Alice+Nightmare (Alice in Heart)


 これは夢だとアリスははっきりと自覚している。
 どこを見ても同じ風景。常にぼんやりとした光に包まれた世界は美しくもなく、けれど不思議と醜いとも感じられず。視界の先には果てがなく、けれど閉塞した空間。
 引き篭りで病弱な夢魔の領域にアリスが足を踏み入れるのは、随分と久々のことだった。
 相変わらず顔色の悪い夢魔が、そこにいた。

「なんだ、ちゃんと生きてるんじゃない。芋虫、じゃなかった、蓑虫って案外しぶといのね」
「久しぶりだというのに御挨拶だな、アリス」
「御挨拶にもなろうというものだわ。あんたがあまりに姿を見せないから、喪服を準備しなきゃいけないのかと本気で考えていたところよ」
「相変わらず、酷いことをさらりと言うね」
「酷いのはあんたも同じでしょ。死んだなら葬儀の案内を、生きてるなら定期的に生存報告をしてちょうだい」
「生存報告はともかく、葬儀の案内を自分でするのは無茶な話だと思わないか?」
「無茶で結構。私からは自由に会いに来られないんだから、少しくらい気を使ってくれと言ってるのよ。……これでも心配してたんだから」

 そう、アリスは本気で心配していた。いつもは呼ばれずとも勝手に夢の中に現れるくせに、ある時期を境にとんと音沙汰がなくなってしまった友人の安否を。
 これが他の友人相手なら、直接様子を見に行くか、あるいは今は忙しいのだろうと見当をつけてある程度楽観的に構えることができるが、ナイトメアの場合は事情が違う。彼はしょっちゅう吐血している病人で、いつ死んだとしても不思議はない。様子を見に行きたくても、アリスから彼の扉を叩く事は出来ないときている。
 ナイトメアの生存を確認できた今、ずっと心配させられていた反動でつい険のある態度をとってしまったが、とうとう彼が死んでしまったのではないかと気が気でなかったのだ。
 だけどこうしてナイトメアは生きている。ぴんぴんしているとはお世辞にも言えないが、とりあえずは元気そうだ。(見るからに具合が悪そうだが、彼はいつもこんな調子だから問題ないだろう)
 それならばこんなにも長くアリスの前に現れなかったのは何故だろう。ナイトメアは常軌を逸した病院嫌いだから、入院していたわけでもないはずだ。

(ということは、もしかして)

 自分は故意に避けられていたのだろうか、とアリスは思いあぐねた。これまでに何度も病院に行けと迫り、あんたはどうしようもない駄目男だと散々言い続けた結果なのだろうかと。
 アリスの心を読んだナイトメアは苦笑した。

「違う、そうじゃないよ、アリス。私が君の夢に現れなかったのは、病状が悪化したわけでも君を避けていたわけでもない。君の夫のせいだ」
「は?」
「ブラッド=デュプレが、私と君が夢で会うのを妨害していたんだ」

 目を瞬いたのはほんの一瞬。アリスは軽い頭痛を覚え、額を押さえていた。
 思いがけない話であっても、ありえない話ではない。ブラッドの嫉妬深さが半端でないことは、妻であるアリスが誰よりもよく知っている。ブラッドがいかにしてそれを為しえるのか見当もつかないが、自分の夫ながら底が知れないあの男ならやりかねない、むしろ妨害できるものならば積極的に妨害するだろうと早くも納得してしまっている自分が嫌になる。

「領主は自分の領土内では絶対的な力を持つということを知っているかい?」
「どういう仕組みかは知らないけど、そういう話らしいわね」

 この世界の住人と結婚することによって、余所者でありながらもこの世界の住人となったアリスだが、この世界については未だに分からないことも多い。
 この世界で領主と呼ばれる立場にある者たちは、時として摩訶不思議な力を使う。たとえば手を叩いただけで大勢の人間を一瞬で着替えさせたり、しっかり施錠されているはずの扉を鍵を使うことなく開けたりするのをアリスは実際に目の当たりにしている。そしてそれをやってのけたのは、この国の領主の一人、アリスの夫であるブラッドだ。

「夢は私の領域だが、領主の支配が特に強い場所、つまりその本拠地では彼らの力が勝る」
「でも私、今までだって帽子屋屋敷で眠っていたわよ?」
「それは君に与えられた客室での独り寝、だろう? 今君は、夜毎ブラッド=デュプレと同じベッドで彼に抱きしめられて眠っている」
「………………へぇ……」
「つまり君は、帽子屋の力が一番強く働く場所で、直接彼に守られているということに……って……アリス……?」
「なあに?」

 クールな教師気取りで解説を続けていたナイトメアは、アリスの声に抑揚がなくなっていることにここでようやく気づくのだった。声だけでない。とびきりの美少女でなくても相応に可愛い顔から、表情という表情の一切が失われている。
 ぴしり、とナイトメアの体が固まった。彼は、自分を無表情に見つめる少女の体から冷ややかなオーラがゆらりと立ちのぼるのを、たしかに見たと思った。

「いや、その。なんだか、目が……怖い……ぞ……?」
「見たことのないはずの他人の寝室を、まるでその目で見てきたかのように話す蓑虫さんの想像力に感服しているだけよ」

 アリスがにこりと微笑むと、ただでさえ青白いナイトメアの顔からさらに血の気が失われていく。喩えるなら、とびきり太い針の注射器を目の前にちらつかされ、逃げられないよう体を押さえつけられた時の心境に似ている。

「それとも、逞しい想像力を働かせたというわけではないのかしら?」

 口元は笑みの形が刻まれているのに、アリスの目は全く笑っていなかった。我知らずナイトメアは自分の体を抱きしめていた。全身を侵食していくこの怖気は病によるものなのか、それとも――。

「心を読めるだけじゃなくて、どうやら素晴らしい千里眼までお持ちのようね、ナイトメア……」
「ごごごご誤解だっ! 私は覗き見なんかしてないぞ! 新婚夫婦のあれこれを覗くなんて、そんな破廉恥な行為は断じてしていないっ。本当だっ!」
「ふぅん? そのわりにやけに具体的に語るわよね。ブラッドが夜毎私を抱きしめて眠っている、とか」
「私の介入がああも完全に防がれているということは、つまりはそういうことだろうと推測しただけだ!」
「憎らしいほど的確な推測だこと」
「う、嘘じゃないっ! 本当だったら本当だ!」

 夫顔負けの絶対零度の威圧感を放ち続けるアリスに慄きながら、その後もしばらくナイトメアは必死に弁解を続けた……滅多に大声を出さない男が大声でまくしたて、最後に激しく咳き込み、大量に吐血するに至るまで。
 夫婦の寝室を覗かれて喜ぶ趣味などないアリスとしては、ナイトメアを深く強く追求し、とどめに「他人の心の中を覗き見し放題なのは破廉恥な行為ではないのか」とつっこんでやりたいのは山々だったが、さすがに目の前で死なれては寝覚めが悪いので、今後出歯亀な行いをしようものなら体中に極太の注射を打ちまくってやると脅しをかけることで、ひとまずこの場は収めてやることにした。

 ナイトメアの説明を簡単にまとめると、ブラッドがその意志を持ってアリスのそばにいるときは、ナイトメアはアリスに近づけないということらしい。
 言われてみればたしかに、ブラッドの部屋で彼と過ごした夜にナイトメアが現れたことは一度もない。舞踏会が行われた後の頃は、アリスが眠る隣には常にブラッドがいた。これも、ナイトメアが姿を見せなくなった時期と合致する。
 今日ここでアリスがナイトメアと出会えたのはブラッドが仕事で屋敷を空けているから、ということらしい。

「じゃあ、ブラッドが邪魔する限り、ナイトメアとはこれからも自由に会えないってこと?」
「そういうことになるな」

 大きな仕事でも入らない限り、今まさに蜜月なブラッドがアリスを独り寝させることはないように思われた。ナイトメアは大切な友人だから自由に会わせてくれと頼んだところで、ブラッドはきっと耳を貸さない。それどころか、アリスとナイトメアの仲を本気で邪推しかねない。
 そうするとアリスはブラッドの不在を狙ってナイトメアと会うしかないが、夫の目を盗んで他の男と密会するなど、事実はどうあれ本物の不義密通のようではないか。
 ナイトメアは間男ではない。なぜ友人と会うのに、本来しなくていいはずの苦労をしなくてはならないのか。誰と会おうが、そもそもアリスの自由であるはずなのに、アリスを自分のものだと認識しているブラッドはアリスに自由を与える気は毛ほどもないらしい。
 あまりの理不尽さにアリスは本気で頭を抱えたくなった。

「最悪だわ。どこまで独占欲が強くて横暴で狭量なのよ、あの男は……」
「そう言ってやるものでもないよ、アリス。君の夫が独占欲の権化で横暴で狭量なのは否定しないが、それも全て君への愛情ゆえだ」

 愛情表現は歪んでいるけどね、と笑うナイトメアは、皮肉を言いながらもブラッドを本気で皮肉っているようには見えない。意外な気がしてアリスは小首を傾げる。

「いやにブラッドの肩を持つのね」
「別に帽子屋の肩を持つつもりはないが、彼の気持ちも分からないでもないからね」
「……なによ、それ」

 声が尖る。まるで「君に非がある」とでも言われているようで、アリスは眉を顰めた。
 たしかにアリスには男性の友人が多いが、ブラッド以外の男性は全て、文字通りの友人だ。アリスにやましいことなど何もなく、責められるべきは、どう考えてもブラッドのはず。

「心の内はどうあれ、君は冷めているし素っ気ない。君がどれだけ夫を愛しているのかを本人に伝えてやらないから、彼は不安になる。だから妻を過度に束縛しようとする。なら、他の男に嫉妬する必要などないのだと安心させてやればいい。あの手の男は、宝物を独占していないと不安になるのさ」

 心の内はどうあれ、とか。アリスがどれだけ夫を愛しているのか、とか。
 むず痒くて途中で口を挟みたい気分になったが、アリスは堪えた。この期に及んで夫を愛していないとはアリスには言えない。この世界に引きずりこまれてから今現在に至るまでのブラッドへの気持ちは、人の心を読んでしまう厄介な夢魔には全て知られてしまっている。
 ナイトメアは、たまには素直な気持ちを言葉や態度で示してやればいい、と事も無げに言うが、結婚の宣誓さえしなかったアリスにとっては、それは簡単なことではない。夫に愛を囁き、甘えるなど、誰が見てもアリスのキャラではなかった。だからそんな気色の悪いことは無理だと告げると、ナイトメアはアリスが耳を疑いたくなるようなことを提案した。
 今からアリスにブラッドの夢を見せるから、夢の中のブラッド相手に素直に振舞う練習をしてみろと。そして、うまく練習が出来たら、今度は現実のブラッド相手にそれを実践してみればいいと。それが、ブラッドを軟化させる第一歩になるはずだと。

「大丈夫。私は君の練習風景を覗き見したりしないよ。だから存分に夢の中の夫に愛を囁くなり甘えるなりすればいい」
「何をふざけたことを」

 アリスが目を剥いた瞬間、ナイトメアの輪郭がぼやけ、姿が薄くなっていく。どうやら、好き勝手な提案をするだけしておいて、自分はさっさと退場するつもりらしい。

「ちょっと待ちなさいよ! ナイトメア!」
「良い夢を、アリス」

 姿が完全に空気に溶け込む寸前にそれだけを言い残して、ブラッド同様人の話を聞く耳を持たないナイトメアは夢の狭間から居なくなってしまった。それと同時にアリスの視界が暗転し、世界が切り替わる。
 アリスが目をつぶって次に目を開けたら、目の前には見慣れすぎた男の顔があった。

「ブラッド……」

 アリスの意志などそっちのけで、ナイトメアは自分が用意した新たな夢の世界にアリスを引きずりこんだらしい。不本意なことだが、どうせしばらくは目が覚めないのだろうから、アリスは早々に諦めるしかなかった。
 ひとまず現状を把握するために視線を左右に軽く巡らせると、そこはいつもの夢の狭間ではなくブラッドの私室だった。より正確に言うなら、アリスはブラッドのベッドで寝ていて、ブラッドはそのベッドの端に腰掛けてアリスの顔をじっと見下ろしている。
 ナイトメアの宣言どおり、アリスの夢の中にブラッドが登場したように、やはりナイトメアの宣言どおり、夢魔の姿はそこにはない。
 アリスは視線を再びブラッドに戻し、憎たらしいほどに整った顔をじっと見つめた。切れ長の緑の瞳、すっきりとした鼻梁、形の良い、薄い唇。夢の中でも現実のそれと全く変わらない、文句なしの容貌。

「褒めるのは癪だけど、顔だけは本当にいいのよね……」

 アリスは深い溜息とともに独語した。本人を前にしての発言であっても、このブラッドは本物ではないのだから、何を口走ろうともこれは独り言のはずだ。
 そう、これは夢魔が作り出した、偽りの夢の世界。そう思うと、少しだけ大胆になれる気がした。気が緩んだ、と言ったほうが正しいかもしれない。夢の中のブラッド相手に愛情を示す練習など、勿論するつもりはない。だけど夢の中なら、ブラッドに警戒心を抱くことも、虚勢を張って気負うこともしなくて済むのだから。
 アリスはベッドに寝そべったままブラッドの首に両腕を絡め、彼の体を引き寄せた。ブラッドは一瞬目を瞠ったが、されるがままで、アリスに折り重なるようにして二人の距離が縮まる。
 アリスは自分の好きな顔が間近にやってきたことに満足しつつ、改めて端整な顔をまじまじと眺めた。

「というか、顔以外褒めるべき点なんて見当たらないわよね。気分屋だし、意地悪だし、自分本位だし、狭量だし……私のことなんか、ちっとも信用してくれないし」

 自分で言っていて最後の言葉に傷ついたアリスは、目の前にある顔を睨んでから、もう一度深い溜息をついた。ナイトメアはブラッドの束縛を愛情だと言ったが、アリス自身はそれが愛情なのか独占欲なのか判別がつかない……もしかしたら、ブラッドにとってはどちらも同じなのかもしれないけれど。

「私って、そんなに軽い子に見えるのかしら……。そりゃあ、ふらふら出歩いているのは認めるけど、同時に何人も好きになれるほど私は器用じゃないわよ。だいたい、他に類を見ない我侭男一人を相手にするだけで手一杯なのに、余所見できる余裕なんてあるわけないじゃないの。頭はいいはずなのに、そんな簡単なことがなんで分からないのよ、あなたは」

 「たまには愛情を示してやれ」もなにも。ブラッドと関係を結んだ時から今に至るまで、アリスが彼から離れようとしなかった理由を考えれば、今更愛情を示すまでもないだろうとアリスは思う。それなのに、どうして男という生き物はそれを察してくれないのか。どうして気持ちを疑うのだろうか。

「少しは信用しなさいよ……いつまでも信じてもらえないなんて淋しいじゃない……」

 ブラッドの首に巻きつけた腕に力を込め、ブラッドの肩口に顔を埋めて、アリスは消え入りそうな声で呟いた……現実のブラッドと同じ薔薇の香りに酔うように、瞳を伏せながら。

「……アリス」
「え?」

 どことなく上ずったような声が降ってきて、アリスは目を上げた。至近距離にあるブラッドの顔は冷たい印象を与える造作をしているはずなのに、今はそのように感じられない。きっと、頬が赤く染まっているせいだ。そして、どこか落ち着かない様子でアリスを見下ろしているせいだ。
 ブラッドにつられて、アリスの頬も、うっすらと赤みを帯びる。顔が、熱い。
 アリスはブラッドを見上げたまま。ブラッドはアリスを見下ろしたまま。ベッドの上で折り重なったまま固まっている二人の間に奇妙な沈黙が落ちる。

(なんで……赤くなってるの?)

 これは夢だ。そして、目の前のブラッドは夢の産物のはずだ。それなのに、アリスから視線を外さないブラッドは、妙に生々しい気がする。なんだか無性にいたたまれない。これは現実ではないはずなのに、体はリアルに緊張して汗ばんでくる。ブラッドにしがみついている腕を今すぐ離して、今すぐこの場から逃げなければならないような気がして、アリスは身じろごうとした。
 しかし、それは叶わなかった。アリスに体重をかけないようにベッドに肘をついていたはずのブラッドの腕がアリスの背中に回され、アリスを強く抱きしめたからだ。

「アリス」

 熱い息を直接耳に落とされ、アリスの体は戦慄いた。

「アリス」

 もう一度、熱くて普段以上に艶を滲ませた声で名を呼ばれ、力加減を完全に忘れたかのように、さらに強く抱きしめられる。アリスのささやかな胸の膨らみはブラッドの硬い胸板に押し潰され、アリスはその圧迫感と痛みと、そしてそれ以上に嫌な予感のせいで一瞬気が遠くなった。

(嘘でしょう?)

 ナイトメアは夢だと言った。これが夢でないなんて、ありえるはずがない。絶対に、あってはならない。
 だけど哀しいかな、聡明さが幸いしてかあるいは災いしてか、混乱した頭でもアリスは正しい結論を導くことが出来てしまった――これは紛れもない現実だと。
 骨が軋みそうなほど強く抱きしめられた痛みも。隙間なく密着したブラッドの体と、吐き出される吐息の熱さも。アリスの体を性急にたぐり始めている、大きな手の感触も。
 夢であるはずがない。間違えるはずがない。
 ブラッドに与えられる熱と感覚を嫌というほど刻み込まれているアリスの体が、これは生身のブラッドだと断言している。
 アリスはぎゅっと目を閉じた。

(ナ、ナイトメア……っ)

 心の中で呪うように名を呼べば、それに呼応して、アリスにとんでもない悪戯を仕掛けてくれた夢魔の声が耳の奥に響いた。

(前に言ったことがあるだろう? 目が覚めたら、それは現実だと)

 ――遅くなってしまったが、私からの結婚祝いだよ。

 直接アリスの頭の中にメッセージを残すだけ残して、賢明な夢魔はアリスに詰られる前に早々にこの場から引き揚げてしまった。残されたアリスは歯噛みするしかない。

(何が祝いよ、この嘘つき芋虫! それに、覗かないとか言っておきながら、今もちゃっかり覗き見してたんじゃないの!)

 言いたいことは山ほど。だけど実際にナイトメアを罵って殴って蹴ってこれでもかというほど血反吐を吐かせて、その後に宣言通り極太の注射を体中に突き刺してやるのは、次の機会にまわすしかない……当分の間、アリスに覆いかぶさって蔓のように絡み付いているブラッドからアリスが解放されることはないだろうから。
 今はただ、事が終わった後、どんな顔をしてブラッドの顔を見ればいいのかを考えることが先決だった。
 一度発してしまった言葉は取り返しがつかない。さっき口走ってしまったことを思い出そうとするだけで、アリスは裸足で逃げ出したい心境になる。信じてほしいだの、私にはあなただけだの、アリスにとって致命的なことばかりを選んだように口にしていたような気がする。
 アリスは夢を見ていたつもりだったが、「寝ぼけていました」ではブラッドには通用しないだろう。頭の中では、どうしたらいいの、どうしたらいいの、と同じ言葉がぐるぐると回っているのに、結局のところ、いくら考えてもどうしたらいいのかアリスには分からない。

「アリス」

 今度は、やけに甘ったるい声をかけられて、アリスの肩がびくりと震えた。ブラッドがこちらを見ている。アリスは顔を可能な限りブラッドから背けているが、肌に突き刺さるような視線でそれを感じ取れる。
 ちりちりと肌が痛む。ブラッドの視線に焼かれるようだ。

「こっちを向いてくれないか、アリス」

 ブラッドらしくない、蕩けるように優しい声をかけられても、今のアリスにはやはりブラッドを正視する勇気はない。アリスの好きな顔を、アリスは今だけは見たくないと思った。見てしまったら最後、またしても自分らしくないことを口走ってしまいそうだから。
 いまだかつて経験したことのない羞恥心とブラッドの熱のこもった視線のせいで、心も体も焼き尽くされてしまいそう。
 全てに目を閉じてしまいたいアリスは、実際に目を閉じるしかなかった。少なくともこれで、ブラッドに力ずくで顔を正面向けられたとしても、ブラッドの顔を見なくて済む。
 たいした抵抗にならないのは分かっていても、それがアリスが今できる唯一のことなのだから仕方がない。





Happy wedding,Alice!

〜ナイトメア編〜
(2007/10/03)





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