ブラッドの嫉妬深さには辟易とする。
アリスとて、悔しいけれど恋する女だ。好いた相手に全く嫉妬されないのは悲しいことに違いないと思うから、多少の嫉妬であれば、表面上は呆れたような顔をしつつも内心ではそれなりに喜べたかもしれない。
けれどブラッドの場合は、いささかどころではなく度を越えて行き過ぎていた。
ブラッドは口では「子供ではないのだから詮索するつもりはない」と言いながらも、アリスが自分以外の男と話しているだけで不機嫌になり、時にはいいがかりに近いことでアリスを糾弾し、その後はいたいけな女が口にするのも憚られるような仕置きをしてくるのだから、たまったものではない。
アリスを妻とした今もブラッドの嫉妬深さには変わりはなく、むしろアリスが自分のものだと誰憚ることなく公言できる今の立場になったことによって、彼の独占欲はますます磨きがかかってきたと言ってもいいかもしれない。
いかに惚れた相手であっても、がんじがらめに束縛されたいとは思わない。
アリスはブラッドの、こと男性絡みで狭量なところだけは、いつまでもたってもうんざりさせられている。いる……のではあるが――。
「さすがにこれはまずいと思うのよね……」
はあ、と疲れきった溜息とともに独りごちる。この重量感を感じさせる溜息は、この日何度目だろうか。
自然と頭が垂れてくるほど重苦しい雰囲気を醸し出しているアリスの横から、彼女とは対照的に、この場に明らかにそぐわない爽やかな声がかけられた。
「アリス、手が止まっちゃってるぜ? 物思いに耽るのはいいけど、手だけは動かしてくれよな。早くテントを設営しないと深夜になっちゃうだろ」
「すでに、どっぷり陽が暮れているわよ」
明らかに深夜だ。だから、こうやって、いやいやながらも夜営の準備を手伝っているのではないか。
しかし、胡散臭いほど爽やかな笑顔を向けてくる男――エースの言うことももっともだった。早くテントを設置しないと、おちおち落ち着いてもいられない。早くこんな鬱蒼とした森からおさらばしたくとも、足元が危険かつ不案内な土地を夜に彷徨うのは危険すぎる以上、時間帯が昼に変わるのをおとなしく待つしかない。
今すぐ帽子屋屋敷に帰ることは諦めるしかないのだ……たとえ、幾度時間帯が変わっても戻ってこないアリスにブラッドが業を煮やしているだろうことが分かっていても。
(こんなはずじゃなかったのに)
アリスは己の運の悪さに――もっと正しく言えば、エースの不幸体質とそれに巻き込まれた己の運の悪さにうなだれる。
事の起こりは、帽子屋屋敷の近くで迷子になっていたエースに出会ったことだった。
目的地に辿り着けないという彼の道案内を買って出たのは、友人に対する親切心と、そのときアリスがたまたま時間を持て余していたからだった。
それが何の因果か道中でサーカスから逃げ出したライオンに追いかけられ、逃げ回っているうちに道らしい道を外れ、迷い込んだ先の森で落ちたら串刺しになる恐怖の落とし穴にはまりそうになり、危うくそれを回避したら今度は獣道に迷い込んだ。
そうこうして一大アドベンチャーを体験しているうちに時間帯が夜になり、不運とは重なるものなのか、その後もずっと夜が続いた。
結果、このざまだ。
つまり、案内役のはずのアリスまでもが迷子になり、設営の完了したテントの中で、図らずもエースと一夜を過ごすことになったのだ。
「なあなあ、アリス。俺って年中迷子になってるだろ? だからいつもこのテントを持ち運んでいて、これはいわば俺の自宅みたいなものなんだ」
「知ってるわ」
「で、君はつい先日結婚したばかりの新妻ときている」
「……それも知ってる」
「深夜に人妻を自宅に連れ込んでるなんて、なんだかいかがわしいことをしてる男の気分だぜ」
はははっと、いかがわしい空気を全く感じさせないで爽やかに笑うこの男を、アリスは誰よりもいかがわしいと思う。アリスが気にしていたことをわざわざ指摘してくれたこの男が、外見の印象どおり爽やかであるはずがない。
「これは遭難による不可抗力で、やましいことなんか何もないわよ」
「あれ? そう言い切ってる割には、いまいち声に力が入ってないけど?」
からっとした笑顔で痛いところを突かれ、アリスは、う、と言葉に詰まった。自分でもそれを自覚していたのだ。
アリスの言葉は正しい。これはやむを得ない状況であり、いかがわしい意味で若い男女が狭い空間で一夜を共にするわけではない。友人につき合わされていたのだから遊びと言えば遊びなのかもしれないし、今が夜であることを鑑みれば、たしかにこれは夜遊びと言えるのかもしれないが、断じてそういう意味での夜遊びではない。
それなのにアリスがどうしようもない居心地の悪さを払拭できないでいるのは、そういう事情を抜きにしても、やはり今の状況はいかがなものかと自分でも思ってしまうからだ。
事実がどうであれ、これは誤解されても仕方ないシチュエーションだ。この状況だけを見れば、たいていの者が、結婚したばかりのアリスが早くも浮気をしていると勘違いすることだろう。
ましてや、尋常でない色眼鏡でアリスの交友関係を見ているブラッドがこれを知ったら、いい気がしないどころか邪推しないでいられるはずがない。ブラッドは疑り深い性質だからアリスの言うことを簡単には信じないだろうし、たとえ信じたとしてもアリスがブラッド以外の男と二人きりで夜を過ごしたという事実に目を瞑ったりしない。
アリスはきっと、これまで経験したことがないほど酷い目に遭わされるだろうし、エースには死ぬまで腕利きの刺客が送り続けられることだろう。
アリスの夫は何をしでかすか分からない男なのだ。と言うよりも、何かとんでもないことを必ずしでかすことが分かっているから恐ろしいのだ。
この周囲には民家もなく人の目がないからと言って、安心はできない。緻密な計画と情報戦を売りにしているブラッド=デュプレの情報網は折り紙つきだ。今だって、いつまでも帰ってこないアリスに捜索隊が出されていたとしてもおかしくない。
(駄目だ、絶対にバレる……!)
屋敷に帰らねば恐ろしいことになるが、屋敷に帰っても恐ろしいことになる。
エースが準備した寝袋は使わず、テントの端で膝を抱えて青ざめていたアリスに震えが走った。そんな哀れなアリスの顔を、エースがひょいっと覗き込む。ひたすら爽やかな笑顔とは裏腹にその瞳がいやに楽しそうなことに、アリスは漠然としたひっかかりを覚えた。
「あはははっ、帰ったらお仕置きプレイってやつ? いいなー、新婚さんは激しそうで羨ましいぜ」
「……爽やかそうに見せておいて、実は相当親父くさいわよね、あんたって」
「酷いなぁ。俺は、君の旦那みたいにねちっこく君をせめたりしないぜ?」
エースの言う「せめる」が「責める」と「攻める」のどちらなのか考えながら、アリスはあることに気づき、同時にはたと思考が停止する。
「エース」
「ん? 何?」
硬く重く響いたアリスの呼びかけに対するエースの声はあまりに軽かったが、その奥にわずかに感じられる楽しげな響きが、さっきアリスが感じたひっかかりの正体を教えてくれたのだった。
(――間違いない)
先ほどの「お仕置きプレイ」といい、「ねちっこく」云々といい、まるでブラッドの嫉妬深さとそのブラッドを怒らせたアリスの行く末を知っているかのようなエースの口ぶりが意味するところと言えば、一つだ。
「……わざとなのね?」
「迷子になったのは狙ってのことじゃないぜ? 人聞きが悪いこと言うなあ」
「あんたが迷子にならないことなんてないでしょうよ」
何がわざとなのかエースが訊き返しもしないということは、つまりアリスの推理が当たっていたということだ。
怒りを通り越し、アリスはどうしようもない脱力感に襲われて、がくりと膝をついた。
あまりの疲労感にくらくらと眩暈がする。今アリスが立っていたなら、間違いなく立ちくらみを覚えていたはずだ。
つまり、エースはアリスをわざと迷子にし(迷子にしようという意図がなくても、エースと共にいる以上、エースに巻き込まれて迷子になっただろうが)、アリスの帰宅を引き伸ばした上に、人に誤解されそうなシチュエーションをわざわざ作り上げてくれたというわけだ。その後、アリスがどういう目に遭わされるかを見越した上で。
「あんた……、なんでこんなことしたのよ……」
「ん? 俺には君の言ってることの意味がよく分からないんだけど」
そう前置きして、エースはにっこりと微笑んだ。
「君のことを他の男に持っていかれちゃって、すごく損した気分になったのは確かだな。ま、俺はそんなことで怒ったりはしないけどな。ははっ」
「つまり、怒っているわけね?」
「そんなことないぜ? たしかに君には誰のものにもならないでいてほしかったけど、いざ君が誰か他の男のものになったからって、嫌がらせなんかしたりしないさ。ははっ」
「つまり、嫌がらせだったわけね?」
「さっきから何言ってるんだよ、アリス。俺が怒ってるとか嫌がらせだとか、俺にはさっぱり意味が分からないぜ!」
「…………」
もう何を言っても無駄だとアリスは悟った。もとより、エースの企みが明らかになった後でも、エースをどうこうしようという気はなかったが。
恋愛感情でなく友情だとしても、エースにとって一番大切な女性がアリスだということは、エース本人に言われるまでもなくアリスも事実として感じていることだった。そしてそんなエースが、アリスにとっての自分もそういう立場であればいいと思っていたとしても不思議ではない。
けれど、最初から好意の種類が違っているとはいえ、アリスにとって一番のポジションにつく男はアリスの結婚によって正式にブラッド=デュプレに決まってしまった。
エースが多少の意地悪をしたとしても、アリスがそれを強く責める気になれないのは、もしも自分とエースが逆の立場だったとしたら、自分もまたエースとその伴侶となる女性を少なからず羨やみ、嫉妬したであろうことが分かっているからだ。
(もっとも、私はこんなくだらない嫌がらせはしないけどね)
溜息の特売日のような今日、今までで最高の重みを感じさせる溜息を零し、アリスは意味ありげににじりよってくるエースを冷めた目で睨みつけた――どうしようもないわね、という呆れと諦めを滲ませて。
こんなふうに意味深に距離を詰められても、それはエースのポーズであって、実際にはエースが手を出してこないことは分かっている。もはや互いに友情の域から出ることは考えられないほどに、いささか特殊で奇妙な友情が確固たる形になって出来上がってしまっているのだから。
「ちょっと遅れちゃったけどさ、俺からの結婚祝いだとでも思ってくれよ。刺激があったほうが夫婦生活の肥やしになるってもんだろ?」
「結婚祝いじゃなくて、普通なら離婚問題に発展するわよ」
「えー? そうかなぁ。じゃあ、もしも逆上したブラッド=デュプレに殺されそうになったら、その前に俺が彼を殺してやるから安心しろよな」
とどめを刺すときは剣で切り裂くか銃で撃ち殺すか君に選ばせてやるからさ、と物騒なことを陽気に言ってくるエースはこの世界で誰よりも歪んでいるのかもしれないと、アリスは改めて実感した。
ブラッドが逆上するとしたら、それは紛れもなくエースのせいだというのに。
そもそも、それを狙っての計画だったくせに。
「あんたって、やっぱり……」
――心底黒いわね。
喉元まで出かかったその言葉をアリスは飲み込んだ。
誰より黒いと分かっていて、それでもなおエースとの友情を極めてしまったのはアリス自身だ。
それに、これ以上、余計なことで気力体力を削がれるわけにはいかない。帽子屋屋敷に戻った後に待ち構えている嵐をどうやり過ごすか、それこそが今のアリスにとっての最重要課題。
(最高に怖い男が夫で、最高に腹黒い男を親友に持つ私って……)
そんな自分が誰よりも救いようのない人間のように思えて、アリスは再び重苦しい溜息をついた。
(なのに今はその男たちのせいで、元の世界では感じられなかった幸せを感じているだなんて――、悔しいから、本人の前では口が裂けても言ってやらないけどね)
(2007/06/05)