甘い蜜を滴らせて蝶を誘う花のように、僕を惑わせたのは君。
花の甘い蜜に誘われた蝶のように、君に惑わされたのは僕。
僕が欲しかったのは君。
僕に罪を犯させたのも君。
僕の全ては君ゆえに――。
月がどこかもの哀しげな翳りを帯びた夜。
深い闇に閉ざされた森の中を、僕は一人、歩いていた。木々の合間から差し込むわずかな月明かりを頼りに、君が待つ花園を目指して。
湿った土と枯葉を踏みしめる音とフクロウの鳴き声がこだまする中、ひんやりとした空気が肌をさす。
常ならば心地良く感じるであろう夜気を今夜そう感じることができないのは、きっと僕が今、漠然とした恐れを抱いているからなのだろう。
僕を待ち構えているのは、おそらく幸福な結末ではない。確信にも近い思いを、僕は今、たしかに抱いていた。
『今夜、秘密の花園にてお待ちしています』
それは、黒主学園の敷地から少し離れた森の奥にある、小さな花畑。昔、まだ幼かった君とよく訪れた、文字通り二人だけの秘密の花園だ。
思えばそこは、神秘的な場所だった。足を踏み入れる者がほとんどいない森の奥深く。その何故か決まった一画にだけ、野の花々が見事なまでに咲き誇るのだ。奇妙なことに、そこ以外の場所に花が根付くことは一度もなく――。
日当たりや水はけを考えれば、そこは花が育つ環境として適しているとは決して言えなかったはずだ。しかし名もないような小さな花々は、可憐に、逞しく、時に儚く、限りある生をたしかにまっとうしていた。
短い命を精一杯生きようとする姿が何故か君と重なって、僕はその花園が好きだった。
今はもう何年もそこを訪れることがなくなってしまったけれど。あの秘密の花園は、昔と変わらずに僕を優しく迎えてくれるだろうか。
いや、それはないだろう。おそらく今夜だけは。
木々が別れ、視界が開けてくるとともに、僕の心に生じていたひずみが大きくなっていくような気がする。
君との逢瀬をこれほど重苦しく思う日がやってくるなんて……思ってもみなかった。
辿りついた先には、花火を連想させる花びらをもつ花が咲き誇っていた。血色の花が群生する様は、血が滴っているようにも紅い陽炎が立ち昇っているようにも見え、美しくも禍々しい妖気を放っているかのようだ。
僕を出迎えた少女――その花々の中心に佇む君の姿は炎を従えた女神のようにも見え……どこか幻想的で。
一瞬僕は、現実から切り離された空間に迷い込んでしまったかのような錯覚に囚われたほどだ。
しかし、その立ち姿はどこか頼りなく、今にも花々に呑み込まれてしまうのではないかという危うさを孕んでいた。
あの生き生きとした少女はどこに行ってしまったのだろう。そう思わせるほど憔悴しきった瞳で、君は僕を射抜いた。
「……零を貴方の管理下に入れるというのは、本当のことですか」
何の前置きもない、ただ核心を突く質問。
いつも真っ直ぐな君らしい。――そう言えばいいのだろうか。
「答えてください、枢センパイ」
答えないでこの場をやり過ごすことなど許さない。
そう君の目が訴えていた。
そのことが、わずかに僕の胸をかきむしる。
質問をしていながら、君はすでに答えを知っている。詰るような口調になっていることがその証拠だということに、おそらく君は気づいていないだろうけれど。
君は僕から答えを聞きたいわけじゃない。それが僕を困らせることになると知っていながらも、ただ僕に救ってほしいだけなんだ。――“彼”を。
「……本当だよ。もう限界だ、これ以上彼を自由にさせておくことはできない」
「そんな……。でも零はまだ完全にレベル:Eに堕ちたわけじゃないんです! だからお願いです枢センパイ。もう少し……あと少しだけ、私たちに猶予をください!」
「…………」
「零に」ではなく「私たちに」、か。なんて卑怯な物言いだろうか。
どんなに縋られても、どんなに懇願されても、僕の答えが変わらないことは君だって本当は分かっているはずだ。
それでも自分の名を出せば、なんとかなるとでも思っているのだろうか。彼だけならともかく、僕が君を見捨てることなどできはしないということを熟知した上で、そう訴えかけているのだろうか。だとしたら、君はなんて残酷で罪深い。
……いや、きっとそうではない。およそ裏表のない君には、そういう打算は働かない。君はただ、打つ手が全くない状態で、藁にも縋る思いで僕を呼び出しただけなのだろう。
慈悲深くも愚かな君は、それがどれほど僕を傷つけているのか、まるで気づきもしないだけで――。
「可哀想だけど、これはハンター協会、元老院ともに了承している決定事項だ。もちろん黒主理事長も含めて……ね。それに、元人間の吸血鬼を管理することは僕ら吸血鬼の掟でもある。それを覆すことは誰にもできないよ」
「――でも枢センパイは吸血鬼の頂点に立つ純血種でしょう? それでもどうすることもできないんですか!?」
『純血種』
その単語に微かな嫌悪と非難が含まれて聞こえたのは、僕の気のせいなのだろうか。
少なくとも、僕が純血の吸血鬼であると初めて知った時の君にはなかった感情が、たしかに今は含まれている。
彼を地獄に突き落としたのが僕と同じ純血種だから? だから君は「純血種」そのものを憎むようになった?
……ああ、まただ。また君が僕の胸をかきむしった。
「その通りだよ。じゃあ反対に聞かせてくれないか? 仮に彼に猶予を与えたとして、それでどうするというの? どうなるというの? 事態が好転するとでも?」
「それは……っ」
辛辣な僕。言葉に詰まる君。
反論の余地がないのは当然だ。猶予があろうとなかろうと、彼の未来はすでに断たれている。生き残る術などありはしないのだから。
仮に君の望み通り彼に猶予を与えたところで、何の意味も持たない。
強いて言うなら、君が彼と過ごせる時間がほんの少し延びるだけだ。
……ああ、なるほど。君が望んでいるのはまさにそれか。彼がひとたび僕らの管理下に置かれてしまったら、人間の君が彼と容易に面会することは叶わなくなってしまうから。
最期の瞬間まで、君はあの男のそばについていたいんだ。
彼を獣に貶めた吸血鬼の手にかけさせることなく、せめて自分が看取ってやりたいと。
だけど可哀想に。いかに純血種の権限を振りかざそうとも、できないことはあるんだよ。
「……どうしても、見逃してくれることはできない、と……?」
「そうだよ」
言い切ると、泣き出しそうな顔をして唇を噛みしめる。
俯き、小刻みに震える肩が痛々しい。できることなら君の哀しみを取り除いてあげたいと思う。
その気持ちは嘘ではなかったけれど――その反面、その様を嬉々として見下ろしている自分がいる。僕はその矛盾を醒めた心で自覚していた。
今夜の僕はどこかおかしい。ひどく……嗜虐的だ。
まさかこの秘密の花園の魔力にとりつかれているとでもいうのだろうか。
普段の僕なら悲しむ君を優しく抱きしめ、慰め、温かく包み込んだことだろう。それなのに今は。
もどかしい。そして苛立たしくてたまらない。
君の哀しみを嘲笑う僕の心が。
君にこんなに悲痛な顔をさせる原因となったあの男が。
そして責めるように僕を見つめた君の眼差しが。
それからどれほどの時間がたったのか。実際にはたいした時間ではなかったのだろうが、無言で俯いたままだった君がようやく顔を上げた。
そこにはそれまでになかった決意のようなものが見て取れた。
……君の表情を不快に思ったのは、この時が初めてだった。
「ごめんなさい、枢センパイ。私にはどうしても零を見捨てることができません」
祈るように両手を組む姿は、まるで聖女のようだ。清らかで、慈愛に満ちている。
だけどそんな君が祈りを捧げるのは、全てが彼のため。
僕のために君がこんな顔をすることはない。
「だから私は……」
だめだ、それ以上は。それ以上、言ってはいけない。
君がそれを口にしたら、僕は――。
そんな願いもむなしく、君は昂然と僕に告げる。
「だから私は行きます。――零と一緒に」
やめてくれ、優姫――……!
きゃっ、という小さな悲鳴で我に返ると、僕は君を花々の褥に組み敷いていた。
紅い花々の中に埋もれ、僕らはむせかえるような香りに包まれる。
両腕を僕に押さえつけられ、困惑した瞳が僕を見上げた。
「枢……センパイ……?」
もう、だめだと思った。
今まで必死に抑え込んできた感情が激流となって僕の中で渦巻いている。
「優姫……、君は本当に優しい子だ。だけど分かってる? 君は時に、この上もなく残酷になるということを」
同胞たちにかしずかれ、君主として崇められる純血種。
だけど誰も分かってはいないんだ。純血の吸血鬼など――、貴い血脈という名の狭い檻に押し込められた、ただの囚人に過ぎないのだということを。
真に心許せる者もなく、真に心を預けてくれる者もなく、永遠の孤独に囚われた存在。
純血種に求められるのは、そのまったき血を次世代に繋げること。
そんな純血種が人間を愛してしまったならば――究極の選択を強いられることになる。
愛しているからこそ、その血を啜りたい。
愛しているからこそ、その血を啜ることができない。
吸血鬼の本能に従うことがすなわち、愛した人を壊してしまうことに繋がってしまうから。
全てに恵まれているように見えて、がんじがらめの制約に縛られて身動きが取れない存在。それこそが純血種の正体だ。
そんな僕にとって君は唯一の光だった。
君とともにいる時だけ、僕は温かさを感じることができたんだ。
その君が僕を捨てて、僕の前から消え去ると?
あの堕ちた人間のために――?
「逃げてどうするの? 逃げ切れると、本当に思ってる?」
「……逃げて、みせます……!」
目をそらすこともなく、僕に言う。それが不可能と分かっているくせに、それでも君はそう言わずにいられないんだ。彼のために、自分を奮い立たせねばならないから。
彼を狩らねばならない立場の僕に偽りなくそれを告げてみせたのは、君が僕を信頼している証だ。
こんなふうに僕に押さえつけられている今でさえ、僕が君に害を及ぼすことなどありえないと確信しているのだろう。だからこそ今、何の抵抗もせず、おとなしく僕を見上げているだけなんだ。
君は僕を決して疑わない。だって君は僕のことを聖人君子のように思っているのだから。
僕が血生臭い欲望を抱えているなどと、想像したこともないだろう。
そんなふうに信頼されていても今の僕にはむしろ悲しいだけなのに、きっと君だけが永遠にそのことに気づいてはくれることはない。
「これでも僕はずっと譲歩してきたつもりだよ。危険だと知りながらも、血に飢えた獣を君のそばに置くことを、見て見ぬふりをしてきた。……君がそう望んだから」
「……はい。枢センパイには本当に感謝しています……」
「だけどこれ以上見逃せないことは、君が一番良く分かっているだろう? 放っておけば、彼はきっと人間を餌食にする」
「……その時は……私が零を……殺します。そうなる前に……必ず。……零と、そう約束したから……」
そう言って君は初めて僕から目をそらした。
絶望で歪んでしまいそうになる顔を、見られたくないのだろうか。
その悲壮な決意はきっと嘘ではないのだろう。でも彼を君自身の手で殺してしまったら、君の心はどうなる? 優しい君はきっと、その衝撃に耐えられないと思うよ。
……それとも君もすぐに彼の後を追うつもりだとでも?
無意識に、君を押さえつけている手に力を込めてしまっていたらしい。君の表情が痛みを訴えかけていたけれど、僕は力を緩めてやるどころか、ますます強く君を押さえつけていた。
「枢センパイ……痛い……っ」
苦痛に歪む顔さえ愛しい。そう言ったなら、君は怒るだろうか。
君はどうしてそこまで彼を庇うのだろう。
何度もその血を糧にされたはずなのに。いや、君のほうから彼にその身を捧げたんだったね。そのたびに僕の心を切り刻んでいたとも知らないで。
そんなにも君は……。
「彼が……好き? 彼なしでは耐えられないほどに」
一瞬だけ目を瞠り、しかし君はすぐに半眼を伏せる。
「……この気持ちを何と呼べばいいのか、正直、自分でもよく分かりません。だけど大切なんです、零が、どうしようもなく。今の私には、零がいない世界なんて考えられない……」
その気持ちを何と呼ぶか、僕は知っているよ。
僕がずっと君に抱き続けてきた想いが、まさにそれだから。
彼を愛しているんだね、僕の元から去ることも厭わないほどに。
僕はずっと君を見てきた。いつも君だけを見てきた。欲しいのは君だけだった。だけど君を壊してしまわないためには、ただ黙って見守ることしかできなかった。
だから今日までずっと、僕の中に巣食う獣を必死に抑え付けてきたんだ。血に飢えていたのは、なにも彼だけじゃなかったから。
多くは望まない。せめてそばにいてほしいと、僕はただそれだけを願っていた。それなのに君は――。
僕の中で何かが弾ける音がした。
抑えに抑えてきた黒い感情が、堰を切って溢れ出す。
それはもう止まらない。そしてまた、それを止めようとも思わない。
「……せない」
「え?」
「行かせないと、言ったんだよ」
「あの……、枢センパイ……?」
トーンの下がった声音に怯えたのか、それとも僕の異変を察知したのか。
君の体が明らかに強張った。
「彼のところには行かせないよ、優姫」
絶対に離さないよ、僕のそばから。
「……どこにも逃がさない」
「――枢センパイっ!」
僕の狂気を肌で感じ取ったのか、それまでおとなしかった君が一転、手足をばたつかせようとした。
だけど無駄だよ。君の腕力では僕の片腕すら動かすことはできないし、僕自身、この拘束を解いてあげるつもりはない。
やっぱり僕の予感は的中してしまったというわけだ。秘密の花園にやってくるまでに抱えていた漠然とした不安が、こうして現実になってしまった。
なんという夜になってしまったのだろう。
どんなに愛しても得られないものがあると知った夜。
そして、欲望を満たす至福を初めて感じるであろうと同時に、君を永遠に失うことになる夜。
もしも君が、たとえ嘘でもいいからどこにも行かないと言ってくれたならば、状況は変わっていたのだろうか。
「彼に君を奪われるくらいなら、いっそこの手で全て壊してやりたいよ」
大きく息を呑む君を見ても、僕の心は麻痺していて何も感じなかった。
僕にとってはどちらも同じことだ。結局、君を失うことに変わりはない。
君の両手を頭上でひとまとめにし、片手で押さえつける。薄く開いた口元からわずかに牙を覗かせると、君の表情が凍りついた。
直後、無駄な抵抗だと悟りながらも、聞き分けのない子どものように、今唯一自由に動かせる頭を振り続ける。
その際に、僕たちを囲う花の葉が柔肌をかすり、君の頬に一筋の傷がついた。
細い線状の切り口から、じんわりと血が滲み出る。ふわりと、甘い蜜のような香りが鼻腔をくすぐった。
花の匂いなのか、君の血の匂いなのか。そんなことは、もう、どちらでもかまわなかった。
その甘い匂いに誘われるまま、僕は滲んだ血を舌で絡めとった。
刹那、甘美な刺激が僕の全身を駆け巡る。
「とても甘いよ、優姫」
本当に甘い。匂いで感じていた以上に、そして今までずっと想像していた以上に。
蕩けるような、まさに極上の餌だ。
ずっと味わいたかった君の蜜に酔ってしまいそうになる。
こんな少量ではなく、今度はその首筋から、温かな血潮を味わいたい。
君の喉元に今すぐこの牙を突き立ててみたい。
黒い欲望は枯れることなく、ますます勢いを増して溢れだす。
細い首筋を唇でゆっくりなぞっていくと、不思議とその素肌までを甘いと感じた。
「やっ……やだ……っ!」
なんとかして体を捩ろうとする君が、悪魔に捧げられる生贄のようで、とても哀れに思えた。
だけどそれがかえって僕の征服欲を掻き立てていることも、また事実で。
「いつも君に触れたいと思っていた……」
「枢センパイ、どうしちゃったんですか!? お願い、放して……っ!」
君の瞳に映る僕は、今どんな眼をしている?
僕にはそれを確認する術はないけれど、きっと狂気の光を宿していることだろう。
君に別れを告げられたあの瞬間から、花も、月も、そして君さえも、僕の目に映る全てのものが色を失ってしまった。
僕に唯一の温もりをくれた君が、他でもない君が、僕を奈落の底に突き落としてしまったのだから。
「枢センパイ……。やめて……やめて、ください……」
「……ごめんね、優姫。できることなら僕も君だけは壊したくなかったよ」
「だめ……センパイ、お願い……やめて……!」
「拒まないで、僕を」
「……っ! いやっ! 零……、助けて……零……っ!!」
最後の最後まで君は残酷に僕を抉るんだね。
力の限りに呼ぶ名前が、どうして逆効果になると気づけない?
哀れなほどに愚かな君。
君の唇が紡ぐのは、あの男の名前だけ。
君が求めているのはあくまでも彼一人だということを、わざわざ僕に示してくれているの?
凍てついていた僕の心を、君は今、完膚なきまでに破壊してしまった。
たとえ色を失っていても、花々の褥に横たわる君の姿は不吉なほどに美しかった。
この涙も、この熱も、この吐息も――この血の最後の一滴までも。
全ては僕のもの。
僕はこれら全てを魂に刻み付けて、永遠に忘れはしない。
「枢センパイ……どうして……?」
最後に僕の名を呼んでくれたのは、僕への恐怖だったのか、憐れみだったのか、それとも君の最後の優しさだったのか。
「君だけを愛してるよ、これからもずっと……」
「――……っ!」
永遠に、君だけを。
僕は最後に心からの微笑を浮かべ―――君の柔肌に牙を突き立てた。
瞬間、世界が血色に染まった。
目覚めると、そこは月の寮の自室だった。
ソファに横たわって書類を眺めていたまま、うっかり寝入ってしまっていたらしい。床には読みかけの書類がちらばっていた。
「……夢か……」
じっとりと汗ばんだ体が、とても不快だった。
夢を見ること自体めったにないというのに、おかしな夢を見たものだ。
「……あんな禍夢に囚われるなんてね」
それもこれも、あの花が原因だろうか。
壁際の花瓶に視線をやると、禍々しい妖しさを醸し出した血色の花が飾られている。
曼珠沙華。
最近元気がない僕の慰めになればと、一条が気を利かせて持ち込んだ花だ。それは野生の花で、客観的に見れば、純血種の居室を飾るには相応しくはないのだろうが。
『君には品種改良を重ねたような豪華な花じゃなく、野に咲く素朴な花のほうが案外似合っているんじゃないかと思ってね』
そう言って意味深に微笑んだ一条の真意は、どこにあったのか。
「それにしてもすいぶんと生々しい夢を見たものだ……」
本当に、何もかもがリアルだった。
押さえつけた手の力も、少女の怯えた眼差しも、肌の温もりも、血の匂いも、そしてその味も。
細い首筋に牙を突きたてた感触と、その瞬間得た幸福感と絶望までも。
鮮明すぎるほどに覚えている。あれが夢などとはとても思えないほどに、あの時の感覚を体が記憶していた。――それは錯覚に過ぎないはずだというのに。
「夢は己の願望を映す鏡だと言うけれど……」
――僕がこの手で君を壊してしまうなど。
「僕は『彼』のように内に飼っている獣を暴走させたりはしないよ」
これからも、ずっと制御してみせる。君を失ってしまわないために。
たとえ君がどれほど甘い蜜を滴らせようとも、僕は君という花に牙をたてたりはしない。
あの夢のように、狂気に呑み込まれたりはしない。
だけど。
常に君のまわりを飛び続ける蝶であり続けることを、君には許してほしい。君をどこにも行かせるつもりはないことだけは、あの夢の通りだ。
それだけは譲れない。僕はずっと君のそばにいる。
君という花を失ったなら、僕という蝶もまた行き場をなくしてしまうから。
君を失ってしまったら、僕もまた失われてしまうだろう。
それほどに僕は君を愛しているから。
だから君だけは、僕を裏切らないでいてほしい。
僕が君を壊してしまわぬよう、どうか、裏切らないで。
――そう、切に願う。
(2005/10/01)