「――ふぅん。癒し系ってのは、いいセンいってるのかも?」
僕は誰もいなくなった保健室で、ようやくカーテンを開いた。
枢様は立場的にも忙しい方だから、どこかで癒しを求めていたとしてもおかしくはない。
でも、あの普通科の言うとおり、夜間部の女子は生意気で可愛げがないやつらが多いからね。……たとえば、名前に「る」がつく女とかさ。
畏れ敬っている枢様の前では皆あらたまった態度をとりはするけど、枢様が彼女らにくつろいだ様子を見せることはない。
普通科三人組の意見を拝聴した結論を言えば、「黒主優姫の魅力については、解ったような、解らなかったような」。要するに、まだ曖昧だ。
だけどもしも枢様があいつらと同じように「何か欠けているほうが可愛げがある」(要は「不出来な子ほど可愛い」ってことだろうけど、それじゃ身も蓋もないからね)という考え方の持ち主だとすれば、ちょっと納得がいく。
優姫ちゃんは今まで周囲にはいなかったタイプだから、枢様にしてみれば、珍しい毛色のハムスターを愛玩してるって感じなのかもしれない。
だとしたら、ハムスター相手にイライラするのは馬鹿馬鹿しいよなぁ……。
白状すると、僕は優姫ちゃんに少なからず苛立ちを覚えていたんだ。
優姫ちゃんに何か嫌なことをされたわけじゃないし、恨みがあるわけでもない。
吸血鬼ハンターの家に生まれた錐生零のように、無条件に嫌悪を抱く理由もない。
ただ面白くないだけなんだ。枢様と釣り合わないただの人間が、枢様に目をかけてもらっているという事実が。
僕を始め夜間部の誰一人として、枢様にああいう接し方をされる者などいないから。
つまり僕らは皆、あの平凡な人間以下の価値しかないんだと、そう思えて。
悔しかったし、嫉妬もしていた。
だけどこれからは優姫ちゃんのことをハムスターだと思えば、我慢できなくもない……かな?
少なくとも僕にはハムスター代わりはできないから。その役は優姫ちゃんに任せるしかないもんね。
すっかり目が冴えてしまった。
サボリはやめて、やっぱり教室に向かおうか……。
「アイドル……じゃなかった、藍堂先輩?」
保健室を出たところで、背後から訝しげな声に呼び止められた。
噂をすればなんとやら、だ。振り返ると優姫ちゃんがいた。
ああ、だめだよ優姫ちゃん。せっかく君をハムスターだと思うようにしようと決めたのに。
ハムスターはそんな胡散臭そうに僕を見たりしないから。
「どうしたんですか、宵の刻よりも早く校舎内にいるなんて。しかも保健室の前で、何してたんです……って、保健室? ま、まさか…先輩……っ?」
優姫ちゃんの顔から、すぅっと血の気が引いていく。
青くなったと思ったら、数秒後には何を想像したのか今度は茹でタコのように真っ赤になって。そしてまた青ざめる。
面白いね、まるで一人百面相だ。
「……ちょっと待ってくれない? 優姫ちゃん」
君って本当に解りやすい子だね。
今君の頭の中で僕がどんなあられもない姿を晒しているのか、覗いてみたい気もするよ。
「きちんと説明してください! 保健室でいったい何をしてたんですか!」
「君が今想像してるようないやらしいことじゃないから。安心していいよ」
「いやらしいことって……! わ、私は別に、何もっ……、」
じゃあなんで、そんなにうろたえているんだか。からかい甲斐があるなぁ。
「今日は用事があって理事長に呼ばれてたんだ。その後ちょっと気分が悪くなって、ここで休んでたんだよ。でももう行きゃなきゃ授業が始まっちゃうからね」
本当は理事長に呼び出された後、授業をさぼろうとしていたら、何故か君の魅力についての議論を拝聴する羽目になったんだよ――とは言えないから、口からでまかせを言ってみた。
我ながら嘘くさい嘘だ。こんなに血色の良い病人なんていやしない。
それなのに……。
「だったら寝てなきゃだめじゃないですか! 無理せずに休んでください!」
うわ、簡単にひっかかってるよ。目が真剣。
おまけに優姫ちゃんは引きずるようにして僕を保健室に押し込め、ベッドメイキングまでしてくれた。ご丁寧なことだ。
「早く横になってください。すぐに夜間部の保健医を呼んできますから、ちょっと待っててくださいね。あ、そうだ、お水持ってきましょうか?」
「いや、保健医も水も要らないよ。ちょっと眠れば治るから」
「でもちゃんと診てもらったほうが、」
「本当に大丈夫だから。それより、もうすぐ宵の刻だよ? 僕のことはいいから、早く行ったほうがいいんじゃない?」
「でも、」
「本当に大丈夫だよ。それに今は一人で静かに眠りたいんだ」
「……じゃあ私は行きますね。枢センパイには事情をお話ししておきますから」
「うん、よろしくね」
優姫ちゃんは保健室を出る直前に、一度だけこちらを振り返った。まるで後ろ髪をひかれているかのように。
「くれぐれも安静にしてくださいね。後で架院先輩にお願いして迎えに来てもらいますから、ふらふら出歩いたりしちゃだめですよ!」
はいはい、と軽く流すと、優姫ちゃんは大慌てで風紀委員業務に向かった。
バタバタと廊下を走っていく音が、だんだん小さくなっていく。
その足音が完全に消え去ってから、僕はようやく人心地ついた。
「こんな簡単に騙されるなんて、純真を通り越してやっぱり馬鹿だ。それに、おせっかいすぎるよ。まさに絵に描いたようなお人好しで――」
本当に呆れてしまう。
まぁ、だけど。
悪い気は……しなかった、かな?
優姫ちゃんが僕のことを真剣に心配してくれてたのは、いやでも解ったから。
『黒主ってさ、風紀委員だからうるさいとこもあるけど、なんだかんだで人の世話焼いてやる、いい子なんだよ』
さっき聞いたセリフが不意に耳に蘇った。
たしかに、ね。
それはなんとなく解るよ。
「だけど、暁に僕を迎えに来るよう頼んでおくって……、来るわけないじゃないか」
僕の仮病を信じるなんて、優姫ちゃんくらいのものだよ。
それに、僕が優姫ちゃんを騙したことを知られて、また枢様に叱られるかもしれない。
僕だって結局授業に出ようとしていたのにさぁ。
やっぱりあの子は間が抜けてる。それに僕にとっては鬼門のようだし。
だけど。
優姫ちゃんの良さについては、ほんのちょっとだけ、解った気がしてきたよ。
本当に、ほんのちょっとだけどね――。
(2006/04/02)