不意に名を呼ばれ驚き振り返ると、いつの間に現れたのか、そこにはだるそうに腕を組み、壁にもたれかかっている男がいた。
赤薔薇で飾り立てられた派手な帽子の下で、男がゆるく笑う。
「面白い話を聞かせてあげよう」
端整な顔立ちの男が浮かべた麗しいはずの微笑みは、アリスには何故かこの上もなく胡散臭く見えた。
時は、華々しい貴族文化の隆盛の裏で、一つの大陸が複数の都市国家に分かれて争いを繰り広げていた頃。
戦争屋を生業とし、日々戦いに明け暮れている一人の男がいた。
勇猛果敢に前線に赴き、相応の戦果を上げ、その結果ずっと独り身だった彼は、齢四十を過ぎてようやく妻を迎えることとなる。
男の傭兵隊長としての手腕と功績に目をつけ、縁戚関係を結ぶことによって彼を手飼いの者にしようと目論んだ貴族と、貴族の後ろ盾を欲した男の利害が一致しての政略結婚だったが、男は親子ほど年齢の離れた若く美しい花嫁に一目で心奪われ、目に入れても痛くないほど彼女を溺愛した。
妻の実家のほうが格上ということもあって、男は妻を姫君のように扱い、ねだられればどんなに高価なものでも買い与え、どんな我侭も聞き入れた。
尽くされて当然といった妻の根っからのお嬢様気質は、男にとってはプラス要素でしかなかった。甘えておねだりをする幼な妻は可愛い。その可愛い妻が喜ぶ顔を見るのも純粋に嬉しい。そして、女の我侭を全て叶えてやることこそいい男のステータスだという考えゆえに、妻の願いを叶えれば叶えるほど彼の自尊心が満たされていったのだ。
妻にしても何でも言うことを聞いてくれる夫に悪い気はせず、当初二人の夫婦生活は何の問題もないように思われたが、男は戦争屋、戦場が仕事場。屋敷を長く空けることが日常茶飯事で、一人放っておかれる妻は退屈な日々を送ることを余儀なくされた。
いまだ年若く遊びたい盛りの妻は、やがて夫の目を盗み、若い男たちと逢瀬を重ねては情事に耽ることとなる。最初はこっそりと。けれど表立って咎める者がいないことに味をしめ、ついには大胆にも夫不在の屋敷に愛人たちを引き入れるまでになってしまう。
そして噂は流れ、妻の醜聞は夫の耳にも入る。
当然夫は激怒。戦場で幾度も死線を越え、この世の酸いも甘いも嘗めてきた男が、これほどまでの怒りと屈辱で身を震わせたことはなかった。
妻は、夫を愛していなかったわけではない。実際、愛人たちとの情事はちょっとした退屈しのぎにすぎなかったが、自分を溺愛しどこまでも甘い夫なら、仮に事が露見してもたいしたことにはならないと高をくくっていたのだ。
けれど、それは妻の読み違いだった。一途に愛し、尽くしてきたからこそ、裏切られれば許せない。愛を裏切られただけでなく、男としてのプライドや夫としての面子まで木っ端微塵にされてなおも「寛大で優しい夫」を貫ける男がどこの世界にいるだろうか。
そんなことすら気づけない妻は、浅はかとしか言いようがない。
かくして溢れんばかりの愛は溢れんばかりの憎しみへと変貌する。
夫は妻の不貞など知らぬふりで、いつものように家を不在にすると見せかけ、妻の油断を誘った。妻はそれが罠だと知りもせず、いつものように愛人を我が家に連れ込み、夜を過ごした。
激しい情事の名残で、二人がぐっすりと眠り込んでいた夜更け。
寝室の扉を蹴破る大音響と共に、妻の優雅な生活は突如終焉を迎えることとなる。
慌てて飛び起きたら武装した夫と兵士たちに突然ベッドを取り囲まれていたのだから、妻と愛人は慄き震えあがるばかり。血の気はすっかり失われ、声も出ない。
不運だった愛人は兵士たちに即座にベッドから引きずり落とされ、動けないでいる妻の眼前で剣で一突きにされた。
この世のものと思えない、断末魔の大絶叫。噴きあがる血飛沫とむせ返る血臭。目の前にゴミのように転がされた死体。蝶よ花よと育てられた妻が、初めて目の当たりにする惨劇。そして、絹を引き裂くような悲鳴。
眉一つ動かさずに間男の殺害を指示し、不浄な物でも見ているかのように自分を見下ろしている夫の冷淡な視線に、愚かな妻はようやく自分がしでかした事の重大さを知った。
しかし全ては手遅れだった。
恐怖に泣き叫び、ひたすら夫に許しを請うも、夫が妻を振り返ることはなかった。
何でも笑顔で聞き入れられていたはずの妻の「お願い」は、もう二度と夫に届くことはない。
妻は兵士たちに引き立てられ、不衛生極まりない牢に閉じ込められ、これまでの人生で見たことも聞いたこともなかっただろう拷問の限りを尽くされ、最後は生きたまま――……
「もういいから、やめて」
むぐ、と奇抜な帽子を被った語り部の口が小さな両手によって塞がれた。
その手を優しく解きながら、奇抜な帽子を被った語り部――ブラッドは、にこりと微笑む。
相手の嫌そうな様子を眺めて満足そうにしているイカレ男に、アリスは心からうんざりした。
「おや? 話の結末だけ聞かないのはつまらないだろう?」
「とんでもない、十二分に堪能させてもらったわ。お腹いっぱいで吐き気がしそうよ」
「君が聞きたくなくても私は結末を話したい」
「話したら全身全霊を込めて足踏むわよ」
えげつないにも程があった。
よくもまあ、こんなおぞましいいたぶり方を考え付くものだと、人間というものの残虐さ、罪深さを心底嘆きたくなってくる。
ブラッドが最初に言っていたように彼自身が本当にこれを「面白い話」だと思っているのなら、どのへんにその要素があったのか、それをこそ知りたいとアリスは思う。もっともそれを教えてもらったところで、頭がおかしいと評判の「帽子屋」の精神構造を理解できるとは思わないが。
おかげでアリスは早速今夜悪夢にうなされるに違いない。それを口にすると、「だったら怖い夢を見ないよう、私が朝までずっと抱きしめていてあげよう」とでも言われそうな気がしたので、黙ったままでいたけれど。
それほどまでにブラッドの語り口には生々しい臨場感があった。あれは昔話で、アリス自身が体験したことではない。アリスは、姦通をして夫に惨殺された妻とは違う。なのに、妻が痛めつけられたという部位が痛む気がするほどに。
(いっそマフィアのボスを廃業してストーリーテラーにでも転職すればいいのに)
そんなことも思ったけれど、やはりアリスは口にはしないでおいた。下手なことを言って、マフィアのボスからストーリーテラーに華々しく職替えをした男に毎晩身の毛のよだつ話を聞かされてはたまらない。
「夫は妻を深く一途に愛していたから、彼女の裏切りがどうしても許せなかった」
「まあ、浮気はよくないわね。たしかに奥さんの身から出た錆だとは思うけど」
だからといって歯を×××で全部××××て、無理やり口の中に×××を×××んだり、××を××××たり、××を×××たり、挙句の果てに生きたまま……何をしたのかは知りたくもないが、残虐極まりないことをしていいということにはならないだろう。
口にするのもおぞましく、頭の中で数々の拷問内容を列挙するだけでも気分が落ち込んでいく。
「可愛さ余って憎さ百倍とはよく言ったものだ。幸い、貞淑な妻を持った私には無縁の話だがね」
げんなりとうなだれていたアリスの顎を白手袋が掬い、緑色の二対の瞳がぶつかった。
「身持ちの悪い女を妻に持った男は哀れだな。彼に自慢してやりたいよ。私の妻は夫一筋で夫を裏切るなど考えもしない、まさに妻の鑑なんだと」
妙な迫力のある目にじっと見つめられて、アリスは押し黙った。
押し黙らずにいられなかった、と言うべきか。
「さっきも言ったとおり、良妻に恵まれた私には彼の気持ちを実感として捉えることはできないが、我が身に置き換えて想像してみることはできる。……もしも私なら」
「……ブラッドなら?」
「もしも、誰よりも愛し信じていた妻が他の男に目を向けようものなら、私は……」
(浮気の事実がなくても目を向けた時点で即アウトなんだ……)
少なくともその時点で話の男以上の狭量さだが、今のアリスにはそれを指摘する気にはなれなかった。今のブラッドには、何を言ってもむしろ藪蛇になりそうな予感がする。
「さて、私ならどうすると思うかな? アリス」
「…………良妻を持ったあなたには無縁の話なんでしょう? だったら想像するのも無意味だわ」
「ふふ、そうだな。私の妻は貞淑な女で本当によかったよ……私のためにも、君のためにも、ね」
――なあ、奥さん?
薄く笑まれて、アリスの首筋にぞぞぞと悪寒が走った。
アリスはブラッドと結婚して以来(結婚する前もだが)、浮気なんてしたことがない。他の男に目を向けたこともない。勿論、今だって。
ブラッドに聞かされた悲惨な夫婦の話も、ブラッドがアリスを貞淑な妻だとやけに強調してくることも、それがこのタイミングで行われたことも――いろいろと釈然としない。いろいろ言ってやりたい気もする。
けれど。
「おや、寒いのか? 顔色が良くないな、奥さん。今からお茶会をしよう。妻に尽くす夫として、愛する妻に温かい紅茶をご馳走しようじゃないか」
「……そうね。私も急にお茶会がしたくなったわ」
ブラッドに呼び止められる直前、アリスは外に遊びに行こうとしていた。
だけど予定は取り止めにして、屋敷で物騒な夫と過ごすしかなさそうだ。今だけじゃなく、たぶん当分の間ずっと。
件の夫とアリスの夫と。
嫉妬深さと残虐性ではどちらが上なのか。
それを実地で試してみる勇気はアリス=デュプレにはない。