。
ちょうど劉備が転んだ場所のそばで上機嫌で酒を飲んでいた夏侯淵は頭上から樽一つ分の酒を丸ごと浴びることになり、全身濡れ鼠になった挙句、体から強烈な臭気を撒き散らしている。
ぶるぶると体が震えているのは、酒を浴びた身が冷たいからではなく明確すぎるほどの殺意と怒気の表れだ。
関羽はいち早く劉備を庇うように抱きしめ、夏侯淵から距離をとった。
「………ぶっ殺す」
物騒な台詞と共に、夏侯淵が脇に置いてあった剣を手にして、ゆらりと立ち上がろうとする。
「待て、夏侯淵!」
「兄者、止めないでくれ」
「お前の気持ちはわかる。だが、曹操様の祝宴を十三支の血で汚すことは俺が許さん」
「………っ!」
夏侯淵がぐっと押し黙る。
夏侯惇の言うとおり、今夜の宴は黄巾賊討伐で功績を挙げた曹操を祝うために設けられた場だ。刃傷沙汰を起こすわけにはいかない。
けれど、その栄えある宴の場で、しかも十三支から受けたこの屈辱をなかったことにすることは、名門夏侯家の血を引く者としての矜持が許さない。
「ご、ごめんなさい、夏侯淵……」
びくびくと怯えながらも、劉備がぺこりと頭を下げた。
「わたしからも謝るわ、本当にごめんなさい。どうか劉備のこと、許してあげて」
関羽も神妙に頭を下げてから、きれいに折り畳まれた手巾を差し出した。
しかし夏侯淵は関羽のその手をぱしっと振り払い、殺気を滾らせた眼差しで関羽と劉備を睨みつけた。
慌てて駆けつけてきた侍女から受け取った大きめの手巾で体を拭いながら、夏侯淵が忌々しそうに鼻を鳴らす。
「オレは寛大だから許してやってもいいぜ。その代わり、女ぁ! 今ここで劉備にかわって貴様が芸の一つでもしてみせろ!」
「芸?」
関羽が聞き返すと、夏侯淵は底意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「この詫びとして、宴の余興をしろと言ってるんだ。貴様ら十三支は猿芸……いや、猫芸などお手の物だろう?」
なにせ生まれながらのケダモノだからな――。
夏侯淵に嘲りとともにそう吐き捨てられ、猫族たちが一気に気色ばんだ。
「なんだと!?」
「もう一度言ってみろ!!」
「みんな、落ち着いて!」
関羽が咄嗟に仲間たちを宥める。
頭に血が上った夏侯淵の暴言はたしかに聞き捨てならないが、事故とはいえ、夏侯淵を怒らせた原因は劉備にある。
場に一触即発な空気が流れる中、それまで黙って成り行きを見ていた曹操が溜息混じりに夏侯淵をたしなめた。
「夏侯淵、もうそのくらいにしておけ。子供のしでかしたことに、そこまで目くじらを立てるな」
「曹操様……!」
酒を頭からぶっかけられ、敬愛する主君に呆れまじりに諭され、まさに踏んだり蹴ったりな夏侯淵はますます憎しみを募らせて関羽の背に守られた劉備をねめつけた。
劉備がびくりと身を縮ませると、その劉備を関羽ごと庇うように、張飛が夏侯淵と関羽の間に割って入ってきた。
「よっしゃ。劉備が仕出かしたことの落とし前は、このオレがきっちりつけてやんよ!」
「張飛?」
何をするつもりかと関羽が目を瞬かせると、張飛は関羽と劉備を安心させるようにニッと笑ってから、今度は厳しい顔で夏侯淵に向き合った。
「姉貴や劉備に芸をさせるのはなしだ。その代わり、オレがとっておきの芸をやってやんぜ」
「ふん、まあいいだろう。貴様のような馬鹿猫に何が出来るか知らんが、やってみせろ」
夏侯淵が挑発するように言うと、張飛は近くにいた曹操軍の武将の一人に声をかけた。
「そこのおっちゃん。その外套と剣、ちょっと貸してくんね?」
「な、なんだ。剣舞でもするつもりか?」
思いがけず話を振られた武将は戸惑いながらも、求められるまま外套と剣を張飛に手渡した。
「ありがとな、ちょっと借りるぜ」
借りた外套を身につけた張飛はいつも額に巻いている黒い布を外すと手櫛で髪を撫でつけ、無造作に跳ねていた髪を可能な限りまっすぐに伸ばし始める。
「あの小僧、いったい何をするつもりなんだ?」
「やはり剣舞ではないか? 何故外套をわざわざ纏うのかは、よくわからぬが……」
「猫の剣舞か。なかなか面白そうですな」
あちこちで好奇の声が漏れ始める。
「張飛ったら、いったい何をするつもりなのかしら。劉備にはわかる?」
「ううん。ぼく、わかんない」
曹操をはじめとする曹操軍の面々だけでなく、関羽や劉備をはじめとする猫族も、張飛が何をするつもりなのかと興味津々だ。
そんな中、張飛の悪友である張蘇双と関定だけが不安そうに顔を見合わせていた。
「……ねえ、まさかとは思うけど、張飛の奴、『アレ』をやるつもりじゃないよね?」
「『アレ』って言うと、猫族のチビすけどもの間で密かに流行ってる『アレ』のことだろ? 怖いこと言うなよ、いくら張飛が馬鹿だからって、アレを本人の前でやるほど馬鹿じゃないだろ? それこそ、奴らの逆鱗に触れて猫族が皆殺しの目にあってもおかしくないぜ?」
「関定、何年張飛と付き合っているのさ。……張飛はただの馬鹿じゃないよ?」
――ものすごい馬鹿なんだ。
悲しいことに、張蘇双が口にした言葉の正しさが、このわずか数秒後に証明されることになる。
「いいかテメエら、目ン玉よーく見開いて見てやがれ、この張飛様の、とっておきの一発芸を! でもって、あまりのそっくりぶりに腰抜かすんじゃねえぞ!!」
高らかに宣言した張飛は外套を手で派手になびかせ、大きな瞳をすっと細めて正面を鋭く睨みつけた。そして、借りた剣を上段に構え、その体勢を保つ。
その瞬間、絶望的な表情になった張蘇双と関定以外の者全員が、ごくりと固唾を飲む。
張飛は、人相が悪いとしか言いようのない表情のまま、まずはフッと鼻で笑う。
そして、最大限に低く落とした声と不遜な物言いで、朗々と言い放った。
「邪魔をする者はすべて斬る! 我が覇道のために……! それを阻む者は皆殺しだあぁぁぁ!!!」
再び場が凍りつき、水を打ったように静まり返る。
外套を纏った、さらさら髪の男。
鋭い眼光に重低音の声音。
剣の構え方。
そしてなにより、その台詞。
実際に似ているかどうかはこの際問題ではなく、それらの条件から、張飛が誰の物真似を披露したか分からない者はいなかった。
曹操軍のみならず猫族たちも――この状況を理解できていない劉備を除いた全員が顔面を蒼白にし、ただ絶望というものの味を噛み締めていた。
この場から猫族全員で逃げ出すべきか、それともこの場で曹操軍と一戦交えることになるのか。―――いや、とにかく、なんとしてでも劉備だけは守らねば。
それだけが、今この場にいる猫族全員の確固たる思いだった。
「……あいつ、本当に救いようのない馬鹿だったな」
「そうだね。知ってたけど、それ以上に馬鹿だったね」
ある意味悟りの境地に達したかのような関定と張蘇双の声音だけが、虚しくその場に響いたのだった。
その日以来、曹操陣営で張飛の姿を見た者は誰もいない。
**** 普段後書きの類はあまり書かんのですが、今回ちょっとだけ ****
張飛が曹操軍に消されたのか、これ以降宴に呼ばれなくなっただけなのか。そこは想像にお任せします。
この後曹操様は、「子供のしでかしたことに、そこまで目くじらを立てるな」という己の言葉に縛られることになります。
ちなみに個人的には関羽ちゃんが曹操様の物真似をしてくれると可愛くて素晴らしいと思います。「何をしているのだ」と口で言いつつも、曹操様や夏侯惇は内心萌え萌えきゅんきゅんするに違いないと信じています。
心底しょーもないコメディで失礼しました。