Blood×Alice (Alice in Heart)


「あーっ、もう、やめやめっ! これ以上は無理!」

 手にしていたトランプを勢いよく放り投げたのは、衝動に駆られてのこと。
 幾枚ものカードが宙を舞い、毛足の長い絨毯の上に音もなくぱらぱらと散らばっていく向こう側で、ソファで優雅に足を組み、にやにやと私を眺めているブラッドと目が合って、途端に頬が熱くなった。
 まるで子供の癇癪。
 自分のとった行動が自分でも信じ難く、今更ながらにいたたまれなくなってくるけれど、本当に今更だ。
 こういう場合は、いっそ呆れた目で咎めでもしてくれればこちらも思う存分開き直ってやれるのに、それを分かっていてそうしてくれないのだからブラッドの性格の悪さは本物だ。私を面白がっているのを隠そうともしないくせに、外面だけはあくまでも寛容そうな紳士然としているところが実に憎たらしい。

「なんだ、もう諦めるのか、奥さん?」

 手にしていたカードをテーブルの上に無造作に放り投げて、ブラッドが席を立った。向かい側のソファに、つまり私の隣に腰を下ろし、ばつが悪くて唇を噛み締めている私をわざわざ覗き込んでくる。嫌味たらしいことに、口元に薄い笑みを浮かべながら。
 居心地が悪いやら腹立たしいやらで、ふいと顔をそむけるけれど、その反応がまたしても子供っぽく思えてさらに苦々しい気持ちにさせられるのだから、どうしようもない悪循環だ。
 笑みを深めたブラッドは両手で私の頬を包みこみ、私を正面から向き合わせた。やんわりとした仕草で、だけどがっちりと。
 ブラッドの手のひらが、憮然としている私の頬を、不貞腐れた子供を宥めるような手つきで撫でる。

「遠慮しなくても、気が済むまでいくらでも付き合ってやるぞ。なんならまた別のゲームを用意させるか?」
「もう結構。ここまで完膚なきまでに叩きのめされて、それでもまだ挑み続けるほどには向こう見ずでも情熱家でもないつもりよ」

 いつだって、ブラッドは、そう。親切ぶりながら、その実、私を嬲る。根っからのいじめっ子気質で、人の神経を逆撫でするのが天才的にうまい男だとつくづく思う。
 だけど、今の私にはブラッドに噛み付く元気はない。所詮私が何をしたところで、何を言ったところで、全て負け犬のなんとやらにしかならない。
 これ以上醜態を曝すのも御免なら、こんなに底意地の悪い男を素直に賞賛するのも癪だ。今私にできることと言えば、戦意喪失の意をせめて最小限の態度で示すべく、諦めたような溜息を吐くだけだった。
 心の底から悔しいけれど、「逆立ちしても勝てない」というのは今の私のために用意された表現のように思えてくる。
 0勝15敗。
 要するに、全敗。言い訳のしようのない、完敗
 チェスに始まり、ポーカー、神経衰弱、果てはババ抜きまで。
 手を変え品を変え、ハンデを貰ってさえ勝てないのだから、もはや何をしても勝てっこないだろう。今はもう、じゃんけんでさえ勝てる気がしない。

 マフィアのボスとしての悪名もさることながら、稀代の切れ者として名高いブラッド=デュプレを甘く見ていたわけではない。この世界の勢力争いを何度も制しかけた(が、その都度自らそれをぶち壊しにしているらしい)というほどの相手に頭脳ゲームで勝ち越せると思うほど、私は自惚れてはいない。
 それなのにブラッドとの勝負に臨んでしまったのは、ゲームの種類は問わず、ハンデつきで、たった1勝でももぎ取れれば即私の勝利とするという申し出に心を揺さぶられたからだ。
 私に勝利の可能性を現実味を帯びて夢見させた条件はしかし、裏を返せばブラッドがあからさまに私を見下しているということになる。安い挑発だと分かっていても、かちんときたのは致し方ない。
 余裕の表情で、自分が不利になる条件を自らに課したブラッド。
 そこまでされてなお尻尾を巻いて逃げ出したと思われるのは癪だったし、いくらなんでもそこまで甘く見られていることも癪だった。なまじっかこの手のゲームにそこそこの自信と戦歴を持っていたこともあって、私はいつになくムキになってしまっていたのだろう。加えて、この世界の盤上を支配している男に挑んでみたいという気持ちも少なからずあったのかもしれない。
 抜け目ないブラッドのことだから、そんな私の傾向とささやかなプライドを見越していたに違いない。彼は実にうまくそこを突いてくれたと言える。


 『いつもいつもあなたに従わされるのは不公平だと思うの』


 そもそもは、暇つぶしと称してまたしても私の読書の邪魔をしにかかったブラッドに苛立った私の発言が発端だ。
 「従わされる」とは心外だ、私は強要はしていないし、君だって抵抗したためしがないじゃないか――というのがブラッドの言で、いつも私が無抵抗なのは事実だけれど、ブラッドの言葉はたとえどんなに優しげでも私に拒否権を与えない。
 いつだってブラッドの言葉は決定事項を伝えているだけであり、仮に私が拒否し抵抗したところでそれをものともせず、ブラッドは自分のしたいことをするだろう。
 自分の意志が最優先。自分こそがルール。
 私がブラッドの伴侶となった今も、ブラッドの流儀は変わらない。力では絶対に敵わない私には、現実的にブラッドの我侭に抵抗する術はない。不本意にもブラッドの我侭に慣れっこになってしまったとはいえ、私だって、たまには自由時間を一人でゆっくり満喫したいときもある。
 本来、夫と妻は対等な立場であるはずだ。
 いろいろ考えているうちに本気で腹立たしくなってきて……我に返ったときには、不公平だ、理不尽だ、横暴だ、と今更な言い分をブラッドに散々まくしたてた後だった。
 私の頭が冷静になったとき、ブラッドの眉がわずかに寄っていた……ように見えた。
 また凄んで脅す気か、でも今回は怯んだりするものかと臨戦態勢に入っていた私を意外にも拍子抜けさせ、ブラッドは次の瞬間にはいつものだるそうな顔に戻っていて、少し思案する素振りを見せた。それから棚で半ば置物と化していたチェスを指差し、言ったのだ――ならゲームはどうだ、これなら公平だろう、君が勝てば君の我侭を聞いてやろう、と。
 私の真っ当なはずの苦情を我侭呼ばわりしている時点ですでに人として間違っているけれど、唯我独尊を地で行くブラッドが私の言い分を一蹴せずに一応の譲歩案を提案してきたことに驚いて、私の感覚は麻痺してしまっていたのだろう。そこに畳み掛けるようにしてブラッドが私に有利な条件をつけてきたものだから、「敗者は勝者に従う」というゲームに私はついつい頷いてしまったというわけだ。
 今思えばブラッドは最初から、ブラッドの言うとおりにしなかった私に仕返しをするつもりだったのだろう。わざわざ希望を与えておいた上で、その希望ごと私を徹底的に叩きのめしてやろうという魂胆だったに違いない……私に、二度とブラッドに逆らおうという気を起こさせないようにと。
 この似非紳士が、どんなささいなことでも報復を忘れない子供じみた男だということを忘れていたわけではないのに――。

「自分が救いようのない馬鹿みたいに思えてきたわ」

 普段、私がブラッドに勝てることなんて何ひとつとしてない。だけど、お遊びのゲームでなら、あるいは。
 稀に見るチャンスだと思ったからこそ、らしくもなく、私はたかがゲームに本気で熱くなった。いつも余裕ぶっている澄まし顔を悔しさに歪めてやりたかった。地団駄を踏ませ、「ぎゃふん」と言わせるのはさすがに無理だとしても、ささやかにでもいい、たまには敗北感というものを味わわせてやりたいと思った。
 一度でいいから、ブラッドを負かしてみたかった。
 それがどうだ。実際に悔しそうに顔を歪め、地団駄を踏み、「ぎゃふん」と口走ってしまいそうなほどの敗北感に打ちひしがれているのは私のほうではないか。

「馬鹿みたい、じゃなくて、正真正銘の大馬鹿者だったのね、私って……」
「そう悲観することはない。君は頭がいいし、ゲームセンスもなかなかのものだ」
「……自分がどんな勝ち方をしたか分かって言ってるの?」

 しれっと言われても信憑性はなく、むしろ皮肉としか受け取れない。あれは大人と子供の勝負というレベルですらなかった。私は最初から最後まで、ブラッドにいいようにあしらわれただけだ。
 棘のある視線を向けるとブラッドは口の端に苦笑じみた笑みを浮かべ、そう睨むな、と言って軽く肩を竦める。

「皮肉でも慰めでもないさ。その年齢でそれだけ戦えればたいしたものだ。君には戦術の才があるようだな」
「あなたには遠く及ばないだけで?」
「そうだな。私と互角に渡り合うには、まだ少し足りないな」

 やはり、しれっとしたものだ。この男は、謙遜という美徳は持ち合わせていないに違いない。
 たいした自信ですこと――と悪態をつけないのが悔しい。ブラッドの言葉がただの自信過剰でないことは身に沁みているし、ブラッドが私をそれなりに評価しているのも嘘ではないのだろう……とても素直に喜べはしないけれど。

「ブラッドはずるすぎるわ」
「心外だな。イカサマなんてしていないぞ?」
「イカサマしたなんて思ってないわよ。意味が違う」

 実力差は明白。イカサマをするまでもない。
 こう見えてブラッドが影の努力家だということはもう分かっているけれど、不器用な私とは違って何でもうまくこなせてしまうのが羨ましくも妬ましい。
 世の中は不公平にできているとはいえ、なんだかとても理不尽な気がするのは、私が卑屈だからというだけではないはずだ。

「ハンデつきなら、何か一つくらい勝てるんじゃないかと思ったのに」
「君は、あれこれ考えすぎる」

 視界が揺れたと思ったらドサリという音がして、あっと思ったときにはもうソファに押し倒されていた。ブラッドが私に覆い被さり、二人分の体重をまともに受けたソファが軋む音を立てるけれど、この思い出深いソファがこの程度でびくともしないのは、これまでの経験で実証済みだ。
 けだるそうに、だけど私の下腹部を甘く疼かせるような何かを瞳の奥に含ませて笑んでいるブラッドごしに、新築のように磨き抜かれた天井が見える。
 そういえば、こうやって、かつての定位置からこの部屋の天井を眺めるのは随分と久しぶりだった。
 ソファでなんて――と、あの頃は何とも言いがたい気分にさせられていたものだけれど、今はもう、おざなりに扱われているとは思わない。それどころか今、自分からそっとブラッドの背に腕を回しているのだから、私も随分と頭がおかしくなったものだ。
 縋れとどんなに凄まれても絶対に縋らなかった頃の私が今の私を見たら、きっと自分を撃ち殺してやりたいと思うことだろう。
 だけど、それでも、そうすることをやめられないのだから、どうしようもない。
 ……私がこんなふうにイカレてしまったことも、ブラッドの術中なのだろうか。

「相手の出方を窺おうとする用心深さはたしかに大切だが、今回はそれが裏目に出たと言えるな。時と場合にもよるが、まず外堀を埋めてしまおうとするスタイルは考え物だ。慎重に動きすぎては、決して先手は取れない」
「今までは、それでも勝てていたのよ。序盤に少し出遅れても、ちゃんと巻き返しをはかれていたもの」
「そうだな。多少の欠点を補えるほどには君は強い」
「……どうも」

 ご丁寧に私の敗因を指摘してくれるのはいいけれど、私の首筋に唇を這わせながら、そして早々と手袋を外した手を遠慮なく私のスカートの中に忍び込ませながらのことなので、いまひとつありがたみに欠ける。
 よくもまあ不埒な真似をしながらつらつらと戦術指南などできるものだと、むしろそっちに感心してしまう。

「だが、手の遅い敵ばかりとは限らない。君の守りが盤石になる前に相手のペースに呑まれてしまっては本末転倒だろう。よく言うじゃないか、攻撃は最大の防御だと。堅実で慎重なスタイルもいいが、時には自分から仕掛けて大胆に振舞うことも必要だ」
「そういうスタイルが染み付いちゃってるから、今更変えにくいわ」
「戦術といい、そういうところといい、君の性格がよく表れているな」
「慎重で受身、思いきりが悪い上、頑固で融通が利かない人間だと言いたいの?」
「自分のことをよく分かっているじゃないか。……それでも最近は、ようやく素直になり始めてくれたようだが?」

 ブラッドは顔を上げ、わざわざ私と視線を合わせて意味ありげに笑う。背に回した手のことを言っているのだろう、本当にこの男は、こちらが触れてほしくないことばかり嬉々として触れてくれる。
 私に素直になってもらいたいという口ぶりのくせに、それを自分で台無しにしているのだから世話がない。私を素直にさせない最大の原因が自分にあるということに、まさか本当に気づいていないのだろうか。
 私はブラッドの背から手を離して、私の太腿をまさぐっていた性急な手を思いきりつねってやった。ブラッドが声にならない呻き声を上げる。

「あなたの手が特別早すぎるのよ」
「……君の手の早さも相当なものだと思うがね、奥さん……」
「攻撃は最大の防御なんでしょう? 早速あなたの指南を実践することができて嬉しいわ」

 もう一度、同じ場所をつねってやる。
 面の皮が厚い男は、残念ながら手の皮も厚かったようだ。ブラッドは再び低く呻いたものの、たいしたダメージにはならなかったらしく、悪戯な手を押さえつけてやろうとした私の手を難なく解いてしまう。
 反対に、私がこれ以上ブラッドを妨害できないようにと私の手をがっちりと押さえつけるのだから、本当に可愛げのない男だ。
 負けず嫌いで、いつだって自分が主導権を握っていないと気がすまない。
 要するに。

「大人げないのよ、あなたは」
「私のどこが。愛する妻が満足するまで、とことん遊びに付き合ってやった。こんなに妻思いな夫は他にはいないぞ」
「私はいつもいつも、おつりがくるくらいにあなたの遊びに付き合わされているわよ」

 こちらはげんなりしているのに、ブラッドは心底楽しげに喉の奥で笑う。

「そうだな、君は優しい妻だよアリス。そして私は優しい夫。実に似合いの夫婦だ」
「優しい夫を自称するなら、一度くらい愛する妻に花を持たせてやるくらいの男気を見せたらどうなの」
「手を抜かれ、勝ちを譲られたら、嬉しがるどころか怒り出すタイプだろう、君は」
「そうね、あからさまに手を抜かれるのは許せないわ。それと分からないように勝ちを譲るくらいの芸当ができてこそ、真の似非紳士ってものでしょう?」
「…………なるほど。女性というのは難しいものだと今更ながらに実感したよ」
「女心は複雑なのよ」
「厄介だな」
「厄介なのよ」

 しみじみとそう思う。
 悔し紛れに難癖をつけながら、いつの間にか自由になっていた手がブラッドの首に絡みついているのだって。
 色気のない会話を交わしているはずなのに、私とブラッドを包む空気が、まるで蜜のようにとろとろと甘ったるく私たちに絡みついているのだって。
 ブラッドの唇が落ちてくれば、目を閉じて、薄く唇を開いて、自分から誘うようにしてブラッドを受け入れてしまうのだって。
 長い長いキスの合間に、自分でも信じられないような恍惚とした吐息が漏れてしまうのだって。
 今この瞬間、離れていくブラッドの唇を名残惜しく思ってしまうのだって。
 目の前の厄介極まりない男と、厄介極まりない女心とやらが、私をとち狂わせる。
 何もかも、本当に厄介極まりない――。

「アリス」

 目を瞑ったまま乱れた呼吸を整えているところに名を呼ばれ、ゆっくり瞼を開く。
 目を細めて私を見下ろしているブラッドの視線に、どくんと心臓が音を立てた。人を小馬鹿にしたような不敵な表情はいつもと同じはずなのに、今はほんの少しだけ、何かが違って見える。

「今ここで、誓ってくれ」
「……何を?」
「結婚式で君が誓ってくれなかったことを、だ」
「え」

 思わず、声が裏返った。
 ゲームに負けてもブラッドのいつもの暇つぶしに付き合うだけだと単純に考えていた私は、やはり大馬鹿者だ。こんな落とし穴が待ち構えているなんて、夢にも思わなかった。
 私の性格上、それだけは御免こうむりたい。甘い言葉で全面降伏させられるなんて、ひねくれ者で醒めた女にとっては最大級の屈辱だ。まっぴらだ。それくらいならば、閨事で恥ずかしいことを言わされるほうがいくらかマシなような気がする……なんてことは、ブラッドの前では口が裂けても言えないけれど(言ってしまったら取り返しのつかないことになる)、そのくらい、今のブラッドの要求は私にとっては恥ずかしいということだ。

「宣誓なんて今更必要ないじゃない」
「いつだろうとかまわない。私は今、それが聞きたいんだ」
「だ、だけど、ここは教会じゃないわ。マフィアの屋敷で宣誓しても、神様は聞き入れてくれないわよ」
「神に誓う必要などない。私に誓え」

 きっぱり言い切られて、取り付く島もない。反論材料を必死に探している私に、ブラッドの絶対的な後押しが入る。

「敗者は勝者に従う。そういうルールだったはずだな?」
「う」
「君は責任感が強く、約束を絶対に破ったりしない、人として見習うべき素晴らしい女性だ」
「うう」

 ブラッドはいっそ腹立たしいくらいに白々しい態度で、でも確実に私を追い詰めていく。

「誓ってくれ。君とゲームを楽しむのは、この先もずっと私一人だと」

 ブラッドの言うゲームが何を指すか分からないほど私は鈍感ではない。
 つまりは、浮気をしてくれるなと。私にとっての男はブラッドただ一人だけだと。これからずっと、一生涯そうだと。

「私以外、何も見ないと」

 ――誓え。

 乞うような響きでありながら、それは紛れもない脅迫。
 脅されている。拒むことは許さないとブラッドの目が語っている。
 それなのに、ひどく甘い。
 威圧感全開で凄まれるよりも、こんなふうに凄まれるほうが、よほど性質が悪いと初めて知った。甘く、どろどろとしたものが私に絡みつき、雁字搦めにしようとする……そんな、感覚。
 いつもの涼しげな顔からは想像もつかないほどに、今のブラッドは熱い。特に、熱を帯び、艶を含んだその視線には、まるで抱きしめられているような心地にさせられて、逃げ道を探そうとすることさえどうでもよくなってしまいそうになる。
 息が止まってしまいそう。

「アリス」
「……どうしても聞きたいの?」
「ああ、男心というやつだ」
「……厄介ね」
「厄介なんだ」

 ブラッドが、彼らしくない柔らかさで目を細めた。
 女心も厄介だけれど、男心というものも本当に厄介だ。結婚式で勝手に私の分まで宣誓をして、もう気が済んだとばかり思っていたのに。
 どう考えても、この場をやりすごせそうにない。
 私が約束を果たすまではブラッドの拘束は解けないだろうし、それ以前にブラッドの拘束から逃れようとしない私が、本当のところ、一番厄介なのだけれど――。

「君は本当に往生際が悪いな」
「だから、そういう性格は変えられないんだと言ってるでしょ……」
「だから、私も言っているだろう? たまには大胆に振舞ってみろと」

 なんと言われようが、私の性格は、きっと死ぬまで治らない。だけど、勝者に従うというのがルールだ。ブラッドに一方的に押し付けられたのではなく、自分でも納得したことでもある。
 罰ゲームは敗者の定めだと自分に言い聞かせて、観念したように深々とため息をつく。

「……一度しか言わないからね……」

 渋々という顔を作ってみせるけれど、私の本心を見抜かれていない自信はない。もしかしたら私の気持ちを見抜いているからこそ、貪欲なブラッドは今度は言葉まで、つまり、全てを欲しがっているのだろうか。
 そう、嫌味なくらいに全てを見通しているこの男がこの期に及んで気づいていないはずがない――もうとっくに、私がブラッド以外、何も見えなくなっているなんていうことに。

 ――あなた以外、何も見えない。

 完全にイカレていると自分でも頭を掻き毟りたくなるけれど、それこそが私の真実。

「さあ、アリス」

 堪え性のないブラッドに促され、私は大きく息を吸い込んだ。
 体を繋ぐことは簡単なのに、気持ちを言葉にすることはこんなにも恥ずかしく、難しい。――なんて厄介な。


 ブラッドの熱視線と脅迫が私を甘く蕩かせるように、私の一世一代の言葉が彼を甘く蕩かせればいい。
 もう二度と元に戻れないほど、どろどろに溶かしてしまえばいい。
 私以外の誰も、ブラッドを蕩かせることができないように。
 私以外の誰も、ブラッドが見つめることができないように。










何も見えないよ

 Tea Fight参加作品
 お題 『五感』 【何も見えないよ】 by アップルサイダー
(2007/07/22)





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