Blood×Alice (Alice in Clover)


 人格は最低最悪だとしても、マフィアなどというやくざ者だとしても、ブラッド=デュプレは頭が良く博識な男だった。
 ブラッドの言によると、マフィアとはビジネス。(えらく物騒なビジネスだが)
 なるほどビジネスを行うには相応の知識が不可欠だし、法をかいくぐり、あるいは堂々と法を犯し、ありとあらゆる悪事を働くにはより豊富な知識が必要とされるにしても、ブラッドが有する情報量はあまりに膨大だった。
 政治、経済、法律などの実用的な知識はもとより、歴史、文学、哲学、古典、風俗、伝記、果ては何の役にも立ちそうにない雑学に至るまで。
 常にだるそうで面倒くさがりで到底多趣味には見えない男の知識は、彼の本棚にずらりと並ぶ蔵書と同じようにジャンルが多岐に渡っていた。

 アリス=リデルは読書を愛する少女だった。
 未知なる知識をゆっくり少しずつ紐解いていくのは、この上ない快感。
 しかしアリスが生きていくことを決めた世界はアリスが暮らしていた世界とは似て非なる世界。生活様式など共通する部分も多い反面、当然のことながらこの国には独自の歴史や文化があり、たとえばそれらを前提にして書かれた書物などに出くわした時などは、アリスが困ることもままあった。
 書物の内容を理解したくても、この世界の者にとっては知っていて当たり前の基本知識がなければ話にならない。だけど、天然記念物以上に稀少な存在である余所者向けのテキストなど存在するはずもなく。
 そこで白羽の矢が立ったのがブラッドだ。なにせブラッドは知識の宝庫、アリスから見れば生き字引と言っても過言ではないほどの逸材。それに、これまで何度も勉強を見てもらった経験上、彼が解説上手なことも身に染みて知っていた。
 だがアリスが頼めば――偽悪的なブラッドのことだ――たとえスケジュールが押していても格好をつけて「暇だから今教えてあげよう」とでも言い出しかねない。
 仕事関係での勉強とは違い、これはあくまでもアリスの趣味である読書の延長線上のこと。そこまでブラッドに甘えるわけにはいかない。
 だからアリスが「本当の本当に時間が空いている時に」と念を押して本の解説を頼んだところ、普段アリスに何かをお願いされることがないブラッドはそれはそれは上機嫌で、そして通常の勉強時と違ってそれはそれは優しく、読書に必要なあれこれをアリスに話し聞かせてくれるようになった。
 願いを聞き入れてもらったアリスには、もちろん不満はなかった―――ブラッドによる解説が、事後に、ブラッドのベッドの中での寝物語として、と時と場所が限定されていた一点を除けば。



 だが、その夜の話は寝物語にしてはいささか血生臭すぎた。
 題目は、この世界に古くから伝わる異国の伝承。大勢の人間を世にも残酷な方法で虐殺した、いわゆる悪女伝説の一つ。
 概要は、こうだ。
 とある国の王には賢妻と名高い妃がいた。
 賢いだけでなく美しく慈悲深く血筋も申し分なく、自らは決してでしゃばらずに常に王を立て、王が窮地に立たされた時もあくまでも陰から尽力してこれを助け、王妃としての最大の責務とされる世継ぎの王子も産み育てた。
 王妃は夫を心から愛していたし、臣下からも国民からも尊敬されている王妃を王もまた信頼し、愛していた。何もかもが恙無く、穏やかな日々だった。
 けれど、国王夫妻が壮年に差し掛かった頃、事件は起きた。
 今まで一人の妾も持たなかった王が突然、自分の子よりも年若い娘を見初め、愛妾として迎え入れたのだ。それが悲劇の幕開けだった。
 しっとりとした品格を感じさせる風貌の王妃とは対極の、派手派手しい美貌。若く肉感的な体と、淑女の鑑とも言うべき王妃にはない奔放さが、王をすっかり虜にした。
 その国において地位ある男性が妾を持つこと自体は珍しいことではなかったが、いかんせん王は愛妾にのめり込みすぎた。政務に支障をきたしただけでなく、国庫を食い潰しかねないほどの浪費を始めた王は臣下の言葉に耳を貸さず、王妃が王を諌めても、むしろ夫は妻を厭わしく思うばかり。
 挙句の果てには愛妾の甘言に惑わされ、妻を正妻の座から降ろして愛妾を正妃に据え、いずれ彼女に子ができれば男女問わずその子を世継ぎとすると宣言する始末。
 結果的には、何の落ち度もない王妃を正妃の座から降ろし、正当なる嫡出子を廃嫡することはいかな国王であっても不可能だったが、夫の乱心ぶりを一時の気の迷いだと信じて耐えてきた王妃も、このあまりの仕打ちに打ちひしがれた。
 その後、国王が流行り病で死亡するまでの数年間、王妃は冷遇され続け、王妃も甘んじてそれを受け入れることになる。
 そして夫の死後、妻は逆襲に出る。復讐と言うべきか。
 信じていた最愛の夫に手酷く裏切られた憎悪と絶望が、誰よりも穏やかで慈悲深かった女を悪鬼に変えたのだ。
 矛先は、言うまでもなく夫の愛妾と、事実上国王に次ぐ権力者となった彼女に媚びへつらい、自ら膝を折った臣下たちだ。

「夫を寝取った憎い女を、王妃がどのように殺したかというと」
「ストップ。もういい。大体の想像はつくから詳細はやめて」

 ブラッドの腕の中、アリスはげんなりしながら彼の説明を遮った。
 王妃が、自分を裏切って愛妾に与した臣下たちをどれだけ残虐かつ苛烈な方法で責め抜き、どれだけ陰惨で壮絶な死を与えたか。鮮明にその映像を思い描けるほど微に入り細を穿った説明を、ついさっきブラッドから受けたばかりだった。
 恐ろしいなんてものではない。王妃が行ったのは、どれも本職のマフィア連中でさえ青ざめてしまいそうにおぞましく常軌を逸した拷問だった。(もっとも帽子屋ファミリーのボスは、その拷問方法にか怯えるアリスにか、実に楽しそうな顔をして解説をしていたが)
 想像を絶する苦痛、恥辱、恐怖、絶望。それら全てを極限まで味わわされた臣下たちは、生まれてきたことを後悔しながら死んでいったに違いない。ましてや王妃が臣下たち以上の憎悪を抱いていただろう愛妾の殺害法とくれば、さらにその上を行く内容だったに決まっている。想像するだけで心臓が凍りつきそうだ。
 今の段階ですでに、当分の間悪夢にうなされるかもしれないと思っているのに、これ以上の残酷物語は絶対に御免だった。

「妻であれ愛人であれ、自分のライバルを惨殺する悪女伝説の類は、私の世界にもいくつかあったわ。どの世界でも同じなのね」
「どんな世界だろうとどんな時代だろうと、男と女がいれば必ず愛憎劇が起こるものだからな」

 真理かもしれない、とアリスは思う。けれど、感情が納得できない部分もある。
 人の心に鎖はつけられない。ましてや男性が、老いて衰えていく女性より若く美しい女性に目移りしてしまうのも――女性としては反論したいところだが――仕方がないことなのかもしれない、とも思う。
 けれど、良き夫だった男は恋に狂い、良き妻だった女を裏切り、完膚なきまでに貶めた。彼女の信頼と愛情を踏みにじっただけでなく、彼女に最後に残された妻としての矜持まで滅茶苦茶にしたのだ。
 王妃が行った残虐行為は決して許されることではないが、分別があったはずの彼女を凶行に駆り立てた原因は間違いなく夫にある。
 夫が心変わりさえしなければ妻は悪女として歴史に名を刻まれることはなかったのにと、どうしても夫に辛くなってしまうのは、アリスが女だからなのか。
 けれど、真っ先に糾弾されるべき夫に妻が復讐することはなかった。殺さなかったのか、殺せなかったのか。殺せなかったのだとしても、立場的な問題が邪魔をしたのか、それとも……。
 どんな想いあってのことだったのか王妃の心の内を知る術はないが、怒りや憎しみ以上に、もしかしたら悲しみややるせなさのほうが強かったのではないかと朧気にもアリスは思う。
 身の毛がよだつ話だったが、同時にとても哀しい物語でもあった……のに。

「実に感動的な話だと思わないか、アリス」

 場違いな発言を聴いた気がして、アリスは押し黙った。
 もう一度ブラッドの言葉を頭の中で反芻してから、改めて眉を顰める。

「……はい?」
「夫の愛を奪った女を普通に殺すだけでは足りず、徹底的に拷問し尽くしてから殺害するなんて、この王妃は実にいじらしくて可愛い女だ」
「………………」

 うっとりしながら言う台詞ではない。うっとりできる内容でもない。
 だけどブラッドが至極真面目に語っているのが分かるから、アリスにはそれを突っ込むことができない。

「私には君以外に女はいないが、嫉妬して他の女を手にかける君というのは見てみたい。……最高に、そそられそうだ」

 やきもちをやいた君はさぞかし可愛らしいだろうなと目を細めるブラッドに、アリスはどういうリアクションを返していいのか分からない。分かっているのは、狂人の代名詞を二つ名に戴く男は、その名に相応しい狂人だったということくらいか。ブラッド=デュプレが正常でないことは分かっていたつもりだったが、心底おかしすぎると実感せずにいられない。

 嫉妬のあまり夫の愛人を拷問して死に至らしめる女はいじらしくて可愛い。
 ……そうだろうか。
 やきもちをやいたアリスが、相手の女を殺害する。
 ……ありえない以前に、それはもう、やきもちをやくとかいう可愛らしい話ではないだろう。
 殺害シーンに、そそられる。
 ……だとしたら、ブラッドは間違いなく××××だ。

「ねえ、ブラッド」
「うん?」
「前に言ってたこと。……あれ、もしかして本気だったの?」
「前に言ってたこと?」
「あなたへの贈り物の件で……」

 それだけで何の話か分かったのだろう。首を傾げていたブラッドは、ああ、と得心がいった顔をして、

「もちろん本気だとも」

 口の端を僅かに吊り上げ、ゆったりと微笑んだ。
 緑色の双眸に揺れはない。ブラッドの目が、彼の本気を語っていた。

「なにも君が直接手を下す必要はない。あの時も言ったと思うが、エリオットでも門番たちでも、いつでも好きに使うといい。君に命令されたら、奴らもきっと喜ぶ」
(……上司がおかしいと、部下までおかしくなるものなのかしら)

 自分は絶対に感化されたくないと切実にアリスは思う。おかしな男に恋していることだけでも充分おかしすぎるというのに、これ以上は本当に―――。

 以前、ブラッドがアリスに言ったこと。
 部下に命じてやらせればいいとブラッドがアリスに言ったこと。
 ブラッド宛に贈られてくる贈り物を捨ててくれても焼いてくれてもかまわない、なんなら贈り主ごと焼いてくれてもかまわない、と。優しく、甘く、まるで睦言を囁くように、ブラッドはアリスに狂気を唆した。
 だけど、この世界の住人たちに比べれば真っ当な道徳観と倫理観を持ち合わせていると自負しているアリスにしてみれば、出てくるのは呆れの溜息ばかり。

「私なら、相手の女性じゃなくてあなたを焼き殺すわ」
「それは、私に浮気をしてくれるなと言っているのか?」
「そんなことは言ってない」

 アリスにぴしゃりと否定されたのに、ブラッドはますます笑みを深くした。

「心配しなくても、私は君以外の女に目を向けたりしないよ」
「心配なんてしてないわよ」
「それだけ私を信用してくれているということか。嬉しいね」
「そういう意味で言ったんじゃないから。都合のいい解釈はやめて」

 背筋が凍るような寝物語だったはずなのに。自分に係わる女性たちをアリスに殺させたがるブラッドは、心底ろくでなしのイカレ男なのに。

「私の時計は君に奪われている。そしてそれは一生君だけのものだよ、アリス」

 ろくでなしが囁く言葉は、どこまでも優しく甘く―――まるで子守唄のようにアリスを蕩かせる。






ろくでなしが歌った子守唄

 お題配布元 : ラズバン
(2008/06/15)





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