Dee or Dum (Alice in Clover)


「ねえ、兄弟」
「なんだい、兄弟」
「いくらお姉さんでも今回はこっぴどく叱られちゃう気がしない?」
「僕も今それを思っていたところだよ。お仕置きは避けて通れないだろうね」
「どんなお仕置きだろう」
「一番恐ろしいのは減給だよ」
「えー? 休憩時間を減らされるほうが辛いよ」
「どっちにしても、普段から慎ましくて仕事熱心なお姉さんには、あんまり効果なさそうだけどね」
「じゃあ、お尻ぺんぺん?」
「いいね、楽しそうだ」
「羨ましいよね、僕もやりたい」
「ボスなら内心ノリノリでぺんぺんしそう。趣味と実益を兼ねるってやつだよ」
「それってお仕置きじゃなくて普通に『プレイ』って言うんじゃないかな、兄弟」
「だったら、にんじん料理責めなんてどうだろう。拷問だよ」
「ああ、それは恐ろしいね、おぞましすぎる。でもそれだとボスは自分の首を絞めることになっちゃうよ?」
「あ、そっか。オレンジ色の拷問道具が視界に入るだけで死んじゃうかもしれないね、お姉さんじゃなくて、ボスが」
「だったら、当分の間、外出禁止ってのはどうかな」
「いいね。敷地内に軟禁ってのがお姉さんには一番効果的な気がするよ」
「それだと余所の領土の奴らに邪魔されずにお姉さんと遊び放題で、僕らにとっても一石二鳥だしね」

 深夜の森の奥深く、色鮮やかな斑点模様をした巨大きのこの上には、顔色がやたらと悪いくせに上機嫌で水煙草をふかしている眼帯の男が一人と、その肩にしなだれかかって寝息を立てているエプロンドレスの女の子が一人。
 それを正面からじっと見据え、ひんやりとした冷気を醸し出しているマフィアのボスが一人と、その横でひそひそと崇高かつ真面目な議論を繰り広げている僕ら双子が一組。
 そしてその横に、僕らのファミリーで飼育している長いお耳のウサギが一匹。

「くっせぇーーーーー!!!」

 夜のしじまを切り裂いてウサギが吠えた。まるで、月に向かって咆哮する野犬のように。
 犬並みの嗅覚を誇るウサギにはこの臭気はきつすぎるようで、思いきり顰められた顔は夜目にも青ざめて見える。血の海でも平気で泳げそうなほど図太い奴だと思っていたのに案外情けないんだな――と、ひよこウサギを哂えないのは、悔しいけれど、僕と兄弟も同じ穴の狢だからだ。
 今は大人の姿でも僕らは本当はまだ子どもで、子どもらしく甘いものが好きだけど、胸焼けしそうなほどの甘ったるさは耐え難い悪臭でしかない。さっきまでしていた議論は実は、この匂いから逃れるためのちょっとした現実逃避だったりする。

「なんだよ、この異様なまでに甘ったるい匂いは。うぇ……、気持ちわりぃ……」
「パッションフルーツフレーバーの水煙草だ。どうだ、うまそうだろう?」
「パ……パッションフルーツフレーバー……」
「他にもミント、オレンジ、レモン、ピーチ、バナナ、ストロベリー、アプリコット、グレープがある。君も試してみるか、エリオット」
「……心から遠慮するぜ」

 うええぇ……と心底気持ち悪そうに呻いたウサギと対照的に、恍惚の微笑を浮かべている眼帯の男――夢魔ことナイトメア=ゴットシャルク。
 蓑虫または芋虫とも呼ばれているこの男は、常々『病弱で手のかかる子』をアピールしてお姉さんの気を引こうとしている姑息な奴で、一応この緑の国の最高責任者でもある(けど、それは名目上のことで、実際のところは仕事を全部部下に丸投げしている、ただの役立たずにすぎない)。
 ここは、芋虫が治めるクローバーの国の、とある森の中。
 人目につかない場所で仕事をサボっていたに違いない芋虫の、悪趣味極まりないフレーバーのおかげで、本来清涼なはずの空気はすっかり汚染されてしまっている。隙間なく茂っている枝葉に邪魔されて、換気が不十分なのが最大の敗因だろう。
 幸い、僕らの目当ての人物――五回時間が変わっても屋敷に帰ってこなかった悪い子のお姉さんは無事発見できた……お姉さんの体にしみこんだ、お姉さんが作ったにんじん料理の匂いとやらを辿り、見事ここまで辿りついた犬のようなウサギの活躍のおかげで。
 だったら、さっさと目的を果たしてこの場を去るのが最良の選択。
 犬ウサギもといひよこウサギもそう思ったんだろう。気分が悪そうながらも気を取り直したように表情を引き締め、つかつかと巨大きのこの前まで歩を進めた。

「ほらアリス、起きろよ。迎えにきたんだ、帰ろうぜ」

 肩を軽く揺すられて、お姉さんの瞼がゆっくりと開いていく。お姉さんは寝惚け眼でウサギを見、次に緩慢な動きで僕らとボスに視線をめぐらせ、最後に一言ぽつりと呟いた。

「ぶらっろ……」

 なぜか怪しい呂律だけど、たぶんボスの名前を呼んだつもりなんだろう。お姉さんはいまだに焦点の定まらない瞳でさらにもう一度僕らを見回してから、不思議そうに小首を傾げる。

「なんで、ぶらっろが四人もいるの?」
「はあ?」
「なんだと?」
「「お姉さん?」」

 お姉さんを迎えに来たメンバー全員の声が重なった。
 ボスが四人……いるはずがない。お姉さんが冗談を言っているようにも見えない。
 お姉さんがよりかかっている芋虫を除けば、今お姉さんの目の前にいるのはボスと僕と兄弟とひよこウサギがそれぞれ一人ずつの、計四人(約一名、『一匹』の単位の奴もいるけど)。遠くの島国に生息しているニンジャとやらが使うブンシンノジュツじゃあるまいし、ボスが増殖するはずがない。
 どうやらお姉さんには僕ら全員がボスに見えているらしかった。

「お姉さん、酔っ払ってるの……?」
「やいナイトメア、てめえ、どれだけアリスに飲ませやがったんだ! それともなにか? まさか妙な薬でも使ったんじゃねえだろうな!?」
「もしかして、べろべろに酔わせたお姉さんを森に連れ込んで変なことをしようとしてたんじゃ……」
「―――っ! ナイトメア、てめえ……っ!」

 ウサギがいきり立つと、芋虫は違うぞというジェスチャーでぶんぶんと手を振った。

「し、失礼なことを言うな! ふしだらな妄想で話をでっち上げるのもよせっ! アリスは酒など一滴も飲んでいないし、私も何もしていない。ただここで一緒に休憩していただけだ」
「だったらなんで幻覚が見えてんだよ!」
「そうだよ、明らかにラリってるじゃないか!」
「明らかにへべれけじゃないか!」
「分からないのか? なら教えてやろう、簡単なことだ」

 気色ばんだ僕らに動じることなく、芋虫はふふんと鼻を鳴らした。読心能力のない僕らにも『ふふふ、どうだ、私は物知りだろう? 偉いだろう? 偉大だろう?』という芋虫の心の声が聴こえてきそうなほど、得意げに。

「この水煙草には幻覚作用がある」
「「なっ……!」」
「んだと!?」

 刹那、パッションフルーツ一色だった空気が混じり気のない殺気に塗り替えられる。僕と兄弟が同時に地面を蹴る音と、その横でガンベルトから銃が引き抜かれる音が重なった。
 次の瞬間には芋虫の額に風穴があき、その首は胴体から離れていたはずだった――まさに紙一重のタイミングでかけられた「待て」という、ボスの底冷えするような制止さえなければ。
 僕と兄弟は芋虫の頭上で大きく振り上げていた斧を、ひよこウサギは芋虫の額ど真ん中に照準を合わせトリガーを引く寸前だった銃を、それぞれしぶしぶ降ろした。

「ブラッド……」
「ボス、なんで止めるのさ!」
「そうだよ、芋虫を真っ二つにしてやろうと思ったのに!」
「救いようのない駄目男だとしても、ナイトメアは一応この国の領主だ。引越し後の会合は絶対のルール。今はまだ、会合主催者を失うわけにはいかない」

 氷点下を思わせる声音でボスは言った。会合開催期間中は手出しできないのだと。僕らは理解した。言い換えれば、会合が終わりさえすれば始末してかまわないのだと。
 明確な言葉にしなくても、ボス自身、その気でいるのが分かった。
 ボスがそう言うなら、歯噛みしながらも、ここは引くしかなかない。たしかに、この世界に属する以上、守らなければならないルールはある。芋虫に手を出せないなら、せめてその部下たちに肩代わりさせてやるまでだ。

「ま、まったく、物騒な連中だな……ちょっぴり、ほんのちょっぴりだが本気で焦ってしまったじゃないか。ついでに私の部下たちを使っての憂さ晴らしを画策するのもよせ」
「年中血を吐いてばかりの君と違って、うちの連中は血の気が多くてね。部下の非礼は詫びよう」
「アリスなら心配いらない。この水煙草は、短時間、ほんのちょっと妙なものが見えたり聞こえる程度で、害などないからな」
「思いきり有害じゃねえか!!」

 ひよこウサギの怒声が響いた、その時だった。

「あ……」

 うつろな視線を彷徨わせ続けていたお姉さんの体がぐらりと傾き、巨大きのこから落下しようとした――ところを、ひよこウサギがすかさずキャッチしたのは。
 これは単にひよこウサギがお姉さんの真正面にいただけのことで、僕らやボスが出遅れたわけじゃないということを僕らの名誉のために補足しておく。

「あっぶねーなあ。大丈夫かよ、アリス」

 ひよこウサギが腕に抱え込んだお姉さんを心配そうに覗き込み、頭を撫でたのとほぼ同時に、横から肌を刺すような冷気が流れ込み、僕らはごくりと息を呑んだ。もちろん冷気は目に見えるものじゃないから、僕らが視界の端に捕らえることができたのは、ボスの眉が一瞬不快げに動いた様子だけだったけれど。

 ――この様子だと、屋敷に軟禁程度じゃすまないかもしれないね……。

 僕の片割れに目だけで語りかければ、

 ――同感だよ、兄弟。お姉さん、可哀相に……。

 とでも言うような視線が返ってきた。
 ひよこウサギは平然とお姉さんを介抱している。空気を読めない芋虫でさえ、ボスからただならぬものを感じ取り、落ち着かない様子を見せ始めているのに。
 人外の嗅覚を持っているくせに、ボスの腹心のくせに、どうしてこの冷気に気づかないのか心底不思議だ。もっとも、変なところでそこまで鈍感だからこそ、お姉さんとボスの関係にも、まだ気づいていないんだろうけど。
 十中八九、お姉さんにはボスの手がついてしまっている。そうなったのは、たぶん最近。屋敷の使用人たちも、あえてそれを口にしないだけで、ほとんどの者がすでに二人の関係に気づいていると思う。そういうことは、見る者が見れば分かるものだ。
 自分の女の無防備さに、自分の女に遠慮なく触れてくる男たちに、ボスは怒っている。静かに、その分、根深く。
 思えば、屋敷を出た時からすでに不機嫌だったのに、お姉さんを発見してからは機嫌が直るどころか急降下する展開にばかり出くわしているのだから、無理もない。
 面倒臭がりなボスはたいていのことには寛大だけど、自分が執着を覚えたものに対しては途端に心が狭くなることを僕らは知っていた。

「さあアリス、俺がおぶってやるから、とにかく屋敷に帰ろうぜ」

 心底空気の読めない馬鹿ウサギの提案に僕らがヒヤヒヤしている中、お姉さんはふるふると首を振った。

「違う……」

 ぼそりと呟いてからひよこウサギの腕をすリ抜け、千鳥足で僕の前に立つ。そして重そうな瞼のまま、だけど僕をじっくり見つめてから、またふるふると首を振った。

「見た目は同じらけろ、違う」

 次は兄弟の前に立ち、お姉さんはやっぱり同じことを繰り返した。

「これも、違う」

 覚束ない足取りで最後にボスの前に立ち、とろんとした目でボスを見つめる。ボスもまた、何も言わず、お姉さんを見つめ返していた。相手は酔っ払いに等しい状態だから、さしものボスも脈絡のない行動が読めないんだろう。
 甘い気配はそこになく、絡み合う眼差しは、不躾に観察する視線と、相手の出方を窺っている視線の応酬でしかない。
 不思議な緊張が続いた。誰もが無言のまま、お姉さんの行動を見守っていた。
 だけど緊張の糸が切られるまで、それほど時間はかからなかった。お姉さんがボスの胸にぽすんと音を立てて倒れこんだのだ。華奢な体をボスが少し戸惑いがちに受け止めると、お姉さんの口元が微かに綻んだ。

「ぶらっろ……」

 満足そうな、その声。

「これがいい……。このぶらっろじゃないと、らめ」

 僕らを検分する時間はそれなりに長かったから、お姉さんの目には、顔や体型や服装を含め、僕らの全てが完全にボスとして映っていたんじゃないかと思う。
 なのにお姉さんは本物のボスを選んだ。自ら取捨選択して、間違えることなく。

「抱っこ」

 唐突で思いがけない言葉と、ボスを筆頭に呆ける僕らと、しばしの沈黙。
 たぶん、その場にいた全員が全員が、脳内でその言葉の意味を熟考したに違いない。だって、それほどまでに、お姉さんと結びつかない言葉だったから。
 抱っこ。しかも裏社会の頂点に君臨している男に、それをしろ、と。
 ――ああ、さすがにラリっているだけのことはある……。
 この時、お姉さんを除く全員が同じことを思ったと断言できる。
 一方のお姉さんは、いまだ固まったまま動こうとしないボスに焦れたのか、もどかしそうにボスの胸を掻いた。

「ぶらっろ、抱っこ」

 さっきより強い口調に、止まっていた時が動き出す。
 乞われるがままボスがお姉さんを抱き上げると、それで満足したのかお姉さんはボスの胸板に頬を摺り寄せてゆっくりと瞼を下ろし、やがてすうすうと小さな寝息を立て始めた。
 数拍置いて、それまでほとんど黙り込んでいたボスの口から、吐息がひとつ零れ落ちた。
 なんだか、すごく複雑なため息だった。呆れ、脱力、当惑、疲労。それら全部のようでいて、全部違うような気もする。重量感が感じられても、そこに刺々しさはない。
 ボスのため息の中に、それらとは別の感情が含まれているような気がしたのは、きっと僕だけじゃないだろう。……ほんの少し柔らかさを感じさせる、何か。
 あんなにも張り詰めていた空気は、いつの間にか消え去っていた。

「……帰るぞ」

 やけにぶっきらぼうに言い放ち、ボスが唐突に踵を返した。
 僕らを振り返ることなく、一人すたすたと歩き出す。普段のだるそうな様はどこへやら、人一人抱えているとは思えないほどの足取りで。
 今の自分の顔を見られたくないのか、お姉さんを一刻も早く屋敷に連れ帰りたいのか。……たぶんその両方だろう。
 兄弟と二人して、ボスにまとわりついて直接答えを聞いてみたいところだけど、その場合僕らがお仕置きを受けることになるのが目に見えているから、触らぬ神に祟りなしだ。

「あ、おい、ちょっと待ってくれよ、ブラッド!」

 ひよこウサギも慌てて後を追い始めるけど、ボスの背中は早くも遠ざかり、すっかり小さくなっていた。
 おまえらも早く来やがれと怒鳴りながら駆けていくウサギを見送って、僕と兄弟は顔を見合わせる。

「すっかり当てが外れちゃったね、兄弟」
「残念ながら、そうみたいだね」

 僕らが最初に予想した通り、今後しばらくお姉さんに外出禁止令が下される可能性は高い。そうなればお姉さんとたくさん遊べると思って喜んでいたけれど、間違いなくぬか喜びに終わりそうだ。
 しばらくの間、お姉さんに会わせてもらえないことは確定的だ。あの様子だと、ボスは当分お姉さんを傍から離さないに違いない。お仕置きだろうがプレイだろうがそれ以外だろうが、ボスはきっとしつこいだろうから。
 はたしてお姉さんは生きてボスの部屋から出ることができるだろうか。……心配だ。

「ねえ兄弟。このまま屋敷に戻ってもつまらないから、これからクローバーの塔の連中に遊んでもらおうよ」
「そうだね、そうしよっか。それなら少しは気が紛れるかもしれないし」
「だから私の部下たちで憂さ晴らしをするなと言っているだろうが!」

 僕と兄弟は、巨大きのこの上ですっかり存在を忘れられていた芋虫の叫びをさっくり無視することにした。






迷子のお姉さんの正しい連れ戻し方





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