――あの人はおまえを見つめることはない……これからもずっと。
何度その言葉を投げかけそうになり、そしてその都度何度その言葉を呑み込んだことだろう。
――あの人が、あの人間を見つめるような瞳をおまえに向ける日は、永遠にやって来ない……傷が浅く済むうちに諦めたほうが、おまえのためだ。
いつだって、そう思っている。
だけどそれを言葉にしておまえに言うことができないのは、他ならぬおまえ自身が誰よりも強くそれを理解しているからだ。
それを理解していながら……実ることがない想いだと知りながらも、おまえはあの人を想うことを止めようとはしない。
否、止めたいと思っても、自分でもどうしようもないのかもしれない。
あの人に惹かれてしまう気持ちは俺自身にも理解できる。彼は、俺たちと同じ一族でありながらも、俺たちとは別の次元の存在だ。
男であれ、女であれ、ひとたびあの瞳を覗きこんでしまったなら即座に呪縛される。
それが恋情であれ、憧れであれ、敬愛であれ、畏怖であれ、あの人に囚われてしまうのだ……その瞳を見なかったことにはできないことも、俺自身、身をもって理解している。
あの人と出逢ってしまったことは、おまえにとって幸運だったのか不運だったのか。
俺にはおまえの在り方にあれこれ口を挟む権利などない。俺はただ……そんなおまえをそばで見守り続けるだけだ。
■□■
「瑠佳さん、僕は今日のために必死で仕事を終わらせてきました! 僕と踊っていただけませんか」
緊張と期待の入り混じった態度で瑠佳にダンスを申し込んできたのは、普通科の男子生徒だ。
彼の熱い視線はしかし、彼を振り返ろうともしない瑠佳の目に届くことはない。
それは残酷なまでの拒絶。
しかし今夜は舞踏祭。普段交流の少ない夜間部と普通科の……もっと広い視野で見れば、吸血鬼と人間の親睦を深めるための催し物だ。
夜間部の中では、おそらく一条副寮長を除いてこの学園行事を真剣に楽しもうとしている奴はきっといないだろうけど、理事長からは積極的に親睦を深めるようにと釘を刺されている。ということで俺も一応は瑠佳を促してみたけれど、予想を裏切らず、返答は「ノー」だった。
高嶺の花相手に特攻精神で挑んだだろうに、一瞬で玉砕。涙ながらにうなだれる男子生徒の姿は憐れみを誘い、さすがに少々同情してしまう。
だけど必要以上に落ち込むことはない。「おまえ」だから断られたわけではなく、誰が瑠佳にダンスを申し込んだとしても、結果は同じだ。
どんなに熱い視線を向けられようとも。
どんなに耳に心地よい美辞麗句をかけられたとしても。
瑠佳の心が動かされることはない。
瑠佳の欲しい視線は、瑠佳の欲しい言葉は、たった一人の人から与えられるものであって、その人以外の視線も言葉も、瑠佳には一切必要がないのだ。
そしてあの普通科はタイミングも悪かった。
つい今しがた、あの人が掌中の珠のごとく大切にしている唯一の存在が、かの人のもとへと向かったところなのだ。
しかも、あのドレス姿。
おそらくは、風紀委員としてあの人に会いに行ったわけではないのだろう。
これは俺の勝手な想像でしかないけれど……舞踏祭に相応しいあの可憐なドレスは、もしかしたら、あの人からの贈り物なのかもしれない。
俺ですらそんな想像が頭を掠めたくらいだから、あの人と彼女の関係にことさら注視し、同時に複雑な目を向けている瑠佳ならば、俺と同じ想像をしていたとしても不思議ではない。
ドレスの件の真偽はともかく、きっとあの人は他の誰にも見せることのない微笑みを向けて彼女を出迎えるのだろう。
もしかしたら、あの人は彼女になら自らワルツを申し込むのだろうか。
なんにせよ、あの人と彼女はしばし二人きりの時間を楽しむはずだ。
あの人が自分と躍ってくれるなど有り得ないと確信していながらも、あの人のためだけに着飾り、一縷の希望を抱いていたであろう瑠佳は、どういう気持ちで彼女の背中を見送ったのだろう。
家柄、容姿、頭脳、身体能力の何をとっても、瑠佳が彼女に劣っているはずがない。
可愛くないことはないが、彼女は至極平凡な、ただの人間だ。
だけどあの人にとっては、――それがどういう種類の好意なのかは知る術はないが――、おそらく彼女以上に大切な存在はいないのだろう。
それは誰の目にも明らかだ。
至高の存在である純血種であるはずのあの人にとっても、想いは理屈ではないということか。
瑠佳はあの人の居場所を彼女に教えた俺に、わずかに非難するような視線を向けたけれど、それも一瞬のこと。俺に哀れまれたくないのか、言葉にして俺を責めることも、それ以上表情を崩すこともなかった。
この気位の高さは英に言わせれば「かわいげがない」の一言で一刀両断されるのだろう。だけど俺からすれば、かえってかわいげが感じられて……慰めてやりたくなる。もっとも、ここで俺に慰められるなど、瑠佳にとってはより惨めになるだろう。それなりの付き合いだ、そんなことは分かっている。
だから俺は――。
「仕方ないな。じゃあ俺と踊るか?」
「どうしてそうなるのよ」
「パートナーのいない女には、男たちが群がってくるぜ? それともおまえ、いちいち一人一人に断りを入れ続けたいのか?」
言葉に詰まった瑠佳に、壁の花はもったいないだろ、と付け加えれば、瑠佳は小さなため息とともに、そうね、と呟いた。
「あの人の代わりにはなれないけど、今夜だけは俺で我慢しとけ」
「……仕方ないわね、我慢してあげるわよ。………あの人の代わりなんて、誰一人として、なれるはずがないんだから……」
「ああ、分かってるさ」
俺は苦笑をひとつ零してから、瑠佳に手を差し出した。
ちょうど、次の曲が流れ出したところだったのだ。
瑠佳は表情を崩さないまま俺の手を取った……けれど、瑠佳の腰を引き寄せ、互いの体が密着したその瞬間に、ともすればうっかり聞き逃してしまいそうな声で一言だけ、瑠佳が告げた。
――ありがとう、と。
瑠佳に感謝されることなど、俺はしていない。
俺はただ、自分がこうしたかったからこうしただけだ。
だから言葉では返事をすることはせず、また一度だけ苦笑して、曲にあわせてステップを踏んだ。
自分でない他の誰かを想う相手を恋うのは、厄介なことだ。
はじめは片恋に囚われた瑠佳に同情して、まるで妹を気にかけるような感覚で見守り続けてきたけれど――。
――自分でない他の誰かを想う相手を恋うのは、本当に厄介なことだ。
今俺は、それを実感を伴って理解しようとしているのかもしれない。
(2006/06/06)