面倒なことが嫌いなくせに存外几帳面なのか、それともメイドたちが有能すぎるせいなのか。いつも整然としているブラッドの私室が散らかっていることは、まずありえない。
だけど今、絨毯の上には大量の空箱が、そしてベッドの上にはドレス、靴、宝石をあしらったアクセサリーの数々が、空箱と同じ数だけ、乱雑に放り出されていた。
箱の数は、私がこれまでブラッドの好意を無碍にし続けてきた回数を示していると同時に、それにめげなかったブラッドのしつこさの証でもある。
――飽きっぽいくせに。
私が知る限り誰より飽きっぽい男のくせに、ブラッドは飽きることなく贈り物を続けた。
その意味を勘違いしたくなってしまう自分に気づかないふりをして、何とはなしにそれらを横目で見やっていると咎めるように名を呼ばれ、視線を元に戻す。
目の前の姿見には、仕立ての良い上品なドレスに身を包んでいながらにこりともしない小娘と、その小娘を背中から柔らかく抱きしめながら、満足そうに目を細めている男の姿が映っていた。
何がそんなに楽しいのだろう。男――ブラッドは、掛け値なしに上機嫌だ。
「余所見をするな、アリス。ちゃんと前を向いていろ」
「きちんと片付けないとドレスが皺になっちゃうわ。アクセサリーも、ぞんざいに扱っていい品じゃないでしょう」
「また新しいものを買ってやるから問題ない」
「……ブラッド。もう約束を忘れてしまったの?」
鏡の中の嫌味なくらいに整った顔を睨みつけても、ブラッドはどこ吹く風だ。私の声など聴こえていませんとでもいうような顔をして、鏡に映る私の姿を懲りずに眺め回している。
「ブラッド」
「やはりネックレスはルビーにして正解だったな。深い赤がドレスの黒によく映える」
「ブラッド」
「ふむ。どうせなら、ネックレスとそろえて赤いリボンも作らせるべきだったか」
「ブラッド!」
我慢できずに肩越しにブラッドを振り返ると、大きな手のひらが頬に触れて、顔を正面へと優しく押し戻される。
「ちゃんと前を向いていろと言ったはずだぞ、アリス」
ブラッドはどうしても私を鏡に向かわせたいらしいが、聞き分けのない子供に辟易するような声音に私の神経はますます逆撫でされるばかりだ。
効果がないことは分かっていたけれど、そうせずにいられなくて鏡越しにブラッドをきつく睨みつければ、ブラッドはやれやれと言わんばかりにわざとらしく溜息をついた。
「ちゃんと憶えているさ。私が今までに贈ったものを一度だけ私の前で身に着けるかわりに、今後は贈り物を一切やめろというのだろう?」
「その通りよ。憶えているなら、約束はちゃんと守ってくれるわよね?」
「贈り物は大体気に入ってくれているんだろう? 実際、着てみたらどれもこれもよく似合っていた。なのに、何がそんなに気に入らないんだ」
本当に溜息をつきたいのは私のほうだ。約束を守ってくれと言った私の言葉は、ごくさりげなく、だけど綺麗に無視されている。
眉が寄った。どうやらブラッドの耳は、都合の悪いことは完全に遮断してしまう仕様らしい。
約束は絶対に守ってもらうわよ、と強く釘を刺した上で、私は再度、そう遠い昔ではない日にブラッドに言ったはずのことを説明してやることにした。
ブラッドが一度聞いたことを憶えられないのなら、憶えるまで何度でも繰り返してやるまでだ。私は根気強い性格ではないけれど、そうしないと困るのは私なのだから仕方がない。
「前にも言ったわよね、あなたとの関係を宣伝して歩くようなことはしたくないって。分不相応なものを貰っても困るだけだし、そもそもあなたから贈り物を貰う理由がないもの」
どんなに美しいドレスも、宝石も、靴も、帽子も、鞄も、何一つ、私には必要ない。……私が本当に欲しかったものは、形のあるものではないのだから。
ブラッドから贈り物をされるたびに、私の中に在る相反する感情がせめぎあった。正と負の二つの感情は、いつもほぼ同じくらいの強さで私を揺さぶり、翻弄する。だけど最後に勝利を収め、私を支配するのは、決まって負の感情のほうだった。いつもいつもいつだって、嬉しさ以上に胸が苦しくなる。
ブラッドに好かれていないなんて言うつもりはないけれど、それは私が余所者であることの恩恵で、その余所者への好意もいずれは終わる。ブラッドは気まぐれで気分屋だから、今この瞬間に宝物だったものが次の瞬間にゴミに変わってしまうことだってありうる。余所者への思いも、きっと、そうなる。
ブラッドにとって私はお気に入りの玩具と同じ。私たちの関係を暇潰しだと最初に言ったのはブラッド自身で、彼にとって私との情事はちょっとした火遊びにすぎない。
私がブラッドを想うようには、ブラッドが私を想ってくれることはない。
それなのに、贈り物をされるたびに、そこに私と同じ種類の気持ちが込められているのではないかと期待したくなる。何かを捧げられれば捧げられるほど、ブラッドの心も一緒に捧げられているような錯覚を覚えて、私の心はどんどん縛られていきそうになる。
それが嫌だった。ブラッドの気持ちを都合良く勘違いしたくなってしまう自分がたまらなく惨めに思えて、どうしようもなく苦しかった。
いっそ贈り物を突っ返してしまえば楽なのに、ブラッドが私のために選んでくれたものだと思うと、それもままならない。
このままではいけない。取り返しのつかないことになる前に手を打たないといけないと思ったから、あの日、ブラッドに贈り物をやめてくれるように頼んだのに。
ブラッドは、強制はしない、気が向いたら着てみてくれと言ったのに。
言ったそばからブラッドはそれまで以上の贈り物攻勢に転じ、どうして着てくれないんだと甘ったるく不満をこぼすようになった。
ああ見えて天邪鬼で子供っぽいところがある男だから、私が頑なな態度をとり続けたことで、かえって燃え上がらせてしまったのだろう。負けず嫌いなブラッドにとっては、私にドレスを着させることも退屈しのぎのゲーム……そんな感覚に違いない。
そもそも高価な贈り物にしたって、男の沽券や見栄を強く気にする男の、これはいわば情事の一環にすぎないのだ。
贈った服を私に着てもらえなくても、本当は痛くも痒くもないくせに。
それがどれだけ私を苦しめているか、知りもしないで。
……人の気も、知らないで。
だから私は一度きりと決め、ブラッドと約束を交わして、彼が望むとおりに私の抵抗の象徴、あるいは心の鎧とでも言うべきエプロンドレスを自ら脱いで、ブラッドに与えられたドレスに自ら着替えた。ブラッドによって無残に傷を広げられるよりは、自分から傷をつけることで傷口を最小限に抑えるほうが得策だと考えて。
だけど今、私は自分が判断を誤ったかもしれないと少し後悔し始めている。
だって、ブラッドが、こんなにも――。
「アリス」
私の腰に緩く絡み付いていたブラッドの腕の力が強くなって、思わず顔を上げた。そして気づく、私が、いつの間にか俯きがちになっていたらしいことに。
「また小難しいことでも考えていたのか?」
「……別に、小難しいことなんて考えてないわよ」
答えるまでに少し間があいたのが、何よりの肯定になってしまった。
ブラッドは小さく笑い、私は唇を噛んだ。私の葛藤はこれっぽっちも読み取ってくれないくせに、こんなときばかりブラッドは私という人間を見透かしてくれる。
「私からの贈り物を貰う理由がないと言ったな」
「ええ、言ったわ。稼ぎだけは良い家主さんのおかげで、普段から何の不足もない状態で寄宿させてもらっているもの」
「理由なら、ある」
「……もしも『君は私のものだから』とでも言うつもりなら、やめてちょうだいね。情婦なんて言葉も嫌だけど、物扱いされるのはもっとご免なの……これも何度も言ったと思うけど」
実際に私の今の立場を考えると、情婦という言葉については仕方がないと思う。だけど、「やっぱり私は玩具扱いでしかないのだ」と再認識させられるから、私はブラッドの口から頻繁に飛び出す「私のもの」という言い回しが大嫌いだった。そして、私を自分のものと勝手に認定しているブラッドは、私がこの言い回しを嫌がることを嫌っていた。
だから今、さぞかし機嫌が悪くなることだろうと内心構えていたのに、意外にも、密着したブラッドから冷たい威圧感を感じることはなかった。鏡越しに見るブラッドも、どう見ても機嫌が悪そうには見えない。口角を緩く上げた笑い方はいつもと同じはずなのに、ブラッドを包む空気が明らかに違う。そしてブラッドが私を見つめる瞳は、とても穏やかで柔らかい。そのくせ、おかしな熱を帯びた視線に、どくん、と心臓が音を立てた。
これはきっと危険信号。
――やめてよ、ブラッド。
詰るように、心の中で訴える。私がエプロンドレスを脱いだのは、これ以上傷を深くしたくなかったからだ。ブラッドの、らしくない表情を見たかったわけじゃない。可能な限り、心の安寧を取り戻したかっただけ。
それなのに、こんな……ますます勘違いしてしまいそうな目を向けられたら、私はどんな顔をしていいか分からなくなってしまう。どうしていいか、分からなくなってしまう。
なんだか不意に何かを叫びだしたい気持ちになった私の目から視線をそらさないで、言い聞かせるように、ブラッドはそれを言った。
「君は、私のものだよ」
「私は……誰のものでもないわ」
「なんと言われようとも君は私のものだが、私が言おうとしていた『理由』は残念ながらそれじゃない」
「じゃあ、何よ」
焦れるような、責めるような、苛立ったような。そんな私の言葉にも、今のブラッドは穏やかな笑みを向けるだけ。それがなおさら私をかき乱す。
ブラッドはわずかに体を屈め、私の耳元に唇を寄せた。そして、秘め事を囁くように耳打ちする。
「私が君のものだからだよ、アリス」
囁きと同時に、背中から私を抱きこむようにブラッドの拘束が強くなる。
「私は、もうとっくに君だけのものなんだ」
優しい口調なのに、今までの余裕が嘘のように切迫した声音に聴こえたのは、きっと私の勘違い。ブラッドが、こんな真摯な声を出すなんて、あるはずがない。真に差し迫った私とは違い、そうなる理由は、彼には、ない。
私が泣きそうになったのは、強く抱きしめられた体が痛かったからだ。きっと、そうだ。……他に理由があってはいけない。
だって、薬瓶はもうすぐ一杯になる。私は近い未来、元の世界に帰ることになる。私とブラッドの気持ちがどうあれ、結末は変わらないのだ。
――私は、ブラッドを残してブラッドのいない世界へと戻る。
だったら、ブラッドとのことは、たとえ苦しくてもただの恋愛ゲームでいい。そうでなければ、私は今以上に苦しむことになる。今以上の胸の痛みなど、私には耐えられそうにないのだから。
私はブラッドに何も答えることが出来ず、ブラッドも私に言葉を求めるではなく。
ブラッドは私の肩口に顔を埋めるようにして、私はブラッドに抱きしめられたまま、身じろぎもせず……触れ合った体から伝わってくる互いの熱を感じるだけ。
涙が零れてしまわないよう、私はただ、強く目を閉じた。