Alice+Vivaldi (Alice in Heart)


「おまえが、いじめられて快感を覚えるタイプだったとはな」
「はい!?」
「おまえがエムの性癖だったとは知らなかったと言っておるのだよ、アリス」

 アリスがしばらくぶりにハートの城を訪れて、いつものようにビバルディにお茶に誘われて。
 上質のテーブルクロスの上に、それに見合う上質の紅茶と茶菓子がセッティングされ、メイドが去ってからの第一声がそれだった。

「そんな話、私も初耳だわ……」

 世にも美しく世にも傲慢なこの女王様が世にも恐ろしい思考回路の持ち主だということは周知の事実だが、この爆弾発言はあまりにもあまりだった。
 冗談ではない。くらくらする。
 これが紅茶を口にする前でよかったとアリスは心底思う。もしも紅茶を口に含んでいるときだったら、噴き出して、向かい合って座っている女王様にぶちまけてしまっていたかもしれない。そのような無礼をしようものなら、いかにアリスがビバルディのお気に入りであっても、さすがにこの場で首を刎ねられてしまったとしてもおかしくない。
 危ないところだったと胸を撫で下ろしつつ、アリスは勝手に決めないでよと非難するような目を向けるが、ビバルディは平然としたものだ。にこりともせず、かといってしかめ面をするでもなく、あくまでも素の顔をしてアリスをまじまじと見つめてくるビバルディは冗談を言っているつもりはないのだろう。それが分かるからこそ余計にげんなりしながら、アリスは眉をひそめた。

「どうしてそんな話になるの。私にはエムの性癖なんかないわよ」
「あんな、いかにもサディストといった男と結婚するくらいだ。エムでないわけがなかろう」

 アリスの体がぎくりと強張ったのは、自分がエムだと認めたという意味では当然なく、アリスが言おう言おうとしていて、けれどぐずぐずとして言い出せなかったことを、思いがけぬ形で切り出されてしまったからだ。

「……やっぱり知ってたのね」
「敵の動向には常に目を光らせておるからな」

 当然だろうと呆れたような目を向けられて、アリスはなんとなく居心地の悪い心地でビバルディを見上げた。
 たしかにビバルディの言う通りで、彼女がアリスの結婚を、と言うより敵対組織のボスである帽子屋ブラッド=デュプレの結婚を知らないわけがない。アリスとブラッドの結婚式は関係者だけを招いた内輪の式だったが、内輪と呼ぶにはあまりに規模の大きいド派手婚であり、世間に隠れて行ったわけではない。ビバルディが目を光らせていなくても、そしてビバルディでなくても少なくともこの国の有力者には、いやでも情報は伝わっているはずだ。

「……怒ってないの?」
「何を怒るのだ?」
「いや、だから、ビバルディに何の相談も報告もなく結婚しちゃったこととか、私の結婚相手がビバルディの長年の敵だとかいうことに」
「それで何故わらわが怒らねばならん」
「何故と言われても。結婚式に参列してもらうのは無理でも、親しい友達に結婚報告されなかったら普通なら面白くないんじゃない? しかもその結婚相手が自分と殺しあっている人物だなんて、すごく複雑だと思うし。……私だって、もしかしたらビバルディに『これからは敵だから、もうおまえとは付き合えない』って言われるんじゃないかと不安だったくらいで」

 常識的な感覚の持ち主であれば普通はそう思うはずで、だからこそアリスはなかなかハートの城に足を運ぶことが出来なかった。
 しかし幸いと言うべきか、ビバルディはブラッド同様非常識で、良くも悪くも大物だ。だから実際のところは、アリスが敵の妻になったからといってたいしてこだわらないだろうという予想はついていたのだが――それでも、やっぱり、もしかしたら、という一抹の不安が拭えず、それなりに思い悩んでしまったのはアリスの性分というものだ。
 それなのに、ビバルディには悩んだ形跡などこれっぽっちも見られないどころかアリスの心配など思いつきもしなかったようで、アリスはほっとしたような、それでいて肩透かしを食らったような、複雑な心境になる。

「わらわは何かをするとき、人に相談も報告もせぬ。おまえも、したいことをしたいようにすればいい。それに、今までだっておまえは帽子屋の世話になっていたではないか。そのおまえが今更帽子屋と結婚しようが、わらわたちの関係は変わらぬよ」
「や、まあ、そう言ってもらえるのは有難いんだけど。敵方の一介の居候と妻じゃ、ちょっと違うんじゃないの? ブラッドと結婚したといっても私自身は今までと何ら変わりないけど、普通は敵の身内とは仲良くしないものでしょう?」
「わらわが始末したいのはトップだけ、つまり帽子屋であって、おまえではないからな。おまえとて、帽子屋の妻となったからといって、わらわの首を狙ったりはせぬだろう?」

 それはそれで楽しそうだがな、と不穏なことをあながち冗談とも思えぬ様子で(むしろ、うっとりしながら)言ってのけるビバルディに、アリスはがっくりと肩を落とした。早くも疲れがどっと押し寄せてきたような気がする。

「左様ですか……」

 こうやって遅ればせながらの結婚報告にやってきても、アリスはいざビバルディを前にして、さてどう切り出すべきかとなかなか踏ん切りがつかなかったというのに。そういう性格とはいえ、あれこれ気を揉んでいた自分が今更ながらに馬鹿らしくなってくる。
 ビバルディに普通の感覚を求めるのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。常識的なことに囚われず、思うがままに振舞うことのできる性格が羨ましいと、嫌味なのか本音なのか自分でもよく分からないことをぼんやり考えているアリスの前で、ビバルディが湯気の立つティーカップを手に取った。
 白磁の白とビバルディのマニキュアの赤の対比がアリスの目に鮮やかに映る中、ちらり、とつまらなさそうな視線を向けられ、アリスは心の中で身構える。

「それにしても、だ」
「……なによ」
「おまえの趣味の悪さには、ほとほと呆れるわ。いじめられるのが快感でないのなら、あんな男のどこが良くて結婚などしたのじゃ」

 どこって。
 アリスは言葉を詰まらせた。
 アリスがブラッドのことを好いているのは事実だが、どこが好きかと言われると非常に困る。なにせアリス自身、いまだに明確な答えを持っていないのだから答えようがない。
 ブラッド=デュプレは男前で頭脳明晰、地位も権力も財力も兼ね備えた一見完璧な男のように見えるが、彼の本質はそれらを全てぶち壊しにして余りあるほどの大悪党だ。とにかく非常識で、我侭で、気まぐれで、身勝手で、自己中心的で、相手の気持ちなどお構いなしに自分のしたいことをしたいときにする。自分の欲求の前では、プロポーズするほどに執着していたはずのアリスの気持ちさえ二の次にするくらいに。

(考えれば考えるほどに最悪な男だわ……)

 自然、ブラッドの滅茶苦茶なプロポーズが思い出されて、アリスの鼻に皺が寄る。今更ながら、本当にあんな男のどこが良かったのか自問したくなる。

「おまえは、男の地位や財産に目が眩む女ではないだろう。とすると、体か? 奴の体が、そんなに肌に馴染んだのか?」
「……ちゃらっと爆弾発言をしないでくれないかしら」

 またしても突拍子もない発言にくらくらさせられて、無作法だとは分かっていても、テーブルに突っ伏したくなってくる。ビバルディはあまりにさばけすぎだった。

「うん? 体の相性は一番大事なことじゃぞ?」
「……一番てことはないでしょうよ」

 たしかに、そこそこ大事だけど……と、もごもごと呟くあたり、アリスは初心であり、また初心ではないと言えた。

「ならば、やはり奴の体が良くて結婚したということなのだな?」
「お願いだから、強引に結論付けないでくれない? プロポーズを断ったのに聞き入れてくれなかったのよ。なし崩し的に結婚させられただけで、私が結婚を望んだわけじゃないわ」

 ビバルディに対する脱力と呆れに任せて口走ってしまったが、すぐにアリスは後悔した。アリスの言っていることは真実だが、アリスのような平凡な小娘がブラッドのような男から求婚されたなどと、他の者からすれば俄かには信じ難いだろう。信じてもらえないだけならまだしも、自分がとんでもない勘違い女のように思われるのだけは嫌だ。

「ふむ。奴は人の話など聞かんからな」

 さもありなん、と真顔で頷いてから、ビバルディはにやりと口の端を吊り上げた。

「しかし、そうか。奴め、おまえに求婚を断られておったのか。やはり不甲斐ない男よの。見掛け倒しもいいところじゃ」

 アリスの心配をよそに、どうやら嘲る対象はアリスではなくブラッドのほうだったらしい。
 ククッと喉の奥を鳴らし、実に意地の悪そうな顔で毒づいているビバルディを尻目に、アリスはぐったりしながらティーカップを手に取った。口元を掠める湯気と鼻腔をくすぐる爽やかな香りが心地好い。そろそろ頃合だろう。
 この、なんとも言いがたい疲労感を癒すには、おいしい紅茶を楽しむのがいい。それに、紅茶を口にしていれば、ビバルディが何を言いだそうと返事をしなくて済む。
 そうだ、ビバルディがこの先何を言いだそうと、一人でティータイムを決め込んでしまえばいい――そう決意してカップを口元に運び、その芳醇な液体が喉を潤した瞬間、アリスはかすかに首を傾げた。

(……あれ?)

 さらにもう一口、アリスが紅茶を口にする。

(やっぱり、これって)

「アリス、どうかしたのか?」

 訝しそうに声をかけられ、アリスは我に返った。

「ううん、なんでもないわ」
「口元がにやけておるぞ?」
「紅茶が、想像していた以上においしかっただけよ」

 「もう、気づいているのよ?」という意味を込めて、わざと意味ありげに微笑んでやっても、ビバルディは一呼吸だけ押し黙ったものの、その澄まし顔は崩れなかった。実際のところは、ビバルディはアリスがこの紅茶に隠された意味に気づかないだろうと高を括っていたのだろう。それが、こうやって見破られたにも関わらず動じないのはさすがだと思う反面、アリスは内心で微笑ましい気持ちになった――本当に捻くれているんだから、と。

「なら、後で茶葉を用意させるから、土産に持って帰ればいい」

 その声音がいつもよりも少しぶっきらぼうに聴こえたのは、アリスの気のせいではあるまい。そして今、アリスの胸がほこほこしているのは、この紅茶を飲んだからであって、だけど温かい飲み物を飲んだからではないということも分かっている。
 アリスは苦笑したいのを我慢して、ありがとうと一言だけ礼を言った。
 ふん、と鼻を鳴らして目をそらしたビバルディは、どこかあどけなくて少女のように見える。
 もしかして照れているの? とビバルディを少しつついてみたい気はしたが、この女王様をからかうと後が怖いことを知っているから、アリスはにやにやしてしまいそうな顔を引き締めることに専念することにした。

「ほんに、おまえは趣味が悪いよ」

 そんな空気を変えたかったのか定かではないが、ビバルディは皮肉と嫌味を詰め合わせたような顔で深い溜息を吐き、わらわはああいう取り澄ました男は好かんがな、とさらに毒を吐き続ける。
 けれど、その形の良い唇からどんなに皮肉が紡ぎ出されようと、その美貌がどんなに嫌そうな表情を作っても、口で言うほどにはビバルディがアリスの結婚を不快に思っていないことはすでに明らかだ。
 愛しいものを見るかのようにカップの中身に視線を落とすと、アリスの口元は自然と綻んだ。

(フラワリー・オレンジ・ペコー)

 カップに沿って金色の環を作り出しているその紅茶は、ただの紅茶ではない。渋み、甘み、酸味のバランスが絶妙で、飲んだ後はいつまでも香りが鼻腔にたなびき、まろやかで深みのある後味が見事としか言いようがない、極上のさらに上を行く紅茶だった。
 アリスにとって、覚えのある味であり、忘れたくても忘れられない紅茶でもある。その極上の風味もさることながら、普段は鷹揚として澄ましているブラッドから正気を失わせ、メルヘンの世界に旅立たせたほどの代物なのだ。
 アリスがこのブレンドを味わったのは舞踏会でのただ一度きりだったが、なるほど、ブラッドがおかしくなるのも無理はないと感心したほどの味わい深さだった。
 帽子屋屋敷にもハートの城にも秘伝のブレンドがあり、特別な催し物でもない限り、決してお目にかかれないという逸品。
 それが今、アリスの前に惜しげもなく振舞われている理由など一つだ。
 それに気づいてから改めてテーブルを眺めてみれば、なるほどアリスが特に好む茶菓子ばかりが揃えられているのだから、アリスの口元はますます緩むばかりだ。
 口では散々な皮肉を言い続ける女王様の本音が、そこにはあった。
 ――この上もなく、アリスは祝われている。

「帽子屋はいけすかない男だが、金だけは有り余るほど持っておる。搾り取れるだけ搾り取って、飽きたら捨てておしまい」

 アリスが見上げた先には、いつも通りの皮肉気な微笑がある。
 しかしその笑みは、どれほどに慈愛に満ちた優しい笑顔よりも、アリスにはよほど心地好く感じられた。捻くれた者同士だからこそ味わえる、どこか不健全な同族意識のようなものかもしれない。

「帽子屋に飽きたら、まずはわらわに相談おし? 後腐れのないように、わらわが奴を始末してあげる」
「そうね、せっかくだから、そのときはお願いしようかしら」
「ああ、遠慮はいらぬよ」

 女二人、悪巧みをする子供のように笑いあう。

「ありがとう、ビバルディ」

 ビバルディはアリスの姉とは似ても似つかない女性だ。
 それなのに、今ビバルディと過ごすこの時間は、アリスが姉と過ごしていた日曜の午後の時間にどこか似ている――。


 アリスはそんなことを考えながら、再びゆったりと紅茶に口をつけた。







Happy wedding,Alice!(& Blood)

〜ビバルディ編〜
(2007/06/15)





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